聖書通読クラブ Day2【創世記3-5章】

Spread the love

シャローム!

昨日の通読はできましたか?世界のはじまり、私たちのはじまり、すべてのはじまりが書かれているダイナミックな章でしたね。もしかしたらみなさんも経験があるかもしれませんが、幸せの絶頂にあったのに、突然地の深みへと突き落とされてしまったような経験をしたことはありませんか?今日の通読箇所は、まさにそのような出来事のように思われます。しかし、それは本当でしょうか?今日もみことばに教えていただきましょう。

今日の通読箇所:創世記3章~5章

■アウトライン

罪とその刈り取り

●蛇の誘惑:3章
 ・蛇の嘘:1-6節
 ・呪いと咎め:7-19節
 ・エデンの追放:20-24節

●殺人:4章
 ・アベルの血:1-16節
 ・カインの子孫:17-24節
 ・主の名による祈り:25-26

●アダムの系図:5章

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

創世記1-2章を音読しましょう。

(3)解説を読む

解説を読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【3章】蛇の誘惑

喜びしかなかったアダムとエバ、そして神様との関係の中に、ある生き物が割り込んできます。それは「蛇」と言う生き物です。1節にはこの蛇の特徴が書かれていますが、それはどういうものでしょうか?

また、蛇が「神が言われた」ということは本当でしょうか?

2-3節で女が答えますが、神が言われたことになにか一つ追加されています。それは何でしょうか?

4節に書かれている蛇の特徴は「うそつき」であるということです。神様が言われたことと違うことをいうことが蛇の特徴です。私たちは神様の言われたことに従えているでしょうか?

蛇は巧妙に女を誘導し、心をわずかに動かすことに成功し、女を行動に移させます。そして、ついに女は神が取って食べてはならないと言われた善悪を知る知識の木の実を食べ、それを男にも与えました。

その実の特徴はどんなものだったでしょうか?また、それを食べるとどうなりましたか?

蛇は「目が開けて神のようになる」と言いました。しかし、現実はどうでしょうか。確かに目が開けましたが、裸であるということを知っただけです。

その結果、人はどのような行動を取ったでしょうか?

8節では、人類史上初のかくれんぼが行われます。なぜ、人は隠れる必要があったのでしょうか?自分の人生を振り返って、隠れてしまった事はあるでしょうか?その原因は何だったでしょうか?また、なぜ隠れてしまうのでしょうか?

9節では、神は優しく人に呼びかけます。神様は彼らが何をしたのか知らなかったのでしょうか?

蛇、人、女が受けた神からのおとがめは何だったでしょうか?それぞれまとめてみてください。

皆さんはこの事を受けて、どう感じますか?おそらく、多くの人はアダムとエバの事を責めるのではないかと思います。「彼らがここで誘惑にさえあわなかったら、私たちは…」と思ってしましませんか?

しかし、このアダムとエバの姿は私たち自身であることを覚えましょう。ローマ3:10には「義人はいない。ひとりもいない。」と書かれています。 もう一度よく考えてみましょう。このアダムとエバの姿は誰の姿でしょうか?

今日の通読箇所は、昨日の1-2章とのコントラストがものすごい事になっています。多くの人はこの3章、4章を見たくないと思うかもしれません。

ところが、この3章は「原福音」と言われ、ここに十字架が示されています。

エペソ5:22-33を見てみましょう。

男は何でしょうか。そして、女は何でしょうか。

このことを念頭に置き、3章をもう一度読んでみてください。そこにイエス様の姿が見えますか?私たちの姿が見えますか?

21節では神様が特別な事をしてくださいます。人と女が作った物と、このところで神様が用意してくださった物の違いは何でしょうか?

23節では、誘惑に負けてしまった男と女は、ついに園を追放されました。

これは悲しいことでしょうか?

たしかに自分の生まれ育った、良い環境のエデンを去るのは悲しいでしょう。

いつでも会うことのできた主とお会いできないのは本当につらいことです。

しかし、主はこう言われたのではないでしょうか。 「あなたたちの手で作ったいちじくの葉の腰覆いの代わりに、わたしが用意した皮の衣を着なさい。そして、このエデンから旅だって、成長してまた、わたしのところに帰ってきなさいよ!わたしはいつでもあなたの祈りに答え、助けよう。でも、あなたがたの弱さも知っている。だからこのエデンにはすぐに入れないようにしておく。 しかし、やがて成長したあなた方はある方法でもう一度ここに入ってくることができる。それまで、しばらくの辛抱だ。さあ、行っておいで!」

「神の喜び」というところからの追放は、私たちの成長を願った神の苦渋の決断だったのかもしれません。 

【4章】殺人

3章で人と女は「神の戒めに従えなかった」という罪を犯します。ローマ6:23には「罪から来る報酬は死である」と書かれています。

その事が実現してしまうのが4章です。

アダムとエバは二人の子どもをもうけます。カインとアベルです。

2節にはカインとアベルの仕事が書かれていますが、それはそれぞれなんでしょうか?

