聖書通読クラブ Day 31

聖書通読クラブ Day 31【レビ記1章〜3章】

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シャローム!

さあ、今日からレビ記です。「モーセ五書」と言われる創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記がそれです。レビ記はその真ん中に位置します。
聖書の考えで、中心のものが隠された物であり、大切であるという考え方があります。
多くの方はレビ記を難しいとかつまらないとか思うかもしれませんが、ここに神様の心が隠されています。
なぜなら、この書簡の名前にもその事が啓示されています。日本語ではレビ記ですが、ヘブライ語だと「そして主は呼び寄せた」という名前になっています。

モーセとベツァルエル、イスラエルの民は主の仰せ通りに幕屋を建築しました。そして、そこで終わりではなく、このレビ記に書かれていることを行うために幕屋を用意しました。

レビ記の一つの大きなテーマは「聖め」です。礼拝者として、主に呼ばれた者として私たちはどのように主に応答していけばいいのでしょうか?

今日もみことばから教えていただきましょう。

今日の通読箇所:レビ記1章~3章

■アウトライン

ささげ物

●全焼のいけにえ:1章
  ・会見の天幕:1-2節
  ・雄牛:3-9節
  ・羊と山羊:10-13節
  ・鳥:14-17節

●穀物の捧げ物:2章
  ・上等の小麦:1-3節
  ・調理した物:4-10節
  ・塩の味付け:11-13節
  ・あぶった穀物:14-16節

●和解のいけにえ:3章
  ・牛:1-5節
  ・羊と山羊:6-13節
  ・脂肪と内蔵:14-17節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【1章】全焼のいけにえ

日本人の良いところであり、悪いところのひとつに、「判断が曖昧なときがある」というものがあると思います。
ここで捧げられるいけいえは中途半端な焼け方ではいけません。全焼のいけにえ、焼き尽くすいけにえです。
主への捧げ物は中途半端は許されません。完全に焼き尽くすいけにえが主への捧げ物となります。

1節、主はどこから語られましたか?
ここで出てくる「会見の天幕」は出エジプトに出てきた会見の天幕と少しだけ違います。
出エジプトの時は、まだ幕屋が完成していなかったので宿営の外にありましたが、幕屋が完成したこの時は聖所が会見の天幕となります。

2節は何と何をささげると書かれていますか?また、それは3節によるとどのような状態の物でそれをどこに連れてくると書かれていますか?
そのささげものは連れてきた人の手によってほふられ、祭司がそのいけにえを部位ごとにさばきます。

3節からは牛に関してです。今でも牛1頭を買うと100万円くらいすると思います。それを捧げるのですから、相当な犠牲であった事がわかります。
8節を見ると、何が祭壇の上に捧げられると書かれていますか?もしかしたらみなさんの中には「全焼のいけにえ」というと、よく漫画などで見る豚の丸焼きのような形を想像するかもしれませんが、聖書を見るとそれとは違うことがわかります。

10節では、羊か山羊に関してです。牛と同じ手順ですね。

牛も羊か山羊も同様ですが、内臓と足を洗うのはいけにえを連れてきた本人です。祭司にすべてを任せてはいけません。ここから何が学べますか?すべてを牧師先生のせいにしていませんか?すべての責任を牧師先生ひとりの肩に背負わせていませんか?私たちがするべき事もあることを覚えましょう。

14節からは鳥です。上の3つの動物とはささげ方が違います。

なぜ牛と羊か山羊、それと鳥というように、いけにえが分けられているかと言うと、各家庭が持っている資産に応じてこれらが変わってくるようです。最も貧しい家庭はこの後に出てくる鳥をささげます。
ここで、ルカ2:24節をみてみましょう。ヨセフとマリヤの経済事情が少しわかるのではないかと思います。

全焼のいけにえは礼拝の際には必ずささげられたいけにえでした。ですから、この後出てくる何かの目的のためのいけにえとは少し違う形で用いられます。
全焼のいけにえは汚れた人間と聖なる神様が交わり、礼拝を捧げることを可能にするささげものと考えられます。

ちなみに17節に「なだめのかおりによる火によるささげ物」とありますが、これは主がすねておられ、それを宥(なだ)めるという意味ではありません。上に書いたように礼拝を可能にするための香りです。

【2章】穀物の捧げ物

動物のささげ物に続いては、穀物のささげ物です。1節によると、穀物のささげ物は何でなければならないと書かれていますか?それに何が加えられ、誰の所に持って行かれますか?

穀物のささげ物を全体的に見ると、
(1)料理をしない場合(1-3節)
(2)かまどで焼いた場合(4節)
(3)平鍋(鉄板)で焼いた場合(5-6節)
(4)鍋で調理した場合(7節)に分けられます。
それぞれで共通していることを見つけられますか?

