聖書通読クラブ Day 330

聖書通読クラブ Day 330【コリント人への手紙 第一 13章-16章】

Spread the love

シャローム!

今日でコリント第一の通読が終わります。ここでは、最も大切な事が語られています。それは愛に関してです。また、愛から来る秩序に関してです。第一の戒めと第二の戒めも、この愛なくしては完成しません。神は愛です。ですから、私たちは熱心に愛を追い求めましょう。そして、主の再臨を待ち望みましょう。今日も聖霊様の導きによってみことばからいのちを受け取ることができますように。

今日の通読箇所:コリント人への手紙 第一 13章-16章

■アウトライン

●決して絶えることのないもの:13章
  ・愛は:1-13節

●平和と秩序の神:14章
  ・明確さ:1-19節
  ・大人の考え方:20-25節
  ・具体的な指針:26-36節
  ・秩序:37-40節

●福音と復活:15章
  ・福音:1-11節
  ・復活:12-19節
  ・復活の初穂:20-28節
  ・死の連続:29-34節
  ・天上のかたち:35-49節
  ・死は勝利に飲まれた:50-58節

●あいさつ:16章
  ・献金について:1-9節
  ・テモテ:10-14節
  ・労している人に服従しなさい:15-18節
  ・アジアの諸教会からのあいさつ:19-20節
  ・パウロのあいさつ:21-24節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【13章】決して絶えることのないもの

・愛は:1-13節
パウロは前の章の最後で、御霊の賜物を語った後に「さらにまさる道を示してあげましょう」と言いました。その道とは何でしょうか?
異言や預言の賜物、知識や信仰、また施しをし、殉教したとしても、あるものが欠けているなら、何の値打ちもないとあります。それは何でしょうか?聖書の中心でもある「愛」です。
ちなみに、1節を見ると、異言には最低でも二種類あると言うことがわかります。人の異言と御使いの異言です。前者はこの地上のどこかの地域で使われている原語を聖霊様が話させて下さることです。また、御使いの異言とは、誰も理解できないことばで祈ることです。
さて、愛とは何でしょうか?4-9節を何度も朗読してみましょう。
知識も預言も、それは神の奥義の一部分です。そして、それらは不完全なので、完全なものが現れたらすたれます。その完全なものが愛です。主ご自身でもあります。
私たちは大人になって、はじめてわかる事があります。私は子どもの頃、ニュースを見ていて「ハンドル操作を誤って、バスが谷に転落しました」とアナウンサーが言っているのを聞いて、「どうして運転手が『ごめんなさい』と言っているの彼は知っているのだろうか?」と純粋に思っていました。子どもには子どものことばで話すことが必要です。しかし、大人になるとそのような必要はありません。
私たちが今見ているみことばの理解も、完全ではありません。それは鏡に映る自分をぼんやりと見ているようなものです。しかし、主の御前に立つときは全てがはっきりと見えるようになります。
神様は私たちの心の奥まで全てご存じですが、私たちは神様の一部しか知りません。しかし、主の御前に立つなら、私たちが神に知られているように、私たちも神を完全に知ることができます。
そのように、あらゆるものは、完全な主の御前では廃れていきます。しかし、信仰、希望、愛はいつまでも残りますが、その中で一番すぐれていいるのは愛です。