3節以降では、捧げ物の事が書かれています。どちらの捧げ物が神に受け入れられ、どちらが退けられたでしょうか?

また、それはどうしてでしょうか?

8節では、本当に痛ましい事が起こってしまいます。しかし、これは人ごとではありません。実際の殺人はしていないかもしれませんが、第一ヨハネ3:15には何と書かれているでしょうか? 「兄姉を憎む者はみな、人殺しだ」と書かれています。「みな」です。例外はありません。それでも、自分は殺人をしていないと言い切れるでしょうか?カインを他人事としてみていないでしょうか?そこに自分の罪の性質を見いださないでしょうか?

カインは「殺人者」というレッテルを背負いながらも、なんとか生きていきます。しかし、その子孫は祝福の子孫ではありませんでした。

19節からはレメクというカインの子孫が出てきます。今までの人と彼の違いは何でしょうか?

このカインとアベルの事件を通して、神の祝福の家系は途絶えるように思えました。アベルは殺され、カインも殺人者となったからです。

しかし、神は残された者を起こされます。それが25節からのセツです。

ここから祝福の家系が展開されていきます。 神様はいつも小さいものから大きな事をされるお方です。 

【5章】アダムの系図

5章はアダムの系図です。

系図は通読の時の難関のひとつです(笑)音読するときにスピードが落ち、口が回らなくなってしまうこともしばしばです。

なぜ神様は系図を載せられるのでしょうか。もちろん、家系を記録として残すという意味もありますが、これから系図が出てきたときに一つの事を覚えておいてください。

毎回ではないのですが、多くの場合、家系図は最初に出てきた人から最後にでてきた人への時代の転換を意味しています。

時間という流れに打たれた、くさびのようなものです。

それでは、5章は誰から誰へと時代の場面が転換していくのでしょうか?明日からはその最後の人物を見ていきたいと思います。

(4)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。

 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。

 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。

 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?

 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?

 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?

 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(5)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(6)分かち合う

このページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

7件のコメント

  1. シャバット・シャローム❣️(^○^)

    聖書通読クラブ、2日目!!

    主に、感謝します!

    俊さん、昨日は、通読できました❗(^○^)

    さて、今日も、沢山の啓示と、恵みを、
    頂きました。感謝です。

    その全てを話すのは、無理ですが(笑)
    分かち合います。

    今日は、創世記3-5章。

    特に、印象的だったこと。まずは、

    創世記3章の21.

    『主なる神は、人とその妻とのために、皮の着物を造って、彼らに着せられた。』
     
    神様は、罪を犯した二人に、特別な贈り物をしてくれた。皮の着物で、その罪を犯してしまった体を、霊を、魂を、覆ってくれた。ここから、分かること。

    イエスさまも、十字架に架かり、その体を捧げられ、打たれ、裂かれたことにより、
    また、その血潮の注ぎにより、
    私達の、罪、背き、咎を覆い、また、私達の痛みと苦しみを、覆い、あがなってくださった。また、そのことにより、キリストと一つになる、喜びの道を与えてくださる・・・
    。その啓示があるのでは・・・と感じました💗(*^^*)

    また、この3章と合わせて、エペソ5:22-33を参照することによって、この3章は、「原福音」と言われ、ここに十字架が示されていること、も分かりました。

    つまり、男は、キリストを現しており、
    女は、教会を現している。そして、
    男=頭なるキリストが、女=教会を、養い育ててくださる。夫は、妻を愛し、妻は、夫を、敬うように、と。女=教会は、人=キリストを慕い、人=キリストは、女=教会を、治めてくださる・・・。そんなことを、
    この3章、このエペソの箇所から、
    感じました。(*^^*)💗

    そして。今日読んだ、創世記3-5章、全体を通して、感じた感想を分かち合います💗

    人の罪と。主の愛。主の恵みは深く尽きない。ゆえに、カインとアベルの事件で、祝福の子孫が途絶えたかのように見えても、祝福の子孫、セツを起こされたように、
    主は、祝福の子孫を、どこからでも、
    起こされ、大きな恵みを与えてくださる方。

    主のみことば、その心理、その心を悟り、知り、行うことの大切さ。

    私も、その道を歩む者になりたい。

    そのために、日々、みことばの音読、祈りをしていきたい。

    いつも、主に心を向けることができますように。そう、思いました。

    主の深い啓示と、壮大な主のご計画に感謝。また、御霊により、このクラブをしていけることも、主に、感謝。

    最後に、この、聖書クラブのご奉仕をしてくださっている、俊さんに、これを読んでくださっている方に、感謝します!!(*^^*)🍃

    全ての栄光は、主だけにありますように!!✨シャローム!!

