聖書通読クラブ Day 32

聖書通読クラブ Day 32【レビ記4章〜6章】

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シャローム!

レビ記は何度も何度も同じような事が書かれており、なんとなく読み進めているととても退屈に思えます。しかし、そのような中にこそ宝が隠されています。
私たちも日常の生活の中で、何の刺激もなく、なんとなく一日が終わっていくと感じているかもしれません。しかし、そんな何にもない日こそ最上の一日であることを覚えます。

主は今日も私たちを悔い改めへと導き、主に立ち返らせ、目を開きあらゆる物に感謝できるように導いてくださいます。

今日もみことばから教えていただきましょう。

今日の通読箇所:レビ記4章~6章

■アウトライン

罪と罪過のためのいけにえ

●罪のためのいけにえ:4章
  ・油注がれた祭司:1-12節
  ・全会衆:13-21節
  ・上に立つ者:22-26節
  ・一般の人々:27-35節

●罪過のためのいけにえ:5章
  ・罪の具体例:1-6節
  ・いけにえの例外:7-13節
  ・聖なるものに対して:14-19節

●祭司への指示:6章
  ・隣人に対して:1-7節
  ・全焼のいけにえ:8-13節
  ・穀物のささげ物:14-18節
  ・大祭司任務の穀物:19-23節
  ・罪のためのいけにえ:24-30節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【4章】罪のためのいけにえ

幕屋が自発的に持ってきたささげ物で建築されました。
昨日の箇所、レビ記の1-3章では自発的に捧げる全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえを見ました。
今日からは罪のためと罪過のためのいけにえです。これらのささげ物は義務づけられたものです。
一見、これらは苦しいことのように思えますが、主はこのことを通して私たちの内にある隠れた罪を明らかにしてくださり、それを適切に処理することで私たちを自由にして、主の聖さにあずかる者としてくださいます。

2節、「主がするな」と書かれてます。それをどうしたら罪とされるのでしょうか?「すべてについてあやまって罪を犯し」と書かれています。うっかりと犯してしまった、また、知らずに犯してしまった罪に関してです。故意で犯した罪に対しては弁解の余地はありません。

3節の「油注がれた祭司」は大祭司の事です。大祭司でも間違いを犯すことがあります。アロンも大きな罪を犯したのに、主の哀れみで最初の大祭司とされました。主が赦し、召してくださらなければできない働きです。罪を犯すことなく完全にこの地を歩まれたのはまことの大祭司であられるイエス様以外いません。(ヘブル5:3,9:7)
また「民が咎を覚える場合」とありますが、これは「民に罪過をもたらす」と言う意味です。上に立つ者の犯した罪は下にまで流れていきます。逆に祝福も上から下に流れます。(詩篇133篇)

6節、他のいけにえと違った方法が書かれています。罪のためのいけにえは指を七度血につけ、聖所の垂れ幕のまえに振りかけます。
イスラエルで聞いた話で、イエス様を信じたユダヤ人の人が言っていましたが、この時、血を幕の上から地面に向けて塗り、また地面に右から左に向けて血を塗るそうです。そこに浮かぶ姿は十字架です。

11節も全焼のいけにえと異なります。ここで皮は祭司のものとならず、切り刻まれ焼かれます。

13節からは全会衆に関してです。集団心理というものがあり、間違ったことをしていてもみんなが一緒に行っていたら正しく思えてしまうことがあります。
日本でなじみのあることと言えば「赤信号、みんなで渡れば恐くない」というものでしょうか。(古いですか?赤信号では必ず止まりましょう!)

民がただしく歩んでいるか判断するため、のちにサンヘドリンというものが形成されました。イエス様を十字架につけるか協議されたり、使徒の働きで議会といわれたりする機関です。
いけにえの内容はほぼ大祭司と同じです。

22節からは上に立つ者です。ここでは他に見られない「その神」と言う言葉があります。つまり、神の力強さを強調して、王であるとか、部族の長など、とても権力を持っている人に対しての事だと予想できます。
「後で咎を覚える場合」とありますが、それは何者かによって罪を指摘され、それが悪いこととわかった場合という意味です。ダビデが預言者ナタンによって罪を指摘された問いと言えばわかりやすいでしょうか。

25節、大祭司や会衆の場合と違った所に注がれます。それはどこでしょうか?