【14章】平和と秩序の神

・明確さ:1-19節
パウロは「愛を追い求めなさい」と語ります。アーメン。私たちも熱心に愛を追い求めましょう。また、12章では9つの御霊の賜物を見ましたが、その中でも何を熱心に求めなさいと言っていますか?
2節には、異言は誰に向かって話すyと言っていますか?その理由は何ですか?ところが、預言は三つの何をもって誰に向かって話すことでしょうか?
つまり、異言は自分の徳を高めます。預言は教会の徳を高めます。パウロはすべてのひとが何をすることを望んでいますか?しかし、それ以上に何を望んでいますか?
6節は少し理解しがたいかも知れません。コリントの教会では、あまりに賜物に溢れた人が多いため、お互いに異言で語り合っていたというのです。異言は誰に向かって離す者でしたか?ですから、これらは益にならないと言っています。
そのことを楽器に例えてパウロは説明します。いのちのないラッパでも明確な音を出さなければそれは意味がなく、うるさいだけです。同じように、舌で明瞭なことばを語るのでないなら、それは空気に向かって話していることと同じです。
現在、世界には6900もの言語があると言われています。しかし、それはすべて意味のある言語です。しかし、それは同じ言語を理解できる人通しが話すときに意味が通じます。今、突然私にスワヒリ語で話しかけられても私は全く理解できません。ことばが理解できないと言うことは異国人です。
12節には、賜物を熱心に求めなさいと書かれています。その目的は何ですか?この目的のためなら、私たちは熱心に賜物を求めることは聖書のすすめなのです。教会によっては、異言を禁じていたり、御霊の賜物はこの時代で終わったと教えている教会があります。みなさんがそのような教会に属しているなら、牧師先生の指示に従ってください。しかし、私は自分も御霊の賜物を受けており、今もそれを用いています。特に異言の祈りは「適当なことばを発しているだけだ」と言われたりします。賜物の中でも比較的小さく見られがちだと思います。しかし、前にパウロはからだの器官で最も小さいものが尊ばれると書いていました。異言の祈りは自分の徳を高めます。私はこの異言の祈りを霊的なアイドリングと呼んでいます。車も停車しているとき、アイドリングしているとすぐに発車できますが、エンジンを切っているなら、いざ出発するときもスタートが遅れてしまいます。そのように、異言で祈る生活は神様からの御声を受け取る準備をする祈りとなります。教会の秩序の中でですが、導かれる方はぜひ、異言をはじめ、御霊の賜物を熱心に求めましょう。
また、異言で祈るときには解き明かしも同時に求めると良いでしょう。14節にもあるように、異言の祈りは自分でも理解できないことがあるので、霊は祈りますが治世は身を結びません。では、どうすれば良いのでしょうか?15節に答えがあります。霊と知性のバランスが大切です。具体的にはどうすれば良いのでしょうか?とてもシンプルです。みことばを読み、その箇所を思い巡らしながら異言で祈るのです。これが知性と霊を共に用いた祈りです。また、賛美に関しても、ことばで賛美し、歌詞のない間奏などで異言で祈る賛美が知性と霊の賛美です。
18節を見ると、パウロは誰よりも多くの異言の祈りをしていたようです。しかし、心に刻みたいのは、異言は神に向かって祈る祈りで、自分の徳をたかめるための賜物だと言うことです。ですから、それを人に聞かせる目的で祈るなら、それは的外れな祈りとなります。パウロは異言で一万語話すよりは、五つの知性のことばの方が教会にとっては有益だと言っています。

・大人の考え方:20-25節
20節は、日本の教会にとって、特に必要なみことばではないかと思います。霊においても、知性においても、人格においても、私たちは成長し、大人の信仰者として成熟を目指していかなくてはなりません。パウロは何においては子どもであってはならないと書いていますか?また、何においては子どもであれと言っていますか?イエス様が言われた「ヘビのようにさとく、鳩のように素直」もこれと同じ事でしょう。しかし、私たちはこれを逆にしてしまうことがあります。
もし、教会が一カ所に集まって全員が異言で話していたら、初心の者や信者でない者が入ってきたとき、どのような反応をするでしょうか?しかし、みなが預言するとそのような人々が入ってきたとき、ことばを理解できるので自分の中の罪が明らかにされます。そして、主を礼拝するようになります。
だからといって、未信者に配慮しすぎるのも良くありません。「未信者が理解できないから、教会での異言は禁止」とはどこにも書かれていないと思います。むしろ、個人の祈りではパウロのように、多くの異言で祈ることが良いのではないかと思います。

・具体的な指針:26-36節
それでは、具体的にはどうすれば良いのでしょうか?26節を見ましょう。そのすべてを何のために行うことが書かれていますか?これが一つの判断の基準となります。
また、異言を話すときの基準も書かれています。それはどのようなものでしょうか?そして、預言に関してはどうでしょうか?29節を見ましょう。
また、31節では預言できるのは誰で、学び、勧めを受けることができるのは誰とかかれていますか?預言は一部の預言者のものではありません。私たちも預言できますし、熱心に求める必要があります。
ここから何がいえるでしょうか?32節からを見ましょう。預言者たちに預言を与えている霊は、預言者たちに服従すると書かれています。それはどうしてでしょうか?33節を見ましょう。これが神の特長です。私たちの神はシャローム(平和)の神です。
また、34節からは妻に関して書かれています。これは、女性が教会で一切しゃべっても異言で祈ってはならないと言っているのではありません。その証拠に、11章5節には「女はだれでも祈りや預言をするとき」とあるからです。教会は名も知れぬ女性の偉大な祈りによってここまで前進してきたと信じます。ここでパウロが言いたかったことは、今までの文脈を見なければいけません。この後にも書かれていますが、賜物を用いるときには秩序が必要だと言うことです。神は女性を男から創造されました。これは神の秩序です。当時、コリントでは女性も沢山の賜物を受けていたので、男性が預言しているとそれに割って入るように「私の預言を聞いて!」と言わんばかりに女性も預言していたり「今のはどういう意味?」と聞いていたようです。そのことに対して、正しい秩序に戻すためにパウロはこの箇所を書きました。神の秩序に従うことは、窮屈なことではなく私たちに祝福と本当の自由をもたらします。

