シャローム!
今日でついに士師記が終わります。様々なさばきつかさが混迷のイスラエルをさばきましたが、どれも長続きしませんでした。一時的な救いと堕落を繰り返し、霊的状況はどんどんと悪化していきました。
そして、今日の箇所は今までで最もひどいと思えるような出来事が起こります。なんとも歯切れの悪い終わり方になります。
私たちの人生がこのような終わり方をしてしまっていいのでしょうか?そうならないために、私たちは何をすべきでしょうか?
今日もみことばに永遠のいのちへと導いていただきましょう。
今日の通読箇所:士師記19章~21章
■アウトライン
内輪もめ
●ベニヤミン族の愚行:19章
・レビ人とそばめ:1-9節
・ギブアへの旅立ち:10-15節
・ギブアの老人:16-21節
・暴行:22-26節
・12に切り分けられた女:27-30節
●身内への聖戦:20章
・ミツパに集結:1-11節
・ベニヤミン族の応戦:12-16節
・三度目の勝利:17-48節
●嫁さらい:21章
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【19章】ベニヤミン族の愚行
ここから最後まで、非常に奇妙な話が続きます。その発端となる仮称です。ここでも「イスラエルに王がなかった時代」とあり、王がいないこと、また王を求める風潮にあることが強調されています。
ひとりのレビ人がゆだのベツレヘムからひとりの女をめとります。ところが彼女は夫を嫌って、4ヶ月間自分の家に帰りました。
さみしくなった夫は彼女を連れ戻しに行きます。しかし、義父は何日も彼の帰りを引き留めます。娘をやりたくなかったのでしょうか。
そして、5日目、悲劇の始まりです。レビ人と妻は旅立ちます。
11節から、レビ人は律法に従っていました。日が沈みましたが、それでも敵の所には泊まらず、イスラエルの民の町まで行きます。
15節、「広場には誰もいなかった」とあります。治安の悪さからでしょうか。本来なら、イスラエルの民は旅人をもてなす文化がありましたが、誰もそれをしません。
もしかしたら、私たちのまわりでも未信者が救いを求めて教会まで来ているのに、誰もいないということがあるかもしれません。また、来たとしても誰も話しかけないということもあるかもしれません。
困っている人に手を差し伸ばすことも神様の愛の表れの一つであると信じます。勇気を持って助ける決断をしてみましょう。
とにかく、この町はソドムの町のように危険でした。22節からをみてみてください。
なんと、イスラエルの民、ベニヤミン族の中に同性愛、集団暴行など、行き過ぎた性の乱れがありました。
そこで、家の主人は信じられない事を言い始めます。24節を見てみましょう。行き過ぎた旅人のもてなしです。ここまでして旅人を守る必要はなかったでしょう。大切なのは家族です。家族を犠牲にしてのミニストリーは行き過ぎたミニストリーかもしれません。もちろん、一時的に迷惑をかけることがあるかもしれませんが、継続的にミニストリーを理由に家族をないがしろにしていることを神様は喜ばれるでしょうか?
