シャローム!
通読は続いていますでしょうか?ついに、今回の通読の最後となりました。皆さま、1年間通読ご苦労様でした。そして、また新しくシーズンへと導かれていきます。新しい1年もみことばと共に歩みましょう。
黙示録は「難しそう」「怖そう」と感じて、なかなか手が伸びなかった方もいらっしゃるかもしれません。けれども黙示録は、恐れを与えるための書ではありません。迫害の中にあった教会を励ますために書かれた、希望の書であり、賛美の書簡です。
黙示録とはどのような書物か
「黙示」はギリシャ語で ἀποκάλυψις(アポカリュプシス)。「覆いを取り去る」「隠されていたものを明らかにする」という意味です。そして書の冒頭は、こう始まります。
「イエス・キリストの黙示」(1:1)
つまり黙示録は、終末の出来事の予定表である前に、イエス様ご自身が誰であるかを明らかにする書なのです。
この書簡の著者は使徒ヨハネです。紀元1世紀の終わり頃、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代に、信仰のゆえにパトモス島に流されていたヨハネが、主の日に御霊に感じて幻を受けました(1:9-10)。
当時の教会は、皇帝礼拝を拒んだために迫害を受け、少数で弱く、先の見えない状況に置かれていました。そんな彼らに向けて、神は天の幕を開き、「本当に世界を治めているのは誰か」を見せてくださったのです。
黙示録は大きく次のように進んでいきます。
1〜3章:栄光のキリストの幻と、七つの教会への手紙
4〜5章:天の王座と、ほふられた小羊
6〜16章:七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢による裁き
17〜20章:バビロンの滅亡とキリストの勝利
21〜22章:新しい天と新しい地
なお、黙示録の解釈には、教会の歴史の中でいくつかの立場があります。書かれた当時の出来事として読む見方、教会の歴史全体を描いたものとして読む見方、終わりの日に起こることとして読む見方、霊的な戦いの象徴として読む見方などです。しかし、どの立場に立つにしても、中心にイエス様の勝利があるという点は共通しています。
黙示録は大きく下記の4つに分類することが出来ます。
① 七つの教会への手紙(2〜3章)
小アジアの七つの教会に、イエス様から手紙が送られます。称賛と叱責、そして招きが記されています。
エペソの教会には「あなたは初めの愛から離れてしまった」(2:4)、ラオデキヤの教会には「あなたは冷たくもなく、熱くもない」(3:15)。耳の痛い言葉ですが、同時にこう招かれます。
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(3:20)
② 獅子は、小羊だった(5章)
黙示録の心臓部とも言える場面です。
天の王座におられる方の手に、七つの封印で封じられた巻物がありました。しかしそれを開くにふさわしい者が見つからず、ヨハネは激しく泣きます。すると長老の一人が言います。
「泣いてはいけません。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、その巻物を開くことができます」(5:5)
ヨハネが振り返って見ると、そこにいたのは獅子ではありませんでした。
「私は、御座の中央に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」(5:6)
勝利した獅子は、ほふられた小羊だった——これが黙示録全体を貫く逆説です。イエス様は武力によってではなく、十字架の上でご自身をささげることによって勝利されました。歴史を開く鍵は、十字架にあるのです。
③ 第七のラッパ(11章)
先日、ラッパの祭りについて学びました。黙示録8〜11章には七つのラッパが登場し、その最後、第七のラッパが吹き鳴らされるとき、天でこう宣言されます。
「この世の王国は、私たちの主とそのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される」(11:15)
イスラエルが毎年角笛の音を聞いて主の前に出たように、私たちもまた、最後のラッパの音とともに、主の王としての支配が完成する日を待ち望んでいます。
④ 新しい天と新しい地(21〜22章)
黙示録の結末は、破壊ではなく再創造です。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。…神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(21:3-4)
ここで「幕屋」と訳されている言葉は、ギリシャ語で σκηνή(スケーネー)。仮庵、天幕を意味する言葉です。ちょうど今、イスラエルは仮庵の祭りの期間を迎えています。荒野で仮庵に住んだイスラエルの民の記憶は、やがて神ご自身が人と共に永遠に住まわれる日の預言へとつながっていくのです。
そして22章には、いのちの木が再び現れます(22:2)。創世記でエデンの園から失われたいのちの木が、聖書の最後のページで回復されている——聖書は、創世記で始まった物語を、黙示録で美しく閉じているのです。
黙示録には恐ろしい裁きの場面も多く描かれています。けれども、その中心に立っておられるのは、いつも小羊なるイエス様です。
七つの教会の間を歩まれる、栄光のキリスト(1章)
歴史の巻物を開かれる、ほふられた小羊(5章)
白い馬に乗って来られる、王の王、主の主(19章)
すべてを新しくされる、アルファでありオメガである方(21〜22章)
「見よ、わたしはすべてを新しくする」(21:5)
迫害の中にいた教会にとって、これは何よりの慰めでした。目の前の帝国がどれほど強大に見えても、最後の言葉を語られるのはイエス様なのです。
皆さんは今、先の見えない不安の中にいるでしょうか。
黙示録は、私たちに未来の細かな予定表を与えるのではなく、未来を握っておられる方が誰であるかを見せてくれます。
「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である」(1:17-18)
そして聖書は、この祈りで閉じられます。
「アーメン。主イエスよ、来てください」——ヨハネの黙示録 22:20
マラナ・タ(主よ、来てください)
今週も皆さまがみことばと共に歩まれますように。
【今週の通読】
●Day 361:ヨハネの黙示録 4章-7章
●Day 362:ヨハネの黙示録 8章-11章
●Day 363:ヨハネの黙示録 12章-15章
●Day 364:ヨハネの黙示録 16章-19章
●Day 365:ヨハネの黙示録 20章-22章
●Day 001:創世記 1章-2章
●Day 002:創世記 3章-5章