27節からは一般の人々です。ここでのいけにえは何ですか?なぜかここでは貧富の差はなく、同じものをいけにえとすることが書かれています。

31節にも、他にないことばが見られます。それは何かわかりますか?和解のいけにえの場合にもこの言葉が出てきました。
それは「なだめの香り」です。一般の人のささげ物でも、それを心から捧げるとき、主の御前には良き香りとなります。

35節では「主への火によるささげ物の上に」とあります。見落としてしまいそうなところですが、これには意味があります。
朝と夕のささげ物がありますが、これはお店でいえば開店業務と閉店業務のようなもので、朝のささげ物で一日がはじまり、夕のささげ物で一日が終わります。
つまり、その朝のささげもの上にこのささげ物が置かれるのです。

【5章】罪過のためのいけにえ

ここからは具体的な罪がいくつか書かれています。まずは証言を拒否したときの場合です。
神の名において証言することを求められていながら、沈黙を続けたり、全部を語らなかったら神の御前に罪を犯したとされます。

続いては汚れたものに触ったときです。この場合は、夕方まで汚れるだけであって、水で洗うとそれで大丈夫です。しかし、万が一、水で洗うのを忘れてしまったり、できなかったりしたときにこのようにします。

その次は人の汚れですが、これはのちに詳しく出てきますのでその時に。

次は口の言葉です。とても大切です。4節をよく読んでみましょう。これは不注意な発言です。十分考えないで発言する一言、一時の感情にまかせて発する一言。それらが含まれます。本当に気をつけなければなりません。

これらの証言を拒否、黙る、汚れたものに触る、口の言葉に関して咎を覚える場合、まず、何をしなければならないと5節に書かれていますか?本当に大切です。その上で罪のためのいけにえを捧げます。

7節からは少し例外のいけにえです。羊を飼う余裕がないときの場合です。それは何が用いられますか?

11節からはさらに鳥さえも手に入れることのできない人のためのささげものです。

13節、これらの罪は告白し、捧げるなら赦されるとあります。感謝ですね。

14節からは罪過のためのいけにえです。罪のためのいけにえと罪過のためのいけにえの区別は難しいです。一般には償いの有無が目安ですが、はっきり決まっている訳ではありません。

15節の不実の罪は、いわゆる隠れた罪です。あやまって主の聖なるものに対して犯した罪は十分の一や初穂、初子、祭司の食事などに関するものです。これらに対しては傷のない雄羊一頭、銀のシェケルで償われます。

17節、プログラミングの世界ではフェールセーフという考え方でしょうか。リスクマネジメントといえるかもしれません。罪を犯したかどうかわからないときにも咎を覚える場合は咎をおいます。

【6章】祭司への指示

ここでは引き続き罪過のためのいけにえに関して書かれています。隣人に対して書かれていますが、これは主に対して罪を犯したことと同じと書かれています。このような罪を犯したら、どうすると5節に書かれていますか?

8節からが祭司への指示になります。つまり、今までは民に対して、どのような罪を犯したらどのようなものを持ってくるかが告げられましたが、ここからはそれらを祭司がどう扱うかについて書かれています。
祭壇でのいけにえは朝のささげ物から始まり、夕のいけにえで終わります。しかし、祭司はたきぎを十分に用意して、朝まで火を絶やさず燃やし続ける必要があります。
消えることない祭壇の火は主への絶え間のない礼拝を意味しています。
14節からは受け取った穀物のささげ物の扱い方です。
19節からは大祭司任職の穀物に関してです。小麦十分の一エパを朝夕調理して捧げなければなりません。これを食べることが禁じられています。

24節からは、罪のために捧げられたいけにえに関して祭司がどう取り扱うかです。これは食べなければならないものです。
肉に関して、衣服に関して、器に関してどのように書かれているか見てみましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 文中の質問でわからないところがあります

    私がこんがらがって分かっていないのでしょうか?

    4章で「上に立つ者の罪のいけにえ」は違ったところに注がれているとあるのですが

    25節、大祭司や会衆の場合と違った所に注がれます。それはどこでしょうか?

    油注がれた祭司
    4:7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある、【主】の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、その雄牛の血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す

    イスラエルの会衆
    4:18 そして、その血を会見の天幕の中にある【主】の前の祭壇の四隅の角に塗る。また、その血はすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。

    上に立つ者
    4:25 祭司は罪のきよめのささげ物の血を指に付け、それを全焼のささげ物の祭壇の四隅の角に塗る。残りの血は全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。

    違いは「会見の天幕の入り口にある」という言葉だと思います。

    頓珍漢なことを言っていたらすみません
    会見の天幕の入り口でないところにも捧げものの祭壇があるということですか?
    もしあるなら、それはどこでしょうか?
    二つあるということは何か重要な意味がありますか?

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