・秩序:37-40節
もし、賜物を受けている方は、ぜひ37節を読みましょう。もしそれを認めないなら、どうなると書かれていますか?
39節には再度、預言を熱心に求めることが書かれています。求めましょう。そして、それに加えて「異言を話すことも禁じてはいけません」とも書かれています。異言を否定する人はこの14章の前半だけを取って、異言を語るべきでないと言いますが、聖書はそうは言っていません。ここにはっきり「異言を話すことを禁じてはいけない」と書かれています。一方は信じて、一方は信じないということはあってはならないことです。それはみことばを自分勝手に解釈していることにならないでしょうか?みことばに権威を置き、みことばをみことばとして信じることができますように。

【15章】福音と復活

・福音:1-11節
ここから、パウロは福音の奥義に関して語り始めます。この福音を私たちは受け入れ、それによって立っているのです。また、この福音のことばをしっかりと保っていればこの福音によってどうなると2節に書かれていますか?これは私たちにとって非常に重要な信仰の基礎です。
では、パウロが伝えた福音の中心は何でしょうか?3節と4節を見ましょう。一言でまとめるなら、「イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活」です。これが福音の中心です。これをしっかりとたましいに刻み込みましょう。この基本がなければ、聖書の土台が崩れてしまいます。信仰から離れてしまうのはこの土台がないからです。
イエス様は復活の際、誰に現れたでしょうか?5節を見ましょう。その後に書かれているのは、500人以上の兄弟たちに同時に現れたとあります。復活の栄光のからだを持ったなら、このような事が可能です。そして、イエス様は最後にパウロに現れて下さいました。しかし、パウロ自身は自分は使徒と呼ばれる価値がないと言っています。9節にはその理由は何だと書かれていますか?
ところが、何によってパウロは今のパウロになったと描かれているでしょうか?これは、私たちも同様です。
恵みによる神の御国の福音、「イエス・キリストの十字架での死と葬りと復活」、これが福音の最もたいせつな部分です。忘れないようにしておきましょう。

・復活:12-19節
イエス様は今までで唯一、死からよみがえられて永遠に生きておられる方です。イエス様の十字架を信じることができても、復活を信じることができない人が多いのではないでしょうか?コリントでも、実はイエス様は復活していなかったという教えが流されていました。パウロはそのことに関して説明します。イエス様の時代にもサドカイ派の人たちは復活を信じていませんでした。しかし、14節には復活がないならどうだと書かれていますか?また、17節にはどう書かれていますか?復活こそ、イエス様が唯一のまことの神であるという大きな特長です。この復活を信じることができるというのも、御霊の助けなしには信じることができません。みなさんはイエス様が死から復活されたと本当に信じているでしょうか?
もし、イエス様の復活を信じることができないまま、信仰を持っているのであれば、すべての人の中で一番哀れだと19節に書かれています。

・復活の初穂:20-28節
このイエス様の復活は奥義です。そのことをパウロはアダムを引用して説明しています。アダムによって全人類に罪が入りました。罪から来る報酬は死です。この一人によって死がもたらされましたが、ただ一人の神、キリストによってすべての人が生かされます。
そして、パウロはそこから世の終わりについて語ります。23-24節を見ましょう。どのような順番でしょうか?これが実現したとき、この地に神の国が完全に打ち立てられます。キリストの支配は死をも滅ぼします。何という力でしょうか。「神は万物を足の下に従わせた」とあります。主語は「神」です。従わせられるのは「万物」です。この万物には神は含まれません。ところが人が完全に神の似姿に回復され、御子に従うとき、何が起こるでしょうか?28節を見ましょう。

・死の連続:29-34節
バプテスマは古い自分に死ぬことを表明することです。そして、同時に神の愛に浸り続けるという意味です。つまり、イエス様の復活がないなら、バプテスマを受けても死んで終わりになります。復活の信仰が大切です。キリストとともに新しくよみがえります。
パウロにとって毎日が死の連続とあります。事実、初代教会の時代には決まった時間に決まったテーマをそれぞれの場所で祈っていました。その中で、夕方の六時は「小さな死」という時間として、一日の祈りを捧げていました。そして、夜明けにもう一度復活するという信仰があったようです。それと同時に、パウロは福音のゆえに様々な迫害と困難に遭いました。
もし、復活の信仰がないなら、32節の最後にかかれているような考えになってしまいます。「友だちが悪ければ、良い習慣が損なわれる」とあります。ですから、私たちは自分の置かれている環境をいつも点検しなければなりません。そのためにどうすれば良いのでしょうか?34節を見ましょう。三つの事が書かれていますが、それは何でしょうか?目を覚ますこと、正しい生活を送ること、罪をやめることです。

