シャローム!
私たちは自分の人生が与えられています。この人生は私たちのものであると考えます。もちろん、私の自由に生きることができるのでこの人生は私のものです。しかし、私には限界があります。
そこで、より大きな、私を創造してくださった方のためにこの人生をささげるなら、多少の困難はあるかもしれませんが、より良い人生を送ることができます。
今日は贖い、そして血に関して、それから具体的な聖い生活のことが書かれています。
今日もみことばから教えていただきましょう。
今日の通読箇所:レビ記13章~15章
■アウトライン
アザゼル
●贖罪の日:16章
・贖罪の準備:1-5節
・二頭のやぎ:9-10節
・アロンと家族の贖い:11-14節
・民のための贖い:15-19節
・アザゼルのやぎ:20-22節
・全焼のいけにえ:23-28節
・安息と断食:29-34節
●食事の聖さ:17章
・いけにえの家畜:1-9節
・血を食べることの禁止:10-14節
・自然死、事故死の動物:15-16節
●結婚関係の聖さ:18章
・神の主権的命令:1-5節
・近親相姦の禁止:6-18節
・不純な性行為の禁止:19-23節
・異教的な習慣の除去:24-30節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【16章】贖罪の日
神様の律法・戒めは高速道路のガードレールのようなものです。わしたちが永遠のいのちに到達できるよう、主の道から外れないように守ってくれるものです。
アロンの二人の子どもは異なった火を捧げたことで死にました。神様はひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つのが願いです。その願いとして、祭司が正しい方法で神様の御前に近づくことができるように具体的な指示をされました。それが今日の箇所です。
2節を見ると、主の臨在がどのようなものかが書かれています。当時、神様のご臨在はどこに現れましたか?勝手に主の御前に行くならどうなりますか?神様のご臨在は単なる「ハッピー!」と言うような軽いものでは無いことがわかります。
神様の御前に進みゆくには決まった日がありました。贖罪の日です。そして、その日に決まった方法でのみ近づくことが許されていました。3-4節には、その準備が書かれていますが、どのようなものでしょうか?
日ごとの朝のいけにえとささげ物をし、衣服を着替えることですね。
この日だけは大祭司は特別な服を着ます。亜麻布で作られた全身真っ白の衣装です。出エジプト記28章と比較してみましょう。
6節からは不思議なことを行います。二頭のやぎを連れてきて、くじを引き、一頭はいけにえとして、もう一頭はアザゼルとして野に放ちます。これはこの後詳しく説明します。
これらによって贖いがされます。
ところで、「贖い」の意味はわかるでしょうか?簡単に言えば買い取りです。
コンビニで飲み物が欲しければお金という代価を支払うと、飲み物の所有権がコンビニから私に移ります。これが贖いです。
11節からはアロンは自分と家族のために雄牛を捧げ、贖いをします。火皿いっぱいの炭と両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香を携えて垂れ幕の内側に入ります。そこで香をたきます。その目的はなんでしょうか?
15節からは今度は民のために贖いをします。
これらが終わった後、ずっと待たされていたアザゼルが登場します。
このアザゼルのやぎに、アロンは両手をおきます。わざわざ「両手」と書かれていることは他で見られないことです。
そして、民のすべての咎、すべてのそむき、どんな罪も告白し、やぎの頭の上に置きます。このことによって告白の内容をすべてやぎに追わせます。
そうして後、係の者がこのアザゼルを野に放ちます。このやぎは全イスラエルの罪を背負って不毛の地へと行きます。
ここから何を学ぶことができるでしょうか。
私たちのすべての罪を背負ってくださった方はどなたでしょうか?