この家の主人は周りの習慣から、子どもを献げることにあまり抵抗がなかったのかもしれません。環境は大切です。
25節、もっと信じられないことが起こります。なんと、わざわざ迎えに来た自分のそばめをレビ人は外に連れ出します。餓えた猛獣の中にウサギを投げ入れるようなものです。こんなひどい話があるでしょうか。良心の感覚が完全に麻痺してしまっています。
このレビ人は自分のそばめを外に出したらどうなるかくらい、考えたら直ぐにわかるでしょう。もしかしたら、自分を守るためにこのような行動を取ったのかもしれませんが、むしろ自分を犠牲にしてそばめを助けるという信仰が見たかったです。このそばめの事を考えると心が張り裂けそうになってしまいます。
27節、本当にどこまでひどいのでしょうか。外での叫び声や物音を聞きながら朝まで眠れるその感覚が理解できません。そのうえ28節、「さあ、いこう」とさらっと言っています。よく何事もなくそのように話しかけられるなと思います。
ところが彼女が死んでしまっているのを知ると、今度は突然憤慨して女を12に切り分けて12部族に送りつけています。この人の心は獣の心なのでしょうか?いくらレビ人でいけにえを切り分ける事が得意であっても、今回はひとりの女性です。馬ではありません。
感情的になりすぎましたが、本当にひどい話です。確かに、この一件の始まりは、そばめがレビ人を拒んだことでした。しかし、その報いにしてはあまりにもひどすぎます。
この一連の意味をご存じの方がおられたら教えて欲しいです。
【20章】身内への聖戦
この悲劇に対して、全イスラエルが立ち上がります。それに対して、ベニヤミンも応戦の準備をしています。身内通しの全面戦争です。
4-11節、イスラエルは団結しました。このひどい事件にみんな憤りました。そして、ベニヤミンは他のイスラエルの人々からの憐れみの声もはねのけました。逆に左利きの精鋭部隊を集めて対抗しようとします。
17節から。ベニヤミンとここに書かれているイスラエルとの違いは何でしょうか?それは18節に書かれています。神様に伺ったことです。主は誰に「行け」と命じられていますか?
神様が「行け」と言われた時点で勝負ありですね。ところがここではイスラエルの2万2千人がベニヤミンにやられます。
22節から、この事でイスラエルは奮い立ち、失ったたましいを嘆きます。そして再び主に伺います。答えは「攻め上れ」です。勝負ありです。ところが、まさか、ここでも1万8千人が殺されます。
26節から、今度は断食して祈ります。場所は神の箱があるベテルです。いけにえもささげます。主は再び「攻め上れ」と仰せられます。今度は「彼らをあなたがたの手に渡す」とも言われました。今度こそ勝負ありでしょう。
結局、イスラエルはかつてアイの町を襲ったときと同じ戦法、おびき寄せのろし作戦を使って戦い、ベニヤミンの2万5千人を殺しました。残った者はわずか600人です。
この戦いは意味があったのでしょうか?もちろん、ベニヤミンは裁かれなければなりません。しかし、それは主がされることではないでしょうか。同じ血のつながった部族通しが殺し合うことは神様の目からも悲しいことだと思います。人の内にある欲がここまでさせてしまいます。恐ろしいものです。
【21章】嫁さらい
このようにして、ベニヤミンという部族が消えてしまいそうになっています。イスラエルの人々は我に返り、現実を見て嘆きます。
最初は不品行が横行するベニヤミンに対して正したいという義の動機から戦いが始まりました。しかし、それは神の義ではなく自分の義です。その結果、周りが見えなくなってしまって、今まで先祖が行ってきた異邦の民に対する聖絶を自分の血のつながっているイスラエルの部族にしてしまったのです。後悔してもしきれないことです。
5節から、イスラエルの全部族で上ってこなかった者を調べています。すると、ヤベシュ・ギルアデの者たちだけは参戦していないことがわかりました。そこで、彼らをも聖絶します。もう、自分の義の歯止めがきかないような状態です。
15節からで書かれているような事を経験された方もおられるかもしれません。大切なものと引き裂かれるような経験です。それは主のご計画であることもありますが、時には罪の結果と言うこともあるでしょう。自分の義を掲げ続けるなら、このような痛みを経験してしまうかもしれません。
結局、彼らはシロで踊りに出てきた女性をさらって行くことでベニヤミン族を存続させることにしました。強引な、苦肉の策すぎます。
そして、士師記の最後の言葉は、やはりこれです。今一度自分の心にこのみことばを教えましょう。
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
ベニヤミンの地で行われたことは、何度読んでも目を疑い、衝撃的で聞くに堪えないむごいことです。
