聖書通読クラブ Day 30

聖書通読クラブ Day 30【出エジプト記37章〜40章】

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シャローム!

今日でいよいよ出エジプト記も終わりです。継続は力ですね。ここまで導いてくださった主をほめたたえます。

細かい指示のある幕屋や祭司の着る服は完成されます。ベツァルエルはじめ、現場で制作に携わる者たちは数々の困難に直面したでしょう。しかし、諦めることなく最後まで作り通しました。何のためにしたのでしょうか?自分の技術のすごさをアピールするためだったでしょうか?そうではなく、すべて主のためです。

私の好きな映画のワンシーンの一つに、ナルニア国物語の1で、大勢の人が「アスランのために!」と言ってかけ声を上げるシーンがあります。
どんな困難に直面しても「イエス様のために!」私は何度も自分にそう言い聞かせ、今まで導かれました。
すべては神から発し、神によってなり、神に至ります。

今日、私たちがすべきことは何でしょうか?
今日もみことばから教えていただきましょう。

今日の通読箇所:出エジプト記37章~40章

■アウトライン

捧げたものによって完成する幕屋

●聖所の用具:37章
  ・契約の箱と贖いの蓋:1-9節
  ・供えのパンの机:10-16節
  ・燭台:17-24節
  ・香の壇と香油:25-29節

●外庭:38章
  ・祭壇と洗盤:1-8節
  ・掛け幕:9-20節
  ・幕屋の記録:21-31節

●装束:39章
  ・エポデと肩当て:1-7節
  ・胸当て:8-21節
  ・青服と長服:22-29節
  ・記章の札:30-31節
  ・作業の完了:32-43節

●幕屋の仕上げ:40章
  ・主の命令:1-16節
  ・組み立て:17-33節
  ・栄光の雲が満ちる:34-38節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【37章】聖所の用具

みなさんは算数や数学の問題で文章題を解いたことがあると思います。普通の計算と比べてどちらが大変ですか?もちろん、文章題のはずです。ですから、得点の比率も高いのですね。
では、どうして文章題を解くのが大変なのでしょうか?それは、国語力が必要だからです。
書かれてあることを理解し、それを図に描き、適切な数字をあてはめ、それに必要な公式をもってくる。普段私たちが社会生活でとりくんでいる問題解決の鍵は数学の文章題にあります。
しかし、多くの人が文章を読み取ることができず、答えを間違えてしまいます。
文章題を解くには国語力を上げる事、また、繰り返し基本の公式を解くことができる練習をしておくことです。

どうして文章題の話をこのように長々するかというと、ベツァルエルがそれを実際に行ったからです。
今日の聖書の箇所でも、ベツァルエルが大活躍します。神様がモーセに告げられ、モーセはそれをベツァルエルに告げ、幕屋が建築されていきます。
普通、人から人に物を伝えるとき、伝言ゲームのように少しずつ違ってきそうな物ですが、ここでは正確に神様の仰せ通り作られています。
神様は緻密なお方でもあられます。
そして、神様の仰せをしっかりと読み取り、実際に形にできる卓越した技術を持って、幕屋が作られていきます。

37章を読みながら、ノートに幕屋の器具の図を描いてみましょう。聖所の中で最も高さのある器具はなんでしょうか?

また、聖所の中は幕で覆われているので、昼間でも真っ暗なはずです。そこを照らすのは燭台だけです。この燭台の光は正面にあるパンの机を照らすために置かれています。
パンはみことば、燭台は御霊を象徴しますので、みことばは御霊の光によって照らされるという事がわかります。
また、主のご臨在のある至聖所と聖所をつなぐのは香の壇です。これは祈りを意味します。
みことばと御霊と祈りによって、私たちは主の元へと導かれます。

【38章】外庭

外庭には二つの器具が置かれます。洗盤と祭壇です。
聖所と至聖所の器具はアカシヤ材の上に何が被せられたか覚えていますか?金でしたね。
一方、外庭の器具には、アカシヤ材の上に何が被せられますか?
この時代に、これほどの精巧な鋳造技術を、しかも荒野の中で行うことのできる彼らは本当にすごいですね。

8節、洗盤は誰の何で作ったと書かれていますか?
エジプトから持ってきた鏡は自分の美しさだけを写していましたが、それを主に捧げるなら幕屋で神様のために使われる器具として用いられ、自分と天を写す鏡へとされていきます。

この後、庭のための掛け幕が作られていきます。
ちなみに、聖書で東西南北が出てきますが、私たちは北が上の地図に見慣れていますが、聖書の正面は東です。13節を見てみましょう。

