シャローム!
今日の箇所では、偽預言者について語られています。この後、エレミヤは偽預言者と戦いますが、その幕開けです。
預言は予言とは違います。預言は神様のことばを預かり、それを民に伝える、神と人との仲介者です。一方、予言は将来の事を言い当てることです。予言は預言に含まれることがありますが、その逆はありません。
また、みことばを超えて語れる預言も正しい預言ではありません。現代では多くの自称預言者がいます。もっともらしいことを言っていますが、それは本当でしょうか?その内容がみことばに基づいているでしょうか。有名な器だからと言って、預言の内容を鵜呑みにしてはいけません。必ずみことばの吟味が必要です。
最も間違いのない預言はみことばです。ですから、私たちは毎日自分のたましいに最高の預言をしています。それがみことばの朗読です。今日も自分のたましいに預言していきましょう。
今日の通読箇所:エレミヤ書 13章〜15章
■アウトライン
●腰帯と酒のつぼ:13章
・腰の帯:1-14節
・まだ主がやみを送らないうちに:15-17節
・輝かしい冠が落ちた:18-21節
・なぜこんな事が起こったのか:22-23節
・いつまでたってもきよめられない:24-27節
●偽預言者:14章
・日照り:1-6節
・苦難ときの救い主:7-9節
・偽預言者:10-18節
・私たちはあなたを待ち望みます:19-22節
●みことばを食べる:15章
・四つの種類で罰する:1-6節
・行いを悔い改めない:7-9節
・悲しいことだ:10節
・敵があなたにとりなしを頼む:11節
・知らない国で敵に仕える:12-14節
・みことばを食べる:15-18節
・私の口となる:19-21節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【13章】腰帯と酒のつぼ
・腰の帯:1-14節
ここではエレミヤの特長、預言的な行動を見ることができます。人々はことばで告げても言うことを聞かないので、このように行動で示します。
ここでのキーワードは腰帯です。当時の服は上から下まで一枚の布で、頭と手のところが空いているようなものでした。それを腰帯で縛ります。特に、肉体労働や体を動かすときには、裾が邪魔にならないように、たくし上げて腰帯に引っかけます。主はそのことを行いなさいと言われています。主はこの帯を水に浸してはならないと言われます。そうするなら、パリッとした新品感は失われ、痛みやすくなるからです。しかし、次にはユーフラテス川に行き、それを岩の割れ目に隠し、しばらくしてふたたび取り出せと言われます。その帯は腐って何の役にも立たなくなっていました。
ここはさらっと書かれていますが、エレミヤがいた所からユーフラテス側まで600kmほどあり、時間も長く経過しています。帯が腐るほどの時間です。この事はバビロン捕囚の事です。
どうしてこうなったのでしょうか。主の御声に聞き従わないからです。また、心を頑なにしていたからです。それに加え、偶像礼拝をしていたからです。そのように、彼らは自分のやりたいことを第一に優先していました。
本来であれば、体の中心である腰を結ぶはずの帯が腐ってしまいました。塩が塩気をなくしたら何によって塩気を得るのでしょうか。
12節からは、別の預言的行動が書かれています。それはつぼに酒が満たされると言うことです。イスラエルではカナの婚礼で知られるように、つぼにぶどう酒を貯めておきます。彼らにとって、つぼをぶどう酒で満たしておくことは当然のことです。そこで、主はそのつぼの中の酒は神の怒りなのだと言われます。
聖書の中では神の怒りと酒に酔うことが関連付けて書かれています。本来であればこの神の怒りの酒を飲むのは私たちですが、イエス様が代わりに十字架の上でこの神の怒りの酒を引き受けてくださいました。
・まだ主がやみを送らないうちに:15-17節
主はさらに警告されます。主に聞けばそれで良いのです。主の所に来れば赦されます。これは主のあわれみの期間です。イエス様はまだ二度目に来られていません。その時をもってこの恵みの時間は終わります。それで、主がやみを送らないうちに主に聞きなさいと招いてくださっています。この主の恵みの期間はいつか終わると言うことを覚えておく必要があります。
そのことを知り、エレミヤは涙を流します。これは主の涙でもあります。
・輝かしい冠が落ちた:18-21節
ここでは王だけではなく、王母に対しても語れています。おそらく、エホヤキン王のことでしょう。彼は18歳で王となりましたので、実際は母が権力を握っていました。ネフシュタという名前です。(2列24:8)彼の治世はわずか三ヶ月でした。そうして、捕囚が行われていきます。
王と王母に対しては「低い座に着け」と言われています。へりくだることが大切です。
・なぜこんな事が起こったのか:22-23節