側女は、父の家から頑なに戻らなければよかったのにと思ってしまいます。
本当にかわいそうな最期。死ぬまで粗暴な大勢の者達に乱暴されて、屈辱を受けて、これじゃ地獄だ。そんな苦しみを受けるために生まれて来たのかと思うと、悔しくて、悲しくなります。罪の結果こんなむごいことをしてしまうのかと思うと、辛くどんよりした気持ちになってしまう。
一つだけ、気になるのは、新改訳2017年版では、夫を嫌ってではなく、「その側女は主人を裏切って彼のところを去り」とあるので、不倫のような罪を犯して裏切って、出ていったということなのかな?と思いました。そんな姦淫の罪を犯さなければこんな恐ろしい結末の旅をしなくて済んだのだと思います。
それにしても、レビ人なのに、妾をもつとは・・・
一人の人間なのに命をかけて守ってもらえない側女。
乱暴されるのを承知で粗暴な者達に自分の側女を渡す主人。
主人とは名ばかりで、側女も守れない
人間の主人は弱く、情けなく、頼りにならないと思い失望します。
しかし、私たちの主イエスはそんないい加減な方ではないです。
私たちは罪の奴隷であったのに、自分の中に高慢な偶像、はたまた劣等感という偶像を作り、その偶像と姦淫の罪を犯し神を裏切った女にもかかわらず、罪の報酬、死の代価を主イエスの十字架によって支払ってくださり、買い戻され、キリストの花嫁として迎え入れられ、天の父には、娘として迎え入れられ、永遠に助け守られる。人にはできないことも神にはできることを感謝します。
>むしろ自分を犠牲にしてそばめを助けるという信仰が見たかったです。このそばめの事を考えると心が張り裂けそうになってしまいます。
申し訳ありませんでした、(._.) 悔い改めます。
自分を犠牲にしてそばめを助けたいと思われる方もこの世にはおられます。
神の形をかたどって造られた女の頭である男を感謝します。
外見だけでなく、内面に力強い真実な考え方を持つ男性を見ると、ああ 神様の形をかたどられた存在なんだなと麗しく思います。
ホセア書9章9節には
彼らはギブアの日のように、真底まで堕落した。主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する。
とあるので、聖なる主は、そのみ心を痛めながらも、
私の為に教えと訓戒として、この記事を書かれたのだと受け取ります。
自分のことはわかりにくいのですが、客観的に読むことはわかるものですね。
人は、自分を正しいと思い込み考えを押し付けることによって、自分を守り、相手を虐待していることにすら気が付かない、パワハラ、モラハラ的なものを持っていると思います。
なので人と付き合えば、ひどく傷つくけられることもあります。
しかし神様は間違わず、社会的立場やうわべで判断しない方です。
公平で真実の愛で、力がある方。
そんな神様に出会えたことを感謝します。
20:26 イスラエルの子らはみな、こぞってベテルに上って行って泣き、そこで【主】の前に座り、その日は夕方まで断食をし、全焼のささげ物と交わりのいけにえを【主】の前に献げた。
21:4 翌日になって、民は朝早く、そこに一つの祭壇を築いて、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。
全焼の捧げものと、交わりのいけにえを捧げる(カルバリ)に
まず行くことを忘れませんように。
カルバリでキリストの人格、働きに頼り、へりくだり、教えられ
カルバリで戦う霊性をいただき、
「どう戦い、誰を先に遣わすのか」を聞くのではなく、
「そもそも戦っていですか」と主に聞くことができますように。
主から与えられた知恵、
ローマ書6章にある死の中に避け所を求める者でありますように。
主イエスに出会えただけで満足せず、愛し、従っていけますように。
士師記、ありがとうございました。
これからも、日々み言葉の朗読と祈りにより、
主との交わりを深めたいと思います。
士師記を感謝します。
戦いばかりで、人とは思えない残虐さが記録されている士師記が、聖書に残されている意味がよく解りませんでした。
今回、12人の士師たちの歴史をゆっくり通読できた事、感謝です。
1節で終わってしまった士師も居れば、サムソンは4章も記録されていたんだと。。。
左ききが功を奏したり、武器が牛のつき棒だったり。与えられている物で戦うのですね。無い事に不満を言ってはいけないですね。
1人娘をいけにえとして差し出したり。理解し難い事もたくさんありますが、神様と繋がっている事が勝利の秘訣。
士師記の失敗から学びます。戦争はごめんですが、霊的な戦いは頑張ります。
普段自分の思い通りに生きることが多いです。イェス様が私の王となってくださることを感謝します。