聖書通読クラブ Day 335

聖書通読クラブ Day 335【ガラテヤ人への手紙 1章-3章】

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シャローム!

今日から二日間でガラテヤ人の手紙を通読していきます。コリントの教会に偽使徒、偽預言者や偽教師がいたよいうに、ガラテヤでも同じような人たちがいました。そして、ガラテヤの人々もだまされていました。そのことに対して、パウロは強い警戒感を抱き、この手紙を書きます。自分の立場を語り、律法の意味を語り、十字架の恵みを告げます。今日も聖霊様の助けを受け、いのちのことばを受け取って生きましょう。

今日の通読箇所:ガラテヤ人への手紙 1章-3章

■アウトライン

●偽使徒への対処:1章
  ・挨拶:1-5節
  ・福音を曲げる者:6-10節
  ・かつてのパウロ:11-17節
  ・回心後のパウロ:18-24節

●キリストがわが内に生きている:2章
  ・異邦人への福音を委ねられる:1-10節
  ・本心を偽った行動:11-14節
  ・もはや私は生きていない:15-21節

●律法と信仰:3章
  ・律法の呪いからの贖い:1-14節
  ・律法とは何か:15-22節
  ・養育係:23-29節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【1章】偽使徒への対処

・挨拶:1-5節
コリントの教会での問題は偽使徒たちでした。ガラテヤの教会でも同じ問題が起こっていたようです。彼らが教えていたのは、イエス様が伝えた神の国の福音ではなく、モーセの律法を守ることでした。更に、割礼を施さなければ救われないと教えていました。そのためにパウロはこのガラテヤ人への手紙を記し、もう一度神の国の福音に立ち戻ることを教えます。
この挨拶の部分では、パウロは人間から出たのではなく、神から出た者だと言うことを強調しています。なぜこのような事を言うかというと、偽使徒たちはエルサレム教会とのつながりを強調していたからです。彼らは「エルサレム教会が教える事を信じなければ救われない」と言いながら、少しずつ福音を曲げて伝えていました。彼らの腹の内の動機はその様にしてお金を信者から巻き上げることです。いつの時代も陰謀論者の動機は同じです。
パウロはこの手紙をガラテヤの一つの教会でなく、この地方の諸教会に宛てています。この地方で手紙は回覧して読まれていました。
4節の挨拶は、イエス様の恵みを言い表しています。キリストは私たちのためになにをして下さいましたか?これはどなたのみこころによりますか?

・福音を曲げる者:6-10節
上で述べたような背景の中、ガラテヤの人たちはものすごい勢いで異端の教えを信じていったようです。そのことを「ほかの福音」と呼んでいます。この「ほかの」とは、「異質な」と言う意味があります。この事にパウロが非常に驚いている様子がわかります。これは見た目が同じに見えますが、中身が全く異質のものです。詩篇1篇や福音書の祭司長、律法学者に流れている霊性と同じです。
神の国の福音は決して変わらないものです。それを人の力で変えてしまい、伝えるならどうなるでしょうか?8節を見ましょう。パウロは同じ事を二度繰り返しています。そのことから、事の深刻さがわかります。福音を根底から覆そうとしているのですから、当然です。
10節でパウロは誰に取り入ろうとしていますか?なぜこの事を書いたかと言えば、偽使徒たちは人に取り入ろうとしていたからです。彼らの目的は人の歓心を買い、金儲けをすることです。