私たちは自分の理解を超えたことが起こると、その理由を求めます。この時もそうでしたが、主の答えは「多くの咎のため」というものでした。
また、クシュ人は皮膚の色が黒い人種です。その色を変えられないように、ひょうの斑点模様を消せないように、あなたがたは悪に慣れ親しんでしまって、それがあたりまえとなってしまったと言っています。そのような彼らを変えることができるのは主以外ありません。
・いつまでたってもきよめられない:24-27節
主は荒野や渇きなどを罪を持った歩みに例えられます。干からびた骨、渇いた地、水のない荒野の風などがそれです。
そして、彼らがバビロンに捕らえられるとき、26節の事が実際に起こりました。これは彼らの霊的状態をも表しています。不品行を伴った偶像礼拝によってそのようになりました。それは隠されることなく、公にされました。
主はそれらをご覧になり、心の叫びを口にされます。「ああ。エルサレムよ。あなたはいつまでたっても、きよめられないのか。」
【14章】偽預言者
・日照り:1-6節
この時、日照りがありました。この日照りは相当長く続いたようです。主に聞き従わないとき、雨が降らなくなります。
雨の少ないイスラエルでは貯水槽に水をためておきます。そこにも水がありません。
私は子どもの頃、山の集落に住んでいましたが、そこでは共同の井戸水で生活していました。それで、夏に雨が降らないと井戸の水が涸れて、水道をひねっても水が出なくなることがしばしばありました。
イスラエルでは乾期と雨期がはっきり分かれています。初めの雨といわれる秋の雨です。渇いた土地をこの雨が潤し、次の年に種を蒔くために土を耕しやすくなります。もう一つは後の雨という春の雨です。この雨で植物は水分を得て、春に豊かな実を結びます。
ここでは秋の雨が降らないとあるので種を蒔くことができません。青草もないので野ロバも立ち尽くし、ジャッカルのようにあえいでいます。
・苦難ときの救い主:7-9節
そのような状況を見て、エレミヤはとりなして祈ります。彼はどのように祈っているでしょうか。
まず、自分たちの罪と咎を認めて告白しています。そして、主の御名のために事をなしてくださいと祈っています。
その上で、自分たちを他人のように扱わないでくださいと祈っています。主が中心におられ、人々は主の御名をもって呼んでいるので、置き去りにしないで下さいと祈っています。
・偽預言者:10-18節
この民について主の答えがあります。エレミヤは彼らをさすらう人のようにしないで下さいと祈りましたが、彼らはさすらうことを愛していました。罪を取り除いて下さいと祈っても、彼らが罪を愛していました。
主は自分の罪を認め、へりくだり悔い改める者は赦してくださいますが、そうしない者には働かれません。
このような辛い現実はエレミヤの時代だけでなく、今の私たちも体験するのではないでしょうか。しかし、あきらめてはいけません。祈りはしつこさが大切です。ルカ18章に書かれています。あきらめることなく、とりなして祈りましょう。
続いて13節からは偽預言者が出てきます。この後は偽預言者とエレミヤの対決が書かれていますが、その第一ラウンドです。エレミヤは神の声を聞いていましたが、自分は預言者だと言っている者は「平安だ」と語っているという葛藤がありました。
私たちが悔い改めるなら、ありのままの私を主は受け入れて下さいます。しかし、その後もそのままでいいという訳ではありません。信仰の成長が大切です。偽預言者のことばは「あなたは変わらなくて良いよ。そのままでいいよ。」と言っているようなものです。
14節を見ると、主の御名によって偽りを預言していると書かれています。私はかつて、ある人に祈られたとき、その人は「主は言われます。○○、主は言われます。○○。主は言われます…」と祈るので、途中で私は「主はその様なことは言われていませんよ。みことばのどこにそれが書かれていますか?」と祈りを止めてしまったことがあります。その人は一生懸命祈ってくれていたのかも知れませんが、全く主の御心と違うことを祈っていたので、その祈りに耐えられなかったのです。人に祈るときに「主は言われます」というのは少し危険です。もし、主はそのように言われないのにこのように祈るなら、祈った人に主のさばきが下ります。主が言われるのはみことばの中からだけです。それ以上は自分の思いか、悪霊からのインスピレーションの可能性があります。自分の思ったこと、感じたことなどを神のことばよりも優先して祈る祈りは危険な祈りです。
もし、牧者が教会で悔い改めを教えないなら、17-18節にあるようになります。罪によって受けた傷をそのままで人々が歩いている姿です。もし、矢や剣が刺さったまま、血を流しながら歩いている人がいたらどうでしょうか?すぐに駆け寄って救急車を呼んであげるでしょう。
