シャローム!
今週からレビ記の通読が始まります。おそらく、レビ記は通読の途中で多くの方がつまずいてしまう書物のひとつなのではないでしょうか。いけにえの手順、祭司の規定、きよい動物と汚れた動物の区別……「これが今の私と何の関係があるのだろう」と感じる方も多いかもしれません。しかも、それらが何度も繰り返されるように感じます。
しかし、レビ記をイエス様の十字架という光の中で読むとき、この書は驚くほど豊かな福音の書として開かれてきます。
レビ記とはどのような書物なのでしょうか。
ヘブライ語聖書では、この書は冒頭の言葉から 「ワイクラー(そして主は呼ばれた)」 と呼ばれています。
「主はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた」(1:1)
先週読んだ出エジプト記の最後では、主の栄光が幕屋に満ち、モーセでさえ中に入ることができませんでした(出エジプト記40:35)。そこで神ご自身が、幕屋の中から呼びかけてくださったのです。
レビ記全体が答えようとしている問いは、ひとつです。「聖なる神が、罪ある民の真ん中に住まわれるには、どうすればよいのか」。レビ記は、神が人を拒むための規則集ではなく、神が人を招くための道なのです。
ささげ物──「近づく」ための贈り物(1〜7章)
レビ記はさまざまなささげ物の規定から始まります。「ささげ物」はヘブライ語で קָרְבָּן(コルバン)。これは 「近づく」(カラブ) という言葉から来ています。
ささげ物とは、神のご機嫌を取るための取引ではありませんでした。神に近づくために、神ご自身が備えてくださった道だったのです。
そしてこの道の中心には、いつも血がありました。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(17:11)
ヘブル人への手紙は、この言葉を受けて「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブル9:22)と語り、そのすべてがイエス様のただ一度のささげ物によって完成したと宣言しています(ヘブル10:10-14)。
きよさと汚れ(11〜15章)
レビ記には、きよいものと汚れたものを区別する規定が数多く出てきます。その中でも重い皮膚病の人は、汚れた者として宿営の外で暮らさなければなりませんでした(13:46)。
レビ記の世界では、汚れは触れたものにうつるものでした。だからこそ、福音書のこの場面は衝撃的です。
「イエス様は手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた」(マタイ8:3)
イエス様が触れても、イエス様は汚れませんでした。逆に、イエス様のきよさが、汚れた人にうつったのです。レビ記の規定を知っていると、この一場面の重みがまったく違って見えてきます。
大贖罪日(16章)
レビ記の中心に置かれているのが、以前このメルマガでも学んだ大贖罪日の規定です。年に一度、大祭司が至聖所に入り、民全体の罪のための贖いを行う日でした。
ささげ物、祭司、きよめの規定——レビ記のすべてがこの章に流れ込み、そしてイエス様の十字架へと向かっていきます。
「あなたがたは聖なる者でなければならない」(17〜27章)
後半は、神の民としての生き方が具体的に語られます。その中心にある言葉がこれです。
「あなたがたは聖なる者でなければならない。わたしが聖だからである」(19:2)
「聖」とは、神のために取り分けられているという意味です。そしてその聖さは、儀式だけでなく日々の生活の中に現れるものでした。貧しい人のために畑の隅を刈り残すこと(19:9-10)、働き人の賃金を翌朝まで留め置かないこと(19:13)、そしてこの言葉です。
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である」(19:18)
イエス様が律法の中で二番目に大切な戒めとして引用されたのは、実はこのレビ記の言葉でした(マタイ22:39)。
さらに23章には、過越から仮庵の祭りに至る主の例祭が並び、25章では、五十年ごとに負債が帳消しにされ、奴隷が解放されるヨベルの年が定められています。イエス様はナザレの会堂で「主の恵みの年を告げ知らせる」(ルカ4:19)と宣言されましたが、これはこのヨベルの年を背景とした言葉です。
それでは、レビ記をイエス様の十字架を通して見ると何が見えてくるでしょうか。
レビ記に登場する祭司、ささげ物、幕屋、例祭——そのすべてが、イエス様を指し示す「影」でした。
いけにえ → ただ一度ご自身をささげられたイエス様
大祭司 → 私たちのために執り成してくださるイエス様
きよめの規定 → 触れて汚れた者をきよくされるイエス様
ヨベルの年 → 罪の負債から私たちを解き放たれるイエス様
そしてレビ記は、このような約束も記しています。
「わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(26:12)
神が人の間を歩まれる——この約束は、ガリラヤの道を歩まれたイエス様において、文字どおり実現しました。
レビ記は、「神に近づくことは決して軽いことではない」と教えています。同時に、「それでも神は、あなたに近づいてほしいと願っておられる」とも語っています。
イエス様の十字架によって、今その道は、私たち一人ひとりに開かれています。
「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」——ヘブル4:16
今週もみなさまが御言葉と共に歩まれますように。
【今週の通読】
●Day 031:レビ記 1章-3章
●Day 032:レビ記 4章-6章
●Day 033:レビ記 7章-9章
●Day 034:レビ記 10章-12章
●Day 035:レビ記 13章-15章
●Day 036:レビ記 16章-18章
●Day 037:レビ記 19章-21章