・かつてのパウロ:11-17節
パウロは自分の受け取った福音が人からではなく、神からのものであると説明します。12節には何によって受けたとありますか?それを証明するために、パウロは過去の自分の話を始めます。
パウロはかつてどのような事を考えていたでしょうか?13-14節を見ましょう。ところが、パウロはダマスコの途上で復活のイエス様と出会いました。そして救いを受け取り、召しを受け取りました。
私たちもこの事が大切です。イエス様との直接の出会いです。クリスチャンホームで育ってきた子どもや、教会でのメッセージを聞き、知識だけでイエス様を知っている人たちに、また私たちにも必要なことです。イエス様が個人的に私に会いに来て下さることです。日々、イエス様との個人的な出会いを求めましょう。
パウロはユダヤ教徒であったとき、余りにも熱心でした。その熱心さが少しずれていたのですが、イエス様との出会いで正しい方向に軌道修正されました。パウロはこのように歩むよう、神様にご計画されていました。15節を確認してみましょう。
16-17節は何を言っているのでしょうか。それは、偽使徒たちがガラテヤの人たちに伝えていたことが、「パウロはエルサレムの使徒から律法の教えを受けた」と言う内容だったからです。パウロはガマリエルから律法を学びました。ですから、その様な偽使徒の主張に対して注意深く説明しているのです。

・回心後のパウロ:18-24節
しかし、パウロはエルサレムを訪れたことを否定はしていません。パウロは回心して何年後にエルサレムを訪ねましたか?また、ケパ、すなわちペテロを尋ねたのは何日間ですか?この期間に律法を学ぶことは可能だと思いますか?しかも、パウロは19節によるとペテロと主の兄弟ヤコブ以外には使徒と会っていないようです。
その後もパウロはユダヤ地方には顔を出しませんでしたが、彼のことはエルサレムに伝わっていたようです。そのことでエルサレムの使徒たちはどうしていましたか?24節を見ましょう。

【2章】キリストがわが内に生きている

・異邦人への福音を委ねられる:1-10節
時はそれから14年経ちました。パウロとバルナバ、テトスの三人はエルサレムに上りました。それは彼らがなんとなく上ったことでしょうか?2節の前半を見ましょう。そして、人々にも、主だった人には個人的にも福音を伝えます。それは何のためだったでしょうか?
ここの「おもだった人たち」はユダヤ人です。彼らはギリシャ人のテトスがいても、彼に割礼を受けさせなければならないとは言いませんでした。
ところが、アンテオケに来た偽兄弟は、誰からの指示も受けいないにもかかわらず、勝手に割礼を受けなければならないと教えていました。パウロはこのような間違った教えにどのような姿勢を示しましたか?5節を見てみましょう。その理由は何ですか?
パウロは先ほど「おもだった人」と言いましたが、パウロは人にあまり上下を付けたくないようです。それで6節のような言い方をしています。
そして、全ての人には召しがあります。ペテロは誰への福音が委ねられ、パウロは誰への福音が委ねられていましたか?その召しを与えられた方は別の人ですか?
柱として重んじられているケパとヨハネは、パウロとバルナバに交わりのしるしとしてどうしましたか?彼らはお互いに認め合い、恵みの中を生きていました。

・本心を偽った行動:11-14節
ケパ、すなわちペテロがアンテオケに来ましたが、彼に問題があったというのです。その問題は何でしょうか?12-13節を見ましょう。ペテロは使徒の働きであるように、ヨッパで幻の中、天から四隅をつられた風呂敷が降りてきて、その中にあらゆる食物が入っていました。主はそれをペテロに見せて、「主がきよくさたものを、汚れていると行ってはならない」と言われ、その後異邦人のコルネリオの家に入り、福音を伝えました。今回、ペテロがしていることはこの素晴らしい関係を壊してしまうようなことです。ペテロのそのような行動は他の使徒たちにも伝染していったようです。13節を見ましょう。
そのことに対して、ペテロはどうしましたか?14節で勇気ある行動を取っています。

・もはや私は生きていない:15-21節
パウロは律法に厳格なパリサイ人として育ちました。しかし、16節を見ると、何によっては義と認められず、何によって義と認められると書いていますか?しかし、ここで葛藤を覚えます。信仰によって義と認められるなら、いくら罪を犯しても良いのではないかという意見が出てくるからです。それなら、肉の欲に任せて、好き勝手なことをしても良いのではないかという意見です。パウロは、そんなことは絶対あり得ないことだと言っています。
18節にある「前に打ち壊したもの」とは律法です。これをもう一度建てるなら自分の違反を明らかにしてしまいます。
パウロは19節のように言っています。生きるために死にました。そこから、20節の告白が出てきます。20節を声に出して3回宣言してみましょう。そして、その意味を思い巡らしてみましょう。これが神の恵みです。もし、義が律法によって得られるのであれば、イエス様の十字架の死は無駄になってしまいます。