そのお方は十字架の上で切っても切れない関係であった天の御父との断絶を経験されました。イエス様は十字架の上でアザゼルとなってくださいました。
アザゼルは通常、放たれた後不思議なことに帰ってくることはありませんでした。しかし、イエス様は三日目に死から復活されました。主をほめたたえます。
そのイエス様の復活をほのめかす事が23節に書かれています。イエス様は復活されたとき、どうなっていたでしょうか?ヨハネの福音書20:5-7を見てみましょう。
祭司とアザゼルの係の者は着替え、沐浴し、いけにえを捧げて贖罪の日の行程が終わります。
29節を見ると、これは永遠のおきてであると書かれています。その通りに、このことは今でも守られています。第七の月はティシュリの月、太陽暦で言えば9-10月にあたります。この月の1日にはラッパを吹き鳴らす祭りがあります。そして10日はこの大贖罪日、そして14日からは仮庵の祭りが始まります。秋の祭りです。
34節には今一度、このことの目的が書かれています。
【17章】食事の聖さ
この17章から26章はあらゆるものに関しての聖さが書かれている「聖潔法典」と言われる箇所です。前の16節の贖罪によって回復した神様との関係をどのように保ち、また深めていくかが書かれています。
2節からはいけにえの家畜を処理する場所と血について書かれています。
牛か羊かやぎという三種類の動物は代表的ないけにえの動物です。これは宿営の内外では殺してはいけませんでした。必ず聖所のところで屠られなければなりませんでした。その目的は以下のように偶像礼拝と血を食べることの禁止、また防止のためでした。5-7節を見てみましょう。
8-9節では、再びいけにえをどこに持ってくるかが書かれています。めいめいで自分の好きなところで捧げてはいけません。このことを通して唯一の神、ひとつの祭壇、ひとりの祭司、ひとつの聖所が大切であることを教えられます。
10節からは血についてです。11節には、「肉のいのちは血の中にある」と書かれています。確かに、人が生きているのは血が巡っているからです。肺で取り込まれた酸素は血液を通して全身に運ばれ、細胞を生かします。また、不純物を回収し、腎臓できれいにされ、また、酸素を運びます。
事故などで大量に血液を失うと人のいのちは果ててしまいます。そう考えるなら、私たちの地上でのいのちは血によって保たれているのでしょう。
いけにえの動物はある意味私たちの身代わりです。その血は祭壇に捧げられ、神に委ねられる必要があります。また、この血を持って贖いがなされます。ですから、そのような血を自分のために血をたべてはいけないと定められています。
【18章】結婚関係の聖さ
社会の最小単位は家庭でしょう。そして、家庭の最少単位は夫婦です。この夫婦の間の聖さが保たれるなら、社会全体の聖さが保たれていきます。そう考えるなら、夫婦生活の聖さこそが社会の基盤になりえます。
3節には何と書かれているでしょうか。併せてローマ12:1-2を読んでみましょう。
4-5節には繰り返して「わたしは主である」とあります。神様の聖さが強調されています。現代の乱れた性的な感覚に流されること無く、何が神様によろこばれることかをよくよく考え、実行していきましょう。自制の実が必要です。
6-18節には、実に具体的に性的な関係の禁止事項が書かれています。現代の法律でも三親等内の婚姻は認められていません。
ここに書かれていることを破ってしまう故に多くの問題が生じ、また自分のいのちを滅びへと向かわせてしまいます。
19節からは不純な性行為の禁止です。自分の性欲を優先してしまう弱さが書かれていますが、特に20節の隣人の妻と寝て交わるなら十戒を守れなかったことになり、両者とも石打にされます。
現代においてもこの問題が何と多く、またこのことでどれだけの人が苦しみ、傷ついていることでしょうか。この行動の中心は誰でしょうか?神様が中心におられながらこのような行動が可能でしょうか?