21節からはまとめが書かれています。改めて見ると、ものすごい量の素材が使われていますね。これらを解体し持ち運ぶことができるように設計された神様は本当に最高のデザイナーです!その神が私たち一人ひとりもデザインしてくださったことを感謝します。

【39章】装束

ここでは神様が命じられたとおり、祭司と大祭司の服が作られていきます。
ここに出てくる青、紫、緋色、白、金、それらはすべて天の御国を意味する色です。
大祭司は十に部族の名前を肩と胸に抱き、神様の御前に進みゆきます。とりなしの姿です。
また、額には聖別の記章がありました。「主の聖なるもの」が祭司のアイデンティティーです。

約100年ほどかかったノアの箱船の建築も、時には困難を極めたと思われる幕屋の建築もいつか終わりがきます。ついに幕屋の完成です。
忠実に仕事をした彼らの喜びはどれほどだったでしょうか。43節でモーセはそのような彼らを祝福します。

幕屋は荒野で建築されました。その資材は神様が天から超自然的に与えてくださったものではありません。心に感動を覚えた者が喜んで捧げた物が素材となり、幕屋が完成しました。
私たちの持てるものはなんでしょうか?自分では取るに足らないと思っていても、それを主の前に捧げるなら、主が設計図通りに幕屋を完成へと導いてくださると信じます。

【40章】幕屋の仕上げ

さて、幕屋のすべての器具はそろいました。しかし、それで終わりではありません。
どれだけ立派で美しい教会堂があったとしても、そこで礼拝する人がいないのであればそれは単なる建築物に過ぎません。
モーセは完成した幕屋を仕上げていきます。大切な行程です。

幕屋でまずはじめに置かれるのはどの器具でしょうか?3節をみると、あかしの箱です。御国の中心はいつでも神様ご自身です。ここからすべてがはじまっていきます。
そこに、先にパンの机が運び込まれ、次に燭台が運び込まれます。みことばのあるところに光が注がれます。
香の壇と隔ての幕が置かれ、聖所は完成です。

続いては庭に洗盤、祭壇が置かれます。そして庭の周り、門が設置されます。

これで終わりではありません。9節にはどのように書かれていますか?設置されたときは至聖所からでしたが、油注がれるのはどのような順番ですか?

そしてついにすべての器具が本来の機能を果たしていきます。
20節、契約の箱の中に十戒の書かれた板が入れられ、ケルビムの施された贖いの蓋がされます。(この箱にはのちにもう二つのものが入れられます)

パンの机にはパンが並べられます。燭台に光がともされます。香りの高い香がたかれます。
洗盤に水が張られていきます。

主が命じられた通りに行ったとき、どのようになったでしょうか?34,35節を見てみましょう。教会であろうと家庭であろうと、毎回の礼拝がこのようになることを願います。その秘訣は何でしょうか?私は「主が命じられた通り」が鍵だと思います。

また、イスラエルの民は勝手に移動しませんでした。36-38節をみてみましょう。この状況にみなさんは耐えられますか?
いつ動くかわかりませんし、とどまったと思ったらまた直ぐに動くこともあるかもしれません。
神様は気まぐれなのでしょうか?そうではありません。すべてに神様の緻密なご計画があります。
「なかなか動かない」とか、「え!もうこんなに直ぐ動くの!」と毎回文句を言うこともできますが、何も言わず従うこともできます。祝福を受けるのはどちらの方でしょうか。祈ってみましょう。そして、実行しましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. 毎日の配信、本当に有難うございます。送って頂くので出エジプト記の通読も継続出来ました。
    今までは幕屋建設は苦手な、面白くない箇所で読み飛ばしていた箇所でした。何回同じことを書いてるの?主がモーセに命じられた通り。解ってるよと、へりくだりのない読者でした。本当にごめんなさい。
    何ひとつ神様の言葉に意味のないものはないと頭では理解しているので、我慢して拝読していましたが、イスラエルの民の苦労や従順さを深く思った事もなかった自分が恥ずかしくなります。
    当時の人たちの技術にも感服します。
    礼拝の大切さをもう一度かみしめて、どこでもいつでも神様を礼拝出来る恵に心から感謝を捧げます。

  2. 一気に主の幕屋と器具が主の指示に従って忠実に作られていくのを心地よく読み進めました。でも一気にではないのですね
    天地創造が6日で終えて、1章で記されているのに対して
    幕屋は モーセが神から幕屋のつくり方の指示を受ける為、シナイ山で40日40夜を徹しました。
    幕屋制作も含めると天地創造の10倍以上もの章を要しているところからも、神がいかに幕屋で表されている贖いの御業を重要に扱われているかを心に留めておきたいと思います。

