シャローム!
私たちは従順と言うことばを聞くと、あまり良い気持ちがしないかも知れません。現代においては古くさく聞こえるかも知れません。
しかし、聖書は従うことの大切さを何度も教えます。まずはみことばに従うことです。そして、親に従うことです。それから、上に立てられている権力者に従うことです。
従うことは大変な事もありますが、守りでもあり、祝福であり、何よりも主の命令です。
従うことの喜びと、従わないときの恐ろしさを、今日もみことばから教えていただきましょう。
今日の通読箇所:エレミヤ書 25章〜27章
■アウトライン
●敵をも用いる主:25章
・それでも聞き従わないなら:1-33節
・牧者たちよ泣きわめけ:34-38節
●彼らが立ち返るかもしれない:26章(1-24節)
●この所に帰らせる:27章(1-10節)
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【25章】敵をも用いる主
・それでも聞き従わないなら:1-33節
エホヤキムが出てきます。複雑ですがエホヤ「キム」はエホヤ「キン」の父です。アルファベットが「M→N」という順番だと覚えておけば良いでしょうか。
ですから、この時は時代の流れで言えば今までと比べて少し遡っています。バビロンの王ネブカデレザルの元年ですから、第一次バビロン捕囚の頃になるでしょうか。この頃からバビロンが勢力を拡大し、「第一次バビロン帝国」を築いていきます。
3節を見ると、エレミヤは23年間も主のことばを語り続けています。それでも、主のことばに従う者はいません。ひとの心は陰険で変わらないということを知るのと同時に、主はとても忍耐深いお方だと言うことを知ることができます。
8節から。主のことばに聞き従わなかったので、北からバビロンが征服した国々を携えて、連合軍がやってきます。しかも、主はなんとバビロンの王ネブカデレザルを「わたしのしもべ」と呼んでおられます。アブラハム、ダビデなど、神の器の中でも特別な選びを受けている者に使われている呼び名を持って、ネブカデレザルを呼んでいます。
このことはまれに起こります。ペルシャの王クロスはバビロンを倒し、ユダヤ人を解放してエルサレムに帰還させました。そのときにも同様の呼び方をしています。
この事を考えるとき、本当の主のしもべとは何かを考えさせられます。祈りの中で、主にしもべとしての歩みは何かを求めてみましょう。
11節から、主はバビロン捕囚を70年と定められました。その時、バビロンは滅ぼされます。このことから、バビロンの王をほんとうのしもべとして扱っておられないと言うことがわかります。一時的なしもべです。
主は、どのような器も用いることがおできになります。石ころからアブラハムの子孫をも起こすことのできるお方です。
それであれば、私たちも主のしもべとして一度認められるだけではなく、主のしもべとしてあり続ける事を求めていきましょう。主との関係はその後、しもべから友へと、共から花嫁へと変えられていき、より主との親密な関係の中に入れられます。
15節から、エレミヤはここでも預言的な行動をしています。憤りの杯を飲ませるというものでした。そこで彼らは酔っ払ってしまいますが、それが正に主の怒りを受けている姿のように見えるからです。
この怒りの杯という表現は、イエス様のゲツセマネの祈りの中でも出てきましたし、黙示録でも登場します。
18節からを見ると、そのさばきは広範囲に及んでいることがわかります。これらの国がバビロンによって倒されていきます。主は一時的にバビロンを用いてこのようにされましたが、やがてバビロンも滅ぼされます。
27節からを見ると、彼らは受け取ることを拒んでもなお、さばきが来ると宣言しました。これは剣だとも書かれています。すなわち、みことばです。私たちは日々、みことばの剣によってさばかれ、たましいと霊、関節と骨髄の間をも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別させます。そのようにして、主の願われないものが私たちから取り去られていき、私たちは聖いキリストの花嫁とされていきます。30節からは、終わりの時代のさばきと滅びの光景を見ることができます。
・牧者たちよ泣きわめけ:34-38節
牧者たちが食い殺されていく姿があります。国々の指導者に対しても容赦なく、それは行われていきます。考えてみて下さい。国の要人はどのような有事の時にも守られます。何十ものリスクマネジメントによって危機管理されています。指導者がいなくなると混乱するからです。
しかし、そのような人間的な守りはむなしく、彼らは徹底的に滅ぼされます。
【26章】彼らが立ち返るかもしれない:26章(1-24節)
ここではエホヤキムの治世の初めです。復習です。エホヤキムとエホヤキン、どちらが父だったでしょうか?