肉の目では見えませんが、霊の目が開けるなら、人々はそのような状態です。罪の故に沢山の傷があり、そこからいのちが流れ出しているような状態です。教会で偽預言を語るなら、このような状況になります。そして、その対処の仕方もわからないのです。
・私たちはあなたを待ち望みます:19-22節
そこでエレミヤは必死になって祈ります。神の回復を信じ、神がユダを退ける事のないことを信じて、彼らを代表して祈っています。
主の約束を信じて祈ります。また、主が約束された事に基づいて祈っています。偽預言者と対照的な祈りです。
偽預言者は自分の感覚、感情に基づいて人の目を気にして祈ります。一方、真の預言者は神の約束に基づき、神の目を気にして祈ります。同じ祈りに見えますが、似て非なるものです。
【15章】みことばを食べる
・四つの種類で罰する:1-6節
主がどれ程憤っておられたかがわかります。モーセとサムエルを連れてきても民を顧みないと言われています。とりなしの代表選手のような主の器です。この二人をもってしても、この民を顧みないと言われています。
民はエレミヤの預言を聞こうとしていません。「どこへ去ろうか」と言っています。そこで、主はこれから起こる現実をお知らせになります。疫病による死か、剣で殺されるか、飢饉で死ぬか、もしくは生き残った者は捕囚されるかです。この事はずっと前から語られていることです。(レビ26:23-26)
彼らの身に起こることは世界中の人におののきを与えます。主は「だれがおまえをあわれもう」と言われます。悲惨すぎて、憐れむこともできないほどです。これが主に背を向けた結果です。
どうしてこのようなったか、その決定的なことはマナセがエルサレムで行ったことでした。詳しくは列王記第二21章、歴代誌第二33章に書かれています。一言で言うなら、神殿に偶像礼拝を持ち込んだことです。主は忍耐深く、あわれみ深いお方ですが、罪に対してはいつまでも黙っておられる方ではありません。
・行いを悔い改めない:7-9節
この時の破壊はすさまじい者でした。バビロンに抵抗する男たちがどんどんと殺されています。母も息子たちを失い、絶望に打ちひしがれています。
・悲しいことだ:10節
エレミヤは余りのつらさに、自分が生まれてきたことを嘆いています。自分がいるから国中の争いの相手、けんかの相手となっていると言っています。
・敵があなたにとりなしを頼む:11節
しかし、主がそれに対して慰めて下さいます。この状態から必ず解き放ち、幸せにすることを約束して下さいます。その上、敵があなたのとりなしを頼むようになると言ってくださいます。
・知らない国で敵に仕える:12-14節
バビロンがエルサレムを破壊するとき、一緒に神殿から財宝を奪い取ります。つまり、エルサレムには沢山の財宝があったことがわかります。そして、彼らはその富に拠り頼んでいました。
・みことばを食べる:15-18節
エルサレムの破壊の預言を聞いて、エレミヤは悲しみます。主からのことばを遮るように主に訴えています。
このような主とのやりとりを通して、エレミヤは更に主との親密な関係に導かれます。
16節を見てください。みことばが喜びとなっています。このような主との関係の中で、みことばを食べたとあります。ここにみことばはたましいの食べ物であるという根拠があります。みことばを見つけ、それを朗読することはたましいの食物となり、成長の糧になります。そのみことばがたましいに達すると、それがよろこびとなります。それで、自分に主の名が付けられていることを知り、喜びます。
絶望の預言が多い中で、このような預言はキラリと光り、希望となります。
ところが、一歩外に出るとみことばと無関係に生きる人々がいます。そのような状態でも彼らは神殿での礼拝を守り続けています。二心の人々です。「自分は礼拝を守っているから、悔い改めなくてもいい」と思っていました。それで、エレミヤはそのような人のところにいられなくなります。主に対して自分は傷を負い、約束通り自分を救っておられないと不平を言います。
・私の口となる:19-21節
そのことに対して、主は優しくエレミヤを諭されます。あまりにも人々が主のことばを聞かないので、主のことばを語ることに疲れてしまいます。働き人なら同じ葛藤を覚えるのではないでしょうか。みことばを語るのに疲れてしまっています。それを知って、主はわたしのところに帰りなさいと言われます。
働き人でこのような燃え尽き症候群にかかる人がいます。その回復のためには、主のところに立ち返ることです。主は悪者から守ってくださってくださることも約束されています。
私たちにもこのことばが語りかけられていると信じます。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
主は私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場です。主のところに立ち返ることができるように祈ります。