    「私が門です」と言われるイエス様の美徳を現す、
    様々な色と麻の撚糸で織ったものをかけた門から幕屋に入りるのですね。
    38:18
    聖所の前には祭壇があって、必ず主の十字架の贖いを通らなければ、神のみもとにたどり着かない。
    罪を犯さずには生きられない自分自身を見ると、祭壇はいつまでも必要なのだと日々実感します。
    あまりの罪の重さを知り耐えられずに沈みそうな私を、
    水盤で、天を見させてくださり、神の子供とされたアイデンティティーをもって支えてくださる。
    出エジプトで、世から救い出す壮絶な神の贖いの力を学び
    幕屋では、神に近づかせていただく贖いの恵みを学ぶ
    流石、主から選ばれ油注がれた者たちのすることは素晴らしい、そこに「苦労した」とは書かれていないのですね。ただ信頼して黙って従ったということですね。
    私には聖書を読んでも神が示す幕屋図の意味が分かりません。
    ネットで参考にできそうな図があるから何とか雰囲気はつかめるけれど、彼らは神の意図をくんで正確に仕上げている、驚きです。
    一つ、今までずっと疑問だったことがあるのです。
    おそらく民への忖度からだと思うのですが、自らの手によって偶像を造る罪を犯したアロンに聖なる装束を着せ、油注ぎを行って、彼を聖別し、祭司職として神に仕えさせると・・記してあることです。
    そしてアロンの子らを指して、彼らが油注がれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職の為であると記してあることです。
    罪を犯しても、心底悔い改めて、主に赦された者は
    子孫代々で咎を負わずにすみ、代々に主に仕えることができるということでしょうか
    これを見ると、アロンだけ特別な、何者かであるような気がするのはわたしだけでしょうか?
    私の力では行間からも読み取れませんでした。
    自分勝手な解釈になるかもしれないのですが、
    これだけ幕屋や器具に、主イエスが表され、ことごとく神の愛と贖いでガードされていることを学ぶと
    大祭司アロンは、まことの大祭司主イエスのひな型ではあるけれど、
    アロンの祭司職は主イエスの十字架で罪贖われたキリスト者全員の務めでだからだと思えます。
    私たちクリスチャンは、主イエスの十字架で贖われ救われ愛されている存在だと知り、その喜びの故に主イエスの十字架を担って、生きていきたいと願います。
    しかし、いかにキリスト者であっても罪を犯さないではいられない存在で、勘違いや失敗があることを日々痛感します。リーダーであるはずのアロンに至っても、偶像礼拝、姦淫の罪を犯させる手助けをしてしまったことになりました。
    こんな重大な罪を犯してしまっても、用いられるアロンを見なさい。
    主の御名、御名のご性質にすがって赦しをこい、心底悔い改めるなら罪赦され、見放さないから、初めから失敗することを恐れたり、自分には無理だ、相応しくないと諦めたりしないで、十字架を見上げて一歩踏み出しなさい。
    途中、駄目だと思ったら、モーセのようにすぐに私のところに来るのです、私はいつでもそばにいます。悩みがあるなら私のところに来なさい、私がともにいる。だから、あなたが赦されたように、あなたもあなたに罪を犯す者を赦しなさい。
    と言われているような気がするのです。
    アロンへの特別扱いは、罪悔い改め、神に立ち返る者への神の特別のはからいだと受け取れます。
    正しく生きたいのに、間違った選択をしてしまうことがあるような、絶対とは言えない人間という弱い存在への神の哀れみだと思います。
    先日の学びでは、モーセに、神の方から先にご自身の御名を宣言されました。
    その御名にモーセが神により頼めるヒントがあるからではないでしょうか。
    アロンへの神の対応にも私たちへのヒントがあるような気がします。
    神はすべてご存じの上だから、ダビデもそうだったように、神の前に正直になることが大切なのだと。
    自分は、主の前にどういう存在であるのかを正しく悟り、幕屋を通してどう生きるべきかを教えておられる。
    だから心して日々悔い改めるように、そして「もっと私に信頼して歩みなさい」と神に言われているような気がします。
    思うのですが、訴える者(サタン)から見れば、クリスチャンはいったい何者であるからそんなに特別扱いされるのだ?不公平だ!と思われているかもしれなません・・・
    サタンでなくでも天地を見渡すに人とはいったい何者なのでしょう?
    神が心に留められるとは?と、不思議に思います。
    でも定かではありません
    天国に行ったときに、特別扱いされるアロンは何者なのでしょう?人とは何者なのでしょう?の件、神様に教えていただきたいことの一つです。

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