ですから、ここは25節よりもさらに前に遡っています。聖書は必ずしも歴史の流れの順番に書かれているわけではないことを覚えましょう。ここでの預言は、7章と同じような内容です。主は「一言もはぶくな」と言われています。これが本物の預言者の姿です。自分の語りたいことではなく、たとえ自分が語りたくなくとも、主のことばをひとつも曲げないで語ることです。
そう考えるなら、本当はみことばだけを読むのがもっとも間違いないと思います。私のこのコラムさえも間違いがあるかも知れません。信頼できるのはただみことばだけです。
主がここで言われているのは、破壊が目的ではないということです。それは通過点です。目的は建てあげるためです。その鍵は悔い改めです。主の慈愛が私たちを悔い改めへと導いてくださいます。
これに対して、預言者はどのように反応したでしょうか。7節からを見てみましょう。
神殿がシロのようになると言われたので、最も反応したのは祭司でした。そして、それに続いて預言者たちが責めています。しかし、彼らはエレミヤを殺すことができません。そこで、新しい門に集まり、エレミヤに判決を下そうとしています。
彼ら預言者たちの訴えは何でしょうか。「彼がこの町に対して預言した」と言う内容です。この事は本当でしょうか?エレミヤは主の宮に対しても預言していました。そこをごっそり抜き取っています。
先ほど主は「一言もはぶくな」と言われたのに、彼らは大胆に省いています。これが神に従わない者たちの特長です。隠して、ごまかして、編纂して事実らしいことを伝えます。実に巧妙です。
イエス様もまた、このように訴えられました。まったく罪がないのに
「わたしは神の子だ」と、実に本当の事を言っただけで「彼はユダヤ人の王だと自称し、カイザルに背いている」と訴えたのです。エレミヤの時代の預言者と同じ性質を見ることができるでしょうか?自分のなかにもそのような性質はないでしょうか?
12節から、エレミヤは弁明します。エレミヤは自分勝手に語っているのではなく、主が遣わされたこと、また、彼らが行いを改めたら、主は災いを思い直してくださると言うことを伝えました。そして、エレミヤは「私はあなたがたの手の中にある」と言い、彼らの権力の下にあることを認めています。エレミヤは何も悪いことをしていないのに、彼らのさばきを甘んじて受けると言っています。イエス様のようです。私たちは権威に従うことを忘れがちです。時にはリーダーに対して、反発したくなり、愚かに見えたり、まどろっこしく感じるかも知れません。しかし、そのような時にこのみことばを思い出しましょう。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ13:1)
16節からは、祭司、預言者たちの反論です。彼らはエレミヤの言ったことに納得しています。エレミヤはへりくだり、彼らのさばきに委ねました。すると、彼らはかろうじて正しい判断をすることができました。もし、エレミヤが遣わされなかったら、どうなっていたでしょうか。彼らは正しい判断は決してできなかったでしょう。エレミヤの柔和なへりくだる姿勢が彼らの考えを動かしたのかも知れません。
そして、18節には「すべての民」と書かれています。これは祭司と預言者について話されていましたが、すべての民に話が広がっています。詩篇133:2では、尊い油がアロンの頭に注がれ、ひげから衣の裾にまで流れています。そのように、リーダーの影響はそれに従う者に大きく影響していきます。
私たちに影響を与えているものは何でしょうか。それが今のあなたのリーダーです。いつもそれをイエス様にしておくことが大切です。このお方が最も間違いのない、リーダーの中のリーダーです。
20節からを見ると、この時代の正しい預言者はエレミヤだけではなかったようです。首長たちの中にも主のことばを聞いているものがいます。
同じように、教会の中で聖書を沢山読むことを理解されなくても、祈りを軽く見られても、悔い改めを必要ないと言われても、血潮の力に目もくれない人たちがいたとしても、日本のどこかには同じ啓示を受け、日々祈りとみことばに励んでいる者がいることを知りましょう。
【27章】この所に帰らせる:27章(1-22節)
ここではエレミヤがなわとかせで預言的行動をしています。バビロンに対抗すべく、ユダの周辺諸国が手を取り合っています。その使者がエルサレムにも来ていますが、その彼らにヤハウェなる神を伝えるとき「大いなる力と、伸ばした腕をともって、地と、地の面にいる人間と獣を造った」と言っています。これらを主はネブカデネザルに与えていると言われています。
また、8節からを見ると、エルサレム外の異邦人の国にも、偽預言者がいたことがわかります。ここから、エレミヤはエルサレム、ユダに対する預言者ではなく、万国の預言者と呼ばれます。
そして、さらにユダの王ゼデキヤに預言します。偽預言がゼデキヤを惑わしています。祭司たちも偽預言者によって惑わされていました。偽預言者は本当に祭司の事を思ってとりなして祈っているのではありません。下心があります。自分を喜ばせたいがために祈っています。
そして、主は三回のバビロン捕囚で本当にすべてのものを取り去られました。しかし、そのすべては戻ってくるのです。主の約束は、必ず成就します。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
>日本のどこかには同じ啓示を受け、日々祈りとみことばに励んでいる者がいることを知りましょう
アーメン
一人ではないことを感謝します。
そして、昨日も今日もいつまでも変わらずに生きて働いておられる復活の主イエス様がいつもともにいてくださっていることを感謝します。
上に立つ権威に従うことができるように祈ります。主の約束は成就することを感謝します。