  2. こんばんは 中林千恵子です
    私もたくさん教えられました、全部お分かちするのはできないので、
    うまくまとまった文章にならないので申し訳ないのですが
    一部、トライしてみます
    神様は正しく裁かれる方で、悪いことは悪いとしっかり教えてくださる方。
    静かに、すべてを見ている方、神様の眼差しからは逃れなれない。
    そして、一人も落ちこぼれを造りたくない方だということを教えられました。

    エバが神の言葉を正確に受け取っていなかったので、簡単にサタンのウソに騙されてしまったように、私も騙されないように神の言葉を正確に受け取ることができますようにと願います。
    賢いサタンを侮れません。どんなことでも選択するとき、主と共に選択することができるよう。助け導いていただきたいと思います。

    カインのことを人殺しで残虐だと、他人事のように言えない自分がいます。
    批判されたり、きつい言葉を浴びせられた時、無視された時、傷つき、その時は主の故に「このくらいなんでもない」と赦しを宣言しても、心の中に傷が残っていて、気が付くと、いつの間にか苦い根が腰を下ろしてしまう。
    赦している、憎んでいないと思い込んでいただけで、繰り返し傷ついたことを思い出してしまう。そして、かつてこんなことがあったと誰かに話したくなる。私も同じように人を殺していたのだと気づかされます。

    私も、ペンギンさんと同じく、アダムとエバに皮の衣を着せて送り出された神の愛を感謝します。
    神は大切な神の被造物である動物を犠牲にしてまで、動物の皮で衣を造ってくださった。
    私の代わりに犠牲になってまで、十字架で贖ってくださった。これが
    神が用意してくださった尊い十字架の血潮、主イエスの犠牲、キリストを着せてくださったことを感謝いたします。いつもキリストを着ていることができるよう主イエスの十字架の血潮の宣言をしていきたいと思います。

    殺人という大きな罪を犯して、人から殺されて死んでもしかたない者なのに
    「私の咎は大きすぎて、負いきれません」と
    カインが主に言うと、カインにしるしをつけてくだったことを感謝します。
    彼を見つけた人が誰も彼を打ち殺すことのないようにつけられた一つのしるしを与えてくださった。

    主は罪びとのカインが言ったことに、応えてくださった。
    私も、この愛を受けて再び人を憎むことがありませんように、
    殺人を犯すことがありませんように、祝福の神に似せて造られたデザインに心も体も霊も回復していきますように
    キリストを着て主と共に生きていくことができますように
    イエス様の十字架を心から感謝します。

  3. 通読クラブのめぐみを受けている者です。
    分かち合いは、神様の優しさが至るところに散りばめられているなと感じました。
    今のところずっと優しい。
    怒っても優しい。
    皮の衣をくださるし、殺人者カインを守られるし。
    エデンの園は最高の喜びの場所だし。
    人に地球の管理を任せられるし、人を神様に似せて造られるほど愛してるし。
    罪を犯しても、イエス様の十字架の救いを与えてくださってるし。
    ここまで人を愛されている神様だからこそイエス様の十字架の贖いの御業は完成されたんだと思います。
    やっぱり神様って最高に素敵なお方ですね❤️

  4. ハレルヤ。聖書通読クラブに参加させて頂き、感謝しています❗️ところで、質問があります。創世記2章15節の「耕す」は「礼拝」を意味しているとの事ですが、4章2節の「耕す」も同じ意味でしょうか?3章17~19節で罪の結果、地が呪われたと記載されているので、4章の「耕す」は違った意味になるのでしょうか?4章の「耕す」が「礼拝」を意味するなら、カインは礼拝する者だったのだと思いました。礼拝者であったカインが妬みから殺人を犯した事を考える時、礼拝する私自身も、日々、心を主に探っていただかなければならないと強く思いました。(箴言4章23節、ヤコブ3章10節)また、カインが「自分が耕した」地の作物を主に捧げた事を考える時、自分の力や自分の肉による礼拝は主に受け入れられないと改めて思いました。(ヨハネ4章24節)
    創世記4章2節の「耕す」の意味が、「礼拝」でなければ、ここでの「耕す」にはどのような意味があるのでしょうか?どちらにしても今日の通読から、主の血潮で覆われ、霊と真をもって、主を愛して、心から主を礼拝する者、またアベルのように主に受け入れられる捧げ物を捧げる者でありたいと思いました。

    1. 律子さん、コメントいただきありがとうございます。

      とても良い質問ですね!

