聖書通読クラブ Day 34

聖書通読クラブ Day 34【レビ記10章~12章】

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シャローム!

人生は失敗の連続です。しかし、そこから何かを学び、次に同じ失敗をしないようにすることができます。
もう一方の学び方としては、先人の失敗から学ぶことができます。聖書は多くの信仰者が失敗をしている場面を見ることができます。中にはその失敗のゆえにいのちを落とすものもいます。
私たちはまだ生かされています。ということは、まだ主に立ち返るチャンスが残されているということです。

今日もみことばから教えていただきましょう。

今日の通読箇所:レビ記10章~12章

■アウトライン

礼拝者

●信任祭司の失敗:10章
  ・ナダブとアビフの死と葬り:1-7節
  ・警告と配慮:8-15節
  ・信任祭司の悲しみ:16-20節

●食物の規制:11章
  ・陸上の生き物:1-8節
  ・水中の生き物:9-12節
  ・空中の生き物:13-19節
  ・羽のあるはうもの:20-23節
  ・汚れた動物の死体:24-28節
  ・羽のないはうものの死体:29-31節
  ・器とその中の汚れ:32-38節
  ・食用の動物:39-40節
  ・忌むべきはうもの:41-47節

●産後の女性:12章
  ・産後の汚れ:1-5節
  ・きよめのためのささげもの:6-8節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【10章】信任祭司の失敗

人は慣れてきた頃が一番失敗を犯しやすいものです。また、ちょっとした出来心でいたずらをしたくなることもあります。しかし、ナダブとアビフのしたことは許されることではありませんでした。

ナダブとアビフはアロンの四人の息子のうちの二人で、モーセと共に山に登った者です。彼らはどのような事をしましたか?そうしたらどうなりましたか?
火で犯した罪に火で神罰が下りました。モーセは神の神聖を告げますが、アロンは黙っていました。息子を失った悲しみと神への恐れがそうさせたのかもしれません。
このことを自分にあてはめて考えてみましょう。

5節には不思議なことが書かれています。主の火は彼らを焼き尽くしたとあるのに、ここでは彼らの長服をつかんで宿営の外に出したとあります。これはどういうことなのでしょうか?
不思議に思って調べてみますと、彼らの伝承によると、神の火は彼らの鼻から入り、彼らの体だけを焼き尽くしたと言われているそうです。

7節では、モーセは外に出ることを禁じます。つまり、聖所での務めを続行しなさいと言うことです。兄弟の死を理由に神への務めを中断してはならないと言うことです。祭司職への忠誠を覚えさせられます。
8節からは、主はモーセにではなく、アロンに直接語りかけられます。息子を失った悲しみを慰めるためでしょうか?
9節では突然にぶどう酒と強い酒が出てきます。このことは詳しくはわかりませんが、もしかしたらナダブとアビフは酒に酔ったまま祭司の務めをして、異なった火を捧げたのかもしれません。
この後、ナジル人ということが出てきますが、彼らは強い酒もぶどう酒も飲んではならないと言われます。
10節からは強い酒とぶどう酒を飲んではならないという理由が書かれています。

12節からはアロンの生き残った息子、エルアザルとイタマルに関してです。彼らは兄弟の死にあまりにもショックを受け、民からのささげ物の肉をそのまま食べることができず、肉を祭壇の上で焼いてしまいました。
それに対してモーセは「民の罪の贖いのために食べるべきだったのにどうして食べなかったか」と問いました。
レビ記6:30にもありますが、肉を食べるか否かは血の処理の仕方によります。血が聖所内に入れられたら肉は焼かれます。
それを端で見ていたアロンはいたたまれず、モーセに訴えると、モーセはそれで良いとしました。
自分の疑問に思ったことは、それが正しい動機ならリーダーに相談することは正しいことであると言うことを学ぶことができます。

【11章】食物の規制

ここからは食物の規定に関する事柄が書かれていきます。現代でもユダヤ人は「コーシェル」という食物規定を守っています。ですから、イスラエルのハンバーガーショップに行くと豚肉が入っていないハンバーガーなどが用意されています。
私たちは食物規定を守るべきでしょうか?使徒10:9-16を見て考えてみましょう。

まずは陸上の生き物に関してです。これから沢山の「けがれた」と言う言葉がでてきますが、それはそれがそのまま罪と言うわけではなく、区別されるための言葉であることを覚えておきましょう。

