シャローム!
通読は続いていますでしょうか?まもなくイスラエルでは年末で、新年を迎えます。通読も終わりが見えてきました。最後まで読み切り、また新しいスタートを共に迎えたいですね。
さて、今週はコリント人への手紙第一、第二、そしてガラテヤ人への手紙の通読です。
今回は、ガラテヤ人への手紙にスポットを当ててみたいとおもいます。
この手紙は、パウロの手紙の中でも最も熱を帯びた、緊迫感のある書物のひとつです。他の手紙冒頭にある感謝の言葉が、ここにはありません。パウロはあいさつもそこそこに、いきなり本題に入るのが特徴です。
「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」(ガラテヤ人への手紙 1章6節)
ガラテヤの諸教会には、パウロが去った後、「ユダヤ主義者」と呼ばれる人々が入り込んでいました。彼らは「イエス様を信じるだけでは不十分だ。救われるためには律法(特に割礼)を守らなければならない」と教えていたのです。パウロにとってこれは、些細な神学論争ではありませんでした。福音そのものの本質が脅かされていると感じ、この手紙を書いたのです。
ガラテヤ人への手紙のポイントは以下のようなものです。
① ただ一つの福音(1〜2章)
パウロはまず、自分が宣べ伝えた福音が人間から出たものではなく、イエス様ご自身からの啓示によるものだと語ります(1:11-12)。
「たとい私たちであっても、あるいは天の御使いであっても、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわれるべきです」(1:8)
これほど強い言葉をパウロが使うのは稀です。それだけ、福音の純粋さが脅かされていることへの危機感が強かったということです。
2章では、パウロがペテロを公然と非難した場面も記されています(2:11-14)。使徒であるペテロでさえ、福音の真理から外れた行動を取れば指摘される——真理の前には、どんな権威も特別扱いされないという姿勢がここに表れています。
② 律法の行いではなく、信仰による義(3章)
ガラテヤ人への手紙の神学的核心がここにあります。
「人が義と認められるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエス様を信じる信仰によるとわかったので、私たちもキリスト・イエス様を信じました」(2:16)
パウロはアブラハムの例を引きます。アブラハムが義と認められたのは、律法が与えられるはるか以前、ただ神を信じたからでした(3:6、創世記15:6の引用)。律法は救いの手段ではなく、罪を明らかにし、私たちをキリストへと導く養育係(3:24)だったのです。
そしてこの章は、教会の一致についての有名な宣言で締めくくられます。
「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男also女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエス様にあって一つだからです」(3:28)
③ 御霊による自由な歩み(5章)
パウロはこう宣言します。
「キリストは自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、堅く立って、二度と奴隷のくびきを負ってはいけません」(5:1)
しかしこの自由は、好き放題に生きることではありません。パウロは続けてこう語ります。
「肉の行いは明らかです…しかし御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(5:19、22-23)
律法の外的な強制によってではなく、御霊に導かれることによって、自然と現れてくる品性——これが自由の中で生きる者の姿です。
ガラテヤ人への手紙は「あなたはすでに、恵みによって完全に受け入れられている」という真理を、揺るぎない情熱で守り抜いた手紙です。
律法を付け加えようとする教えは、一見敬虔に見えても、実は十字架の恵みの十分性を否定するものだとパウロは訴えます。救いは私たちの努力の積み重ねではなく、キリストがすでに成し遂げてくださったことへの信頼なのです。
【今週の通読】
●Day 330:コリント人への手紙 第一 13章-16章
●Day 331:コリント人への手紙 第二 1章-3章
●Day 332:コリント人への手紙 第二 4章-6章
●Day 333:コリント人への手紙 第二 7章-9章
●Day 334:コリント人への手紙 第二 10章-13章
●Day 335:ガラテヤ人への手紙 1章-3章
●Day 336:ガラテヤ人への手紙 4章-5章