      創世記4:2も、2:15も同じ「アバード(耕す)」という言葉が使われています。

      それでは、どうしてカインが耕す(礼拝)をしていたにもかかわらず、このような結果になってしまったのでしょうか?
      十字架を通してみるときに、そこに驚くべきことが見えてきます。

      まず、あらゆることを見分けるときにひとつのポイントがあります。

      「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」(マタイ7:20)

      カインを実によって見分けていくなら、殺人という実を結んでいます。
      なぜ礼拝する者が殺人の実を結んでしまうのでしょうか?

      カインという名前は「得る」という意味があります。一方アベルは「息」という意味があります。

      カインは地を耕し、食物を育てていました。
      一方、アベルは羊を飼っていました。
      この時代、肉食は禁じられていました。肉を食べ始めたのはノアの洪水以降です(9:3)
      ですからアベルはこの時、羊を食用ではなく、ミルクや羊毛、毛皮を得るために羊を飼っていたことがわかります。

      そして、それぞれが収穫の中から主への捧げものをするのですが、ここが見分けるポイントでもあります。
      3節にはカインは「地の作物から主へのささげものを持ってきた」と書かれていますが、アベルは「羊の初子、それも最上のものを持ってきた」とあります。
      カインには何も書かれていないということは、普通の捧げものであったのではないかということが考えられます。

      そして、主はアベルの捧げものの方に目を留められました。

      その結果、カインは目を伏せてしまいました。

      さあ、ここからこの出来事を十字架を通してみていきたいと思います。

      イエス様の時代、礼拝を導いていたのは誰でしょうか?
      そうですね。神殿にいる祭司や律法学者、パリサイ人たちです。

      彼らは礼拝をきっちりと守っていました。
      しかし、イエス様はマタイ23:23でこのように言われています。

      「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」

      彼らの姿がカインと重ならないでしょうか?

      また、神様は礼拝を捧げるものにこのように言われます。

      「聞け。ソドムの首領たち。【主】のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
      「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、【主】は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
      あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。
      もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙──それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日──会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。
      あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
      あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。」(イザヤ1:10-15)

      主は「礼拝」を退けられることがあります。それは、心が伴っていないからです。本質を見失っているからです。

      カインはまさに、この律法学者のひな型のような存在だったのではないかと思います。

      一方、アベルはどうでしょうか?
      羊を一生懸命に飼っていました。
      最高のものを主に捧げる心をもっていました。
      正しいことを行ったにもかかわらず、殺されてしまいました。
      何か聞いたことないでしょうか?
      そうです。アベルはイエス様のひな型です。

      このみことばを覚えましょう。

      「しかし【主】はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。』」(1サムエル17:7)

      多くの立派に見える「礼拝」があるかもしれません。
      しかし、主はその立派さではなく、心をご覧になっています。

      私自身、律子さんの質問でこの奥義に導かれました。
      本当にありがとうございます。

      自分の礼拝の姿勢を今一度見つめ直し、心からの礼拝を捧げていきたいと思わされました。

  5. ハレルヤ。早速質問に答えて下さって、ありがとうございます。「アベルは羊を一生懸命飼っていました。最高の物を主にささげる心を持っていました。」との言葉で教えられました。最高の物を主にささげる為に、アベルは自分の羊を飼うという仕事を「一生懸命」していたのですね。私も最高の物を主にささげることが出来るように、自分に与えられた仕事を一生懸命したい、教会では自分に与えられている奉仕を心を込めてしたいと思いました。(コロサイ3章23節)それが主へのささげ物であり、礼拝でもあると気がつきました。気付きを与えて下さった主と俊さんに心から感謝します。

  6. エバが食べてはならない善悪の知識の木を食べてしまうところの描写で、
    人には自由が与えられていますが、このくらいだったら良いだろうと思ってしまい、罪に近づいていってしまうその恐ろしさに、はっとさせられました。
    罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋慕っている…。
    気をつけなければ、と思わされました。

    皆さんが書かれているように、私もそんな中にあっても神様の人に対する愛と憐れみの心、皮の衣を着せてくださったこと、殺人者カインが殺されないように、しるしをくださったこと。厳しいことを口で伝えてはいるが、実は心の奥底では子どものことを深く愛しているお父さんのことを思い浮かべました。

    2日めも終わらせ感謝です。

Shunsuke Tomita へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です