3節をまとめると、どのような動物を食べることができますか?
答えはひづめが分かれ、かつ反芻するものですね。
4節からは上の条件を満たしていますがその中で食べてはいけないものが書かれています。それは何でしょうか。

9節からは水中の生き物です。二つの条件がそろうものは食べられます。ひれとうろこのあるものです。ユダヤ人はお寿司屋さんでたこやエビ、貝類を食べることができないんですね。かわいそうですね。

13節からは空を飛ぶものです。ここでは他と違って明確なくべつがされていません。○○類と書かれていますので、おおきなくくりで見ていたのでしょう。書かれている生き物をみると、多くが肉食の猛禽類であることがわかりますか?

20節からは羽があってはうものです。昆虫類でしょうか。ここで「四つ足で歩く」とありますが、これは足が6本の昆虫も8本のくもなどの生き物も含まれます。
多くの昆虫類は食べられませんでしたが、その中でも次の四つ、四つ足、四枚の羽、跳ね足、体毛が体を覆うものは食べて良いそうです。
22節には具体的ないきものが書かれています。

24節からは以上の生き物に関して死体に触れると汚れると言うことが書かれています。
「夕方まで汚れる」とありますが、これはイスラエルの時間の流れにおいて新しい一日の始まりまでを意味します。彼らは日の入りをもって新しい一日がはじまります。
26節をみると、聖い生き物は自然に死んだときは汚れをもたらします。聖くない生き物は殺されたもの、自然に死んだもの両方の場合汚れをもたらすとあります。
27節の「足の裏のふくらみ」は肉球のことです。
29節からは羽のない群生するものに関してです。こんなものに触れる機会があるのかと思いますが、自然と共に暮らしていた彼らの生活では身近な生き物でした。

32節からは器に関してです。現代の私たちにはよくわかるかもしれませんが、衛生面を考慮してこのような規定を神様は設けてくださったのかもしれません。

39節は食用の動物が死んだときです。自然死、事故死、病死などの場合の対処です。

44節、45節はなぜこのような細かい規定が定められているかの理由が書かれています。私たちにあてはめるとどのようになりますか?

【12章】産後の女性

ここでは出産に関しての教えです。ここで覚えておきたいのは、女性は出産したら汚れてしまうと言うことではありません。子を産むことは祝福です。
それでは、これは何のために書かれたかというと、産後の女性をいたわる神様の愛ではないかと思います。産後に無理をすると、後々大変になると聞いたことがあります。ですから神様は律法を定めてまで女性を休むようにしてくださったのではないかと思います。
男の子と女の子を産んだ場合の事が書かれています。
その後、きよめのためのいけにえをもって、母親は通常の生活に戻っていけます。
神様は本当に優しく良いお方です。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 今日も長くなってしまって、毎回・・・どうしようかと迷うのですが、
    分かち合いたい思いがあるので、ほんとごめんなさい、
    よろしかったらご一緒お願いします
    奉仕の前に酒に酔って違うものを捧げることがありませんように
    クリスチャンで、お酒を飲む人は少ないと思います。まして礼拝や奉仕の前にお酒に酔っているなんてことはないと思います。
    判断を誤らせるものが酒となるのではと思い
    あの時も、あの時も・・・
    礼拝の後に倒れたり、病気になったりしたことを恥ずかしく、
    悔しく、思い出しました。
    でも感謝して、真心から奉仕していたではありませんか!
    周りからも、「とってもいい笑顔で楽しそうに賛美していたのになぜ。」
    と言われたではありませんか!
    そういう思いで、私には未だになぜ?という気持ちがぬぐえないので、
    素直に「主にお聞きしたいです。」そういう思いで読み進めていました。
    レビ記10章1節
    さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を【主】の前に献げた

    「それぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ」とあるので
    アロンの子たちが燃やした、異なる火とは本人たち自身の火皿から自ら入れた火だったのですね。
    要するに主の前から出た火ではなく、人工的に彼らが作った火
    レビ記9章23節から24節
    モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると【主】の栄光が民全体に現れ、
    火が【主】の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。

