今、みなさんがこの文章を見ているのはスマートフォンでしょうか。それともコンピュータでしょうか。いずれにしても、多くの方は電子デバイスでこの文章を読んでくださっていると思います。
そこで、みなさんに質問します。みなさんが持っているスマートフォンやコンピュータは、偶然作られたと思いますか?
3万年たって、石から偶然に鉱物ができ、また10万年たったら、たまたま回路が偶然つながり、マンモスが踏みつけてキーボードの形が形成され、それから100万年たって風に吹かれて今のスマートフォンができたと思いますか?
どう考えても不自然ですよね。
誰かが「こんなスマートフォンが欲しい!」と思って頭の中で描き、それを設計し組み立ててたからこそ、製品として今手の中にあると考えるのが自然ではないでしょうか。
私たちの目に入るものはすべて誰かの思いが形になったもので、意味のないものはひとつもなく、何かの目的を持って作られたものです。
それでは、人はどうでしょうか?例外でしょうか?
そんな事はありません。人も誰かによって作られた存在と考えたほうが自然ではないでしょうか?聖書にはこう書いてあります。
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
詩篇 100篇 3節
れはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
詩篇 139篇 13節
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。
イザヤ書 64章 8節
私たちは偶然生まれたのではありません。計画を持って、愛を持って私たちを造ってくださった創造主がおられます。聖書はそれを神と呼びます。
もし、私たちが偶然生まれたのだったら、このいのちは偶然消えていってもしかたないと思うかも知れません。しかし、この与えられているいのちはかけがえのないものであり、私たちが持てるものの中で最も大切なものです。
私たちのいのちは価値があります。それで、聖書はこのように言います。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ書 43書 4節 a
自分で自分のことを好きになれないかも知れません。しかし、造り主はそんなあなたのいのちを何よりも大切に思い、いつも目を留めてくださっています。
誰も愛してくれないように思えても、神様はあなたのことを愛してくださっています。
この神様の愛を受け取ってください。
今日のまとめ
私は造られたもので、創造主は愛と目的を持って私を創造してくださった。