この事を白昼堂々とすべての人に告白できるでしょうか。
自分の性的な部分で弱さを覚えるのであれば、所属教会の牧師先生に相談しましょう。また、場合によっては専門医に相談しましょう。神様は今のなお、聖く正しい健全な夫婦生活を願っておられます。
21節は恐ろしいことが書かれています。なぜ性的な聖さの部分にこのことが挿入されているのかは謎ですが、もしかしたら性的な興奮を得るための何かと関係しているのかもしれません。
子どものいのちは主が与えてくださったものです。それを異教の神に捧げることは禁じられています。
22節は、現代においてはとても難しい問題です。このことをもってクリスチャンの間でも大きな論争が起こります。この部分はみなさんが受け取ってしっかりと考えてください。
参考までに私の立場は、同性愛者の方のたましいはどこまでも愛されるべきであり、尊重されなければなりません。しかし、聖書が言っているとおり、男が女と寝るように、男同士で寝ることは不自然であり、神様が与えてくださったこの行為で子孫が与えられるという法則に反することであるのでは無いかと思います。本当に難しい問題ですが、聖書が何を言っているかに注目したいと願います。
23節は動物との性的な関係を禁じています。男性であれ、女性であれ、動物によって自分の性欲を満たすことは不自然です。神様が与えてくださった相手と、神様の守りの中で関係を持つのであれば、それが祝福となります。
24節からはこれからイスラエルの民が導き入れられるカナンの地、また出てきたエジプトの風習を見習ってはならないことが書かれています。
このような性的な乱れは私たちが汚れてしまうだけで無く、地も汚れてしまいます。獣のように自分の性欲を自制できず、それが社会全体に広まってしまったソドムとゴモラの地はどのようになってしまいましたか?
現代において性的な聖さを守ることは困難を極めます。乱れようと思えば直ぐに流されてしまう世の中に生かされています。ですから、神様にしがみついて、主がくださる聖さを守り抜きましょう。聖さを失ってしまうのは一瞬ですが、その後の痛みと苦しみは長く続いてしまいます。
最後に30節を心に刻みましょう。イエス様は私たちの神、主です。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
>私たちの地上でのいのちは血によって保たれているのでしょう。
いけにえの動物はある意味私たちの身代わりです。その血は祭壇に捧げられ、神に委ねられる必要があります。また、この血を持って贖いがなされます。ですから、そのような血を自分のために血をたべてはいけないと定められています。
血は命で、祭壇にささげられ、神にゆだねられる物なので血を食べることは神の所有権をないがしろにして冒涜することとなるばかりか、血をもって贖いがなされるから、血を「食べてはならない」と神は言われているのに、
主イエスは「飲みなさい、食べなさい」と言われています。
マタイ26章27節から28節
27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
ヨハネの福音書6章53節から58節
53イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
65 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
霊的な意味で、主イエスの血潮は、飲むべきで、主イエスの肉は食べなければならないのですね。
天の父が主イエスを遣わし、主イエスが天の父によって生きているように、主イエスを食べる私たちも生きるのですね。
それも 天から下ってきたマナのように食べても、いつか死ぬようなものではなく、主イエスのみ体であるパンを食べる者は永遠に生きることを感謝します。
主イエスの流された血潮がいかに尊く聖いものかを覚えたいと思います。
天の父なる神と和解し、平安を得、神とお会いできる場所は主イエスの血潮が流れるカルバリの十字架であり、
私の罪を赦され、私が罪から聖められたのは主イエスの血潮であることを感謝します。
至聖所の幕を裂かれた主イエスの十字架の死の故に、聖なる神に仕えるために私をまことの聖所に入らせます。
主イエスの血潮の12の宣言内容を感謝して大切に受け止め宣言していきたいと思います。
主イエスの血潮の12の宣言
①イエス様の血潮はサタンの支配から私を贖いました。
②イエス様の血潮はすべての呪いから私を贖いました
③イエス様の血潮は私のために永遠の契約を成し遂げてくださいました。
④イエス様の血潮は私を父なる神、すべての人々、すべての被造物と和解させ、平安をくださいました。
⑤イエス様の血潮は私のすべての罪を赦してくださいました。
⑥イエス様の血潮はすべての罪から私をきよめます。
⑦イエス様の血潮は罪に定める全てのことから私を弁護し、私に敵対するサタンの訴えを無効化し、今まで一度も罪を犯さなかったかのように私を義と認められます。
⑧イエス様の血潮は主のものとするためにわたしをきよめ、主に献身する者として私を聖別します。
⑨イエス様の血潮は死んだ行いから私の良心をきよめ、生ける神に仕えることができるようにされました。
⑩イエス様の血潮は聖なる神に仕えるために、私をまことの聖所に入らせます。
⑪イエス様の血潮は私がサタンとその全ての力に打ち勝つようにさせます。
⑫イエス様の血潮は私の永遠に続く喜びの源です。
ハレルヤ! アーメン