    そして、ナダブとアビウは大祭司ではないのに、大祭司しか入ってはならない至聖所に入ってしまった

    神の前に二つの不従順があったということですね。
    それは神が入れた火ではないので、贖いとは関係ない火となる。
    これは自分の判断でこれが正義だと思い込んで入れた火だと受け取りました。
    これは、本来あってはならないのですが
    私たちにも往々にしてあると思います。
    アロンの時代に生きていたら、私は何度神に殺されていたか知れません。
    コロナ禍の時代に、意見が分裂して、
    それぞれが自分の意見が正しいと主張してしまう。
    異質のものを簡単に裁きあってしまう。
    裁きは神の仕事なのに、自分がその仕事を取って代わってしまうことを表していると受け取りました。
    礼拝は聖霊様の力によってなされ、
    主イエスの十字架の血潮によって、また御霊(みたま)によって啓示されたみ言葉に対する従順によってだけ神に受け入れられる。
    聖霊様の火は十字架に釘付けられた主イエスの血潮と、神からの啓示のみ言葉の上にのみくだる。
    ほかの火は全部異なった火。
    ましてや自分で火を入れて燃やしてはならない。
    燃やすのは、神のなさることなのだと。
    この記事をもって、
    「あなたの中に、神にとって代わって火を入れて、礼拝を、神の働きを動かそうとしているところはないかを吟味しなさい」と言われているようです。
    これは命に係わるとても重要な事なので、
    聖書に書かれていたのですね。
    悔い改めたいと思います。
    私には神にとって代わるような力はないし、
    そんな思いもさらさらないと思っていたのですが、
    火は奉仕者からでも、信者からでも、牧師から出るものでもない。
    主の前から出てくるもの。
    だから奉仕者や牧師に期待することもNG。
    ただ神に期待することが大切なのですね。
    だから、レビ記10章1節の事件のすぐ前の章である、レビ記9章24節に分かりやすいように
    「火は 主の前から出て、祭壇の上の全焼のささげものと脂肪を焼き尽くす」と聖書はあらかじめヒントとして書いてあったのかと思いました。
    私たちがすることはただ、主が言われたことを行って、祈るのみで、
    御業を成されるのは神であることを覚えたいと思います。

    昨日、何気なくつけたBSでベンハーを観ました。

    姿勢よくピラトの前に立って、黙して判決をお受けになったイエス様。
    そのシーンでは、
    「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けとある、使徒信条の文言に騙されてはいけません
    ポンテオ・ピラトの罪の為に苦しみを受け十字架につけられたのではなく、
    私の罪の為に苦しみを受け十字架につけられたのです、ここを忘れてはなりません」と
    宣教師が言われていたことを思い出しました。
    そうです、私の為でした。

    主イエスが血だらけで十字架の上で息を引き取り、
    主イエスの流された血潮が、雨と共に流れ、
    二人の婦人の、らい病が癒される場面では、
    あまりにリアルで、私は涙が出て来て、
    テレビの前に主イエスの臨在があり、
    「私は十字架ですでに勝利を取りました。あなたは祈りなさい」と言われている気がしました。

    最期の時まで、「父よ、彼らを赦してください
    彼らは何をしているのかわからないのです」と人々の赦しを祈った主イエス。

    真実の愛を貫かれた主イエス。

    贖いは、誘惑が多いこの地上で
    一つも罪を犯されなかった聖い主イエスの血潮でのみ成就するのですね。

    恵みを受けて神をあがめるのは簡単ですが、
    アロンのように、懲らしめを受けた後に神をあがめる幸に進めるのは、
    聖められ、謙遜を学び、忍び難い時にも正直に神に告白して、
    神の裁きに全く服従している者だけが、できることだと思います。

    この時代、ネットを通してユーチューブの礼拝からでも、
    信仰が飛び火してくるのを感じます。

    涙を流しながら苦難のただ中で祈る姿、
    「もっと聖められる為です、選ばれたからです」
    と告白する神に対してまっすぐな姿が
    同じように聞かれなかった祈りに、落胆することなくかえって
    たとえそうでなくてもとシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの信仰を持ち
    神に信頼している人々を
    どんなに力強く励ましていることかと思います。
    私も励まされた一人です。
    本当に苦しい時に本物かどうかがわかるっていうけれど、
    その言葉通りに、
    かえってその誠実で正直な姿に信頼でき、ただのご利益宗教ではなく、これは本物だと受け取れ、
    だからこの福音に魅力を感じ目を覚まされ引き寄せられているのだと思わされました。

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