【3章】律法と信仰

・律法の呪いからの贖い:1-14節
パウロは感極まり、ガラテヤの人々を嘆きます。イエス様をはっきりと見ながら、まんまと惑わされているからです。彼らは福音のことばをはっきりと聞きました。十字架に付けられたイエス様をはっきりと啓示されました。それを信じました。そして、御霊を受けたのです。聖霊様はどのような時に与えられるものでしょうか?イエス様を信じた時に与えられるものです。それなのに彼らは惑わされていたのです。パウロは彼らに「道理がわかっていない」と言います。イエス様を信じることで、彼らは御霊によって新しく生まれ変わりました。しかし、それを彼らは肉の力で完成させようとしていたのです。
5節にあるとおり、イエス様は律法を行ったから御霊を与えてくださったのでしょうか?信じたから御霊を与えてくださったのでしょうか?これはアブラハムの信仰と同じ事です。イスラエルの人々はアブラハムの子孫です。しかし、パウロは、全ての人がアブラハムの子孫だと言います。アブラハムは信仰によって義と見なされました。ですから、信じる私たちも同じ祝福にあずかることができるのです。
もし、律法の行いによる者は何のもとにあるでしょうか?10節を見ましょう。ところが、人がどんなに頑張っても、律法を完全に守ることができる人はいません。なぜでしょうか?11節後半を見ましょう。では、一体どうしたら良いのでしょうか?そこで12節です。これを三回声を出して宣言してみましょう。イエス様の血潮の力です。「木」とは十字架です。イエス様は私たちのためにどうなってくださいましたか?そのことで私たちはどうなりましたか?本来なら、私たちが木にかけられるはずです。イエス様が身代わりとなってくださいました。これほどの感謝な事があるでしょうか?なぜイエス様はそのようにして下さったのでしょうか?14節を見ましょう。涙が溢れるほどの感謝です。あり得ないことが私に起こりました。

・律法とは何か:15-22節
私たちが生きる現代でも、契約があります。たとえば、携帯電話の契約があります。その契約をしていて、自動的に契約が切れていたと言うことはあるでしょうか?また、自分が契約を切りたいと思っていたも、何もしなければ使っていなくても契約は自動更新されていきます。15節にあるとおりです。
聖書の約束はどうでしょうか?アブラハムの約束は、ひとりの子孫を指しています。それは誰でしょうか?
このアブラハムの契約と、モーセの律法、どちらが先にできたでしょうか?アブラハムの430年後に律法が制定されました。では、律法ができたからと言ってアブラハムの契約はなくなるのでしょうか?そんなことはありません。主はこの約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さいました。
それでは、律法とは何でしょうか?19節を見てみましょう。これは誰の手によって定められましたか?私たちは律法と聞くと、神様の約束に相反するものというイメージがあるかも知れませんが、それは間違っています。律法は聖なるものです。では何が悪いのでしょうか?私たちの内にある罪です。聖書は律法という定めにおいて、すべての人が罪だと言うことを定めています。それはどうしてでしょうか?22節後半を見ましょう。

・養育係:23-29節
律法はガラテヤの人々、また私たちにとって何でしょうか?24節を見ましょう。律法は私たちを信仰へと導く役割があります。しかし、信仰が現れた時には養育係は必要なくなります。信じる者は神の子どもとされる特権があります。バプテスマと受けてキリストにつく者とされた私たちは何を着たと27節にありますか?それには人種や性別の制限はありますか?私たちはキリストによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人です。


(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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