・天上のかたち:35-49節
今までは「死者のよみがえりは本当にあるのか」に対する答えです。ここからは「どのようにしてよみがえるのか」と言うことに対する答えです。
復活の事を考えるなら、それが具体的にどのようなものかと知りたがるのは自然な事だと思いますが、パウロはそれを「愚かだ」と言っています。彼らは知者であるがゆえに、科学的な事、人間的な事に縛られすぎて、復活を信じることができませんでした。そこでパウロは身近な種を用いて復活を説明します。種の発芽と生長の法則も理解できないほど愚かだと言っています。
また、私たちのからだを種、復活のからだを発芽した芽にたとえ説明しています。肉体が死ぬことで新しいからだが与えられます。つまり、私たちのからだがそのまま復活するのではなく、新しい復活のからだが与えられるのです。イエス様も墓の葬りから復活されたとき、むち打たれ、ボロボロになったからだがわずか三日目にはきれいになっていました。
といっても復活のからだが今のからだと無関係ではありません。ぶどうの種をまくとぶどうが実ります。スイカは実りません。おなじように、今の肉体が死ぬなら、そこにあったものを持って栄光のからだとされます。つまり、今の生き方がそのまま永遠の世界でのからだにつながっているのです。そう考えるなら、今の生き方が変わっていくはずです。

・死は勝利に飲まれた:50-58節
なぜパウロはこれほど復活のからだを語るのでしょうか?それは、血肉のからだは神の国を相続できないからです。ダビデは人を沢山殺したので、その血のゆえに神殿を建てることができず、息子のソロモンが神殿を建てました。そして、51節から奥義を語ります。それは何でしょうか?私たちは眠るのではなく、変えられるということです。それはいつ、どのようにしてでしょうか?52節を見ましょう。そのきっかけはラッパです。詳しくはテサロニケ第一の4章で見ていきますが、これが終わりの時に起こることです。変えられるのは一瞬です。イエス様も主人が突然帰ってくる事を言われていました。
朽ちるものは朽ちないものを着、死は不死を着なければなりません。そのとき、「死は勝利にのまれた」という復活のみことばが実現します。55節のみことばを何度も自分のたましいに向かって宣言してみましょう。死のとげは罪です。そして、罪の力は律法です。人はそのことを解決できませんが、ただ、イエス様によってのみ、解決があります。復活によって私たちに勝利を与えてくださるのはイエス様のみです。
ですから、堅く立って動かされることなく、どうしなさいと書かれていますか?私たちの労苦が主によって無駄ではないのです。主にあって正しい努力をしましょう。

【16章】あいさつ

・献金について:1-9節
献身者は献金によって生活を保っていました。ですから、パウロはここで献金の事を語ります。具体的な指示を出していますが、献金に関して2節にどのような事が書かれていますか?週の初めとは日曜日の事です。収入に応じて、手もとにそれをたくわえなさいと言っています。それを手紙を届けた者が集めると言っています。
パウロはこの手紙を書いていたときにはエペソにいました。それからマケドニヤに立ち寄って、ギリシヤの方面に向かってコリントに行く予定でした。パウロはこのように諸教会を巡って励まし、また、行けないときには手紙で励ましました。マケドニヤには冬前に到着し、そこで冬を過ごしたいと願っています。そして、7節には主の許しがあれば滞在したいと願っています。以前、御霊がパウロにアジヤ地域を巡るのを禁じられたことがあるからでしょう。
そこから五旬節まで、つまり夏頃までそこに留まりたいと願っています。9節にその理由があります。

・テモテ:10-14節
パウロは自分の愛する弟子、テモテのことを思い計っています。彼は若いので、人々から軽んじられる可能性がありましたが、はっきりとそういうことがないようにと書いています。
また、アポロもコリントに行くように説得したようですが、彼はコリントに行くことを全然考えていないようでした。
13-14節は、パウロのコリントに対するすすめです。私たちも自分に語られたと信じ、受け取りましょう。

・労している人に服従しなさい:15-18節
パウロはステパナの家族のように、聖徒たちのために熱心に奉仕する人たちに服従しなさいと言っています。教会で仕えてくださっている人々は便利屋ではありません。あたりまえではないのです。いつも感謝の心を持って接しましょう。
また、ステパナとポルトナイト、アカイコが来てくれました。そのことがパウロの喜びとなっています。コリントの不足を補う器だからです。彼らはコリントの人々もパウロの心をも安心させました。そのような人々にどうしなさいと言っていますか?

・アジアの諸教会からのあいさつ:19-20節
パウロはアジヤの諸教会の挨拶を一緒に送っています。アクラとプリスカ、またすべての兄弟の挨拶も記しています。互いに聖なる口づけをもって挨拶することが勧められています。

・パウロのあいさつ:21-24節
最後にパウロからの挨拶です。22節、強烈なみことばですが、心して受け取る必要があります。これは真実です。主を愛し、主の再臨を待ち望みましょう。
23,24節に書かれている祝福がみなさまにもありますように。


(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です