穀物のささげ物は通常、全焼のいけにえに続いて捧げられました。これは礼拝者から神への贈り物であり、また祭司を支えるものでもありました。

動物のささげ物は血がともないますので、いのちに関して、そして穀物は人の手によって育てられたものを捧げるので自分が成し遂げた事に対しての感謝の表れなのかもしれません。

【3章】和解のいけにえ

ここからは和解のいけにえに関してです。本当に厳密なことを言えば、実はこの「和解のいけにえ」のみが「いけにえ」と呼ばれます。

全焼のいけにえは傷のない雄が捧げられました。和解のいけにえはどうでしょうか?

全焼のいけにえはすべての部位を切り分け、祭壇に捧げられましたが、和解のいけにえも同じ形でしょうか?3-4節を見てみましょう。

和解のいけにえは、それを捧げた礼拝者が食べることができる唯一のささげ物です。つまり、「神様との食事、祝宴」を意味します。
イエス様もあらゆる場面で食事をします。その食事は弟子との関係を深めていきました。また、復活後もペテロたちと食事をされました。
神様は私たちと生きた交わりをされたいと願っておられます。儀式的なかしこまった関係ではなく、神様を敬い、尊敬の心を持ちながらも心と心を通わせる関係が生きた礼拝です。
レビ記にでくるささげ物は礼拝の本質を見せてくれます。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 捧げる物よりも捧げる心が大切なのですね

    とても恥ずかしいのですが、ここを読んで、
    ずっと以前は、私は主の食物である、脂肪が好きで、その誘惑に負けてばかりいるから体が弱いのかと思っていました 
    お好み焼きにラードを使うと美味しいです。
    アイスクリームが好きで、脂肪たっぷりの生クリームで作ったショートケーキも大好きです。
    シュークリームなんて、家族がいないと、こっそり二つくらい一人で食べてしまったことがあります。
    「ああ、だめだ・・・」と・・・この個所を読むたび罪悪感がありました。

    全焼の捧げものは、頭(思想)脂肪(豊かな生命)内臓(心、愛情)足(歩み)がすべて神の前に香ばしい香りを放つキリストの生涯を表していました。
    私たちも彼にならう者となりたいと願います。

    >全焼のいけにえは礼拝の際には必ずささげられたいけにえでした。ですから、この後出てくる何かの目的のためのいけにえとは少し違う形で用いられます。
    全焼のいけにえは汚れた人間と聖なる神様が交わり、礼拝を捧げることを可能にするささげものと考えられます。

    礼拝の前には自分を吟味して、喜んで捧げているのか、主イエスの十字架の血潮を通っているのか、
    霊と真を尽くして、感謝して賛美し、従順に自分のからだを生きた供え物として自発的にささげているかを吟味しなければと思います。

    人の目から見えない内臓(心)、足(歩み)も、水(み言葉の洗いに)よって聖められますように。

    >内臓と足を洗うのはいけにえを連れてきた本人です。祭司にすべてを任せてはいけません。

    これは自分でしなければならないのですね
    自ら主の血潮によって・・主イエスの血潮の宣言によって、
    み言葉によって・・み言葉の朗読によって、日々聖められていきたいです。

    穀物の捧げものである小麦粉はパンを作るときに感じる肌触りのように
    トゲトゲしない、さらさら、しっとりと調和したキリストの生涯。
    油は、聖霊の注ぎ。
    乳香は神の前に香ばしい香りの生涯を送られたキリストの生涯。
    塩によって味わい深く、主の真実さをもって世に流されず腐敗から守られ命を保つ。一部が覚えの分として神に、一部がアロンとその子たちのものとなりました。
    私も、主の生涯を味わい、豊かな霊の糧を得るものとなりますように。

    >神様は私たちと生きた交わりをされたいと願っておられます。儀式的なかしこまった関係ではなく、神様を敬い、尊敬の心を持ちながらも心と心を通わせる関係が生きた礼拝です。
    レビ記にでくるささげ物は礼拝の本質を見せてくれます。

    全焼の捧げものはキリストの死を表し
    穀物の捧げものは、キリストの生涯を表し、
    交わりのいけにえは主イエスの十字架の血潮によって、平和を与えられ、神と人との和解が成立したキリストを表すのですね
    なので・・・
    >本当に厳密なことを言えば、実はこの「和解のいけにえ」のみが「いけにえ」と呼ばれます。

    となるのですね
    新約に生きる恵まれた私たちは、礼拝とは教会で祈り賛美する時間だけが礼拝ではないこと覚えたいです。
    生活自体が礼拝となるよう、一瞬たりとも愛する主から離れることがありませんように。
    敏感に自分の罪の性質に気づき、心底罪の赦しを喜び、恵みを感謝できますように。
    イエス様は、私の罪の身代わりに死なれただけではなく
    私の代わりに罪となられ、一つひとつの罪も、原罪も十字架で贖われていることを感謝します。
    このことを知った時、重荷をおろすことができました。
    神との平和を持つ者として、喜んで主にささげる人生を歩みたいです。
    主よ、か弱き私をお導きください。
    主イエスの御名によってお祈りします アーメン

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