シャローム!
預言者の働きはとても孤独です。人々からは奇妙に見え、理解されることもありません。預言者は神のことばを受け取るために文字通りすべてをささげ、いのちまでもささげることもいといません。
そのようにして与えられた神のことばを語っても、人々は聞こうとしません。良くなるどころかむしろ悪くなってしまいます。
神のことばを語れば人々は悔い改めることを願いますが、そうはならず、好き勝手な事をします。その上、預言者を殺そうとまでします。
それでも預言者は神のことばを語り続けます。人々からどのように思われようとも、神だけを一心に見つめて忍耐し続けます。
多くの人は預言の働きに憧れるかも知れませんが、いざ、自分に預言の賜物が与えられた、主に「こんなはずではなかった」と祈るかも知れません。それほど、預言者の働きは重要なものです。
今日もみことばから教えられていきましょう。
今日の通読箇所:エレミヤ書 16章〜18章
■アウトライン
●破壊に備えて:16章
・妻と子を持つな:1-10節
・咎とは何か:11-15節
・そんなものは神ではない:16-20節
・知らせる:21節
●安息日:17章
・鉄の筆と金剛石のとがりで記される罪:1-4節
・人の心は陰険で直らない:5-11節
・恥を見る:12-13節
・私をいやしてください:14-18節
・安息日に荷物を運ぶな:19-27節
●陶器と陶器師:18章
・陶器師の家:1-17節
・計画を立てエレミヤを殺そう:18節
・彼らを罰してください:19-23節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【16章】破壊に備えて
・妻と子を持つな:1-10節
主はエレミヤに行動を超えたような預言的な行動を命じられます。妻をめとるな、子どもを産むなというものでした。この後やってくる危機を主はご存じだからです。1コリント7:26-27には「現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。」とあります。
これは主の命令に反しているようにも見えます。なぜなら、主は人を造られたとき「うめよ、増えよ」と仰せられたからです。しかし、主が語られたのであれば、それに従う必要があります。人の思いより主のご計画の方がいつも高いのです。
5節からは葬式にも行くなと言われています。日本にも昔から「村八分」ということばがありますが、どんなに仲間はずれにされている人でもお葬式くらいは参列するという意味です。
エルサレムの破壊であまりにも沢山のなきがらがそこに転がるから嘆くこともできないほどになるからです。
そのような普段の生活と違うことを突然死なければならないので、人々はエレミヤにその理由を聞いたり、迫害したりするかもしれません。それに耐えなければなりませんでした。
・咎とは何か:11-15節
ずっと神のことばを言い続けましたが、人々は聞きませんでした。ところが、ここで少しだけ聞く人が出てきます。「それだけすごい災いが起こるのだったら、自分たちはどれほど悪いことをしたのか」と言っています。これはエレミヤの時代だけでなく、モーセの時代から語られていたことです。何度も語れているのに、人々は聞いていません。その原因は神様にあるのではなく、彼らの咎が原因です。他の神々に従っていることです。原因は外にではなく、彼らの中にありました。私たちも同じです。
14節からを見ると、希望の兆しが見えます。彼らのしてきたことの刈り取りが終わったら、回復があることをほのめかしています。言わば、第二の出エジプトです。そこに希望があります。主の御約束は必ず実現します。
・そんなものは神ではない:16-20節
人は悪いことをしたら隠す性質があります。誰に教えられたわけで泣く、小さな子どもでもその性質があります。主は隠れたところで犯している罪であっても、その罪に対するさばきは必ずある。」ということを強調されます。すべての隠れていることは明らかにされます。
祭司やリーダーだけではなく、漁夫や狩人までバビロンによるさばきが及びます。
つまり、彼らがひそかに行っていた偶像礼拝が明らかにされます。それもすべて、彼らから出たことです。
・知らせる:21節
主は人々にその御力を知らせます。神が神であることを知らされます。そして、主が主であることを知らされます。当たり前のように思うかも知れませんが、私たちもこの事を忘れがちです。
【17章】安息日
・鉄の筆と金剛石のとがりで記される罪:1-4節
金剛石は、別の訳ではダイヤモンドと訳されていますが、実際はダイヤモンドではないようです。しかし、相当堅い鉱物であったのでしょう。この堅い金剛石だから青銅に刻むことができます。
そのように、彼らの罪が心に刻まれています。それは同時に偶像礼拝の祭壇の角にも刻まれます。異教の神との契約のようなものです。
前にも語られていましたが、すべての財宝が引き渡されます。イエス様も神に仕えるか富に仕えるかしかできないと言われています。彼らは富に仕えていました。そして、自分たちのピンチの時にだけヤハウェなる神に頼っていました。貧しいときには富にもたよることができません。神しか頼るものがありません。むしろその方が幸いなのかも知れません。
・人の心は陰険で直らない:5-11節
また、ユダの人々は富や力だけでなく、人間にも頼っていました。心が主から離れる者は呪われます。主以外に頼るならすべてそれは偶像礼拝です。だからといって、人に頼ってはいけないわけではありません。順番が大切です。まず神を愛すること。それから自分を愛するように隣人を愛するという順番です。いつでも神様が第一になる必要があります。
そして、エレミヤは詩篇1篇にあるようなことを語ります。このみことばは真実です。
そして、9節です。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」とあります。本当にその通りです。私は徹夜の祈りで、また普段の祈りの生活の中で、何度も何度も腹を打ちたたき、悔い改め続けました。しかし、一向に罪の性質は私から離れ去りませんでした。そこで、アテフ博士が来日されたときにそのことを質問しました。すると博士は「それはその通り。その上で神様の恵みに拠り頼むことです」と答えられました。人の力では自分を変えることはできません。主の恵みに信頼し続けることです。それ以来、本当に少しだけですが、自分は成長できたのではないかと感じます。
人の力でこの陰険な心は直りません。しかし、聖霊様が来て下さるときに過ちに気づかされます。そして主の恵みに拠り頼むなら、私たちは主の方法によって変えられていくことを信じます。
ちなみにですが、11節に「しゃこ」と出てきますが、これは調べるとどうやらウズラとキジの中間のような鳥だそうです。私は勝手にずっとエビのシャコかと思っていました。
・恥を見る:12-13節
エレミヤの希望をここでも見ることができます。主に信頼し、主のおられる聖所を仰ぎ見ている姿です。ユダの民が失っていた姿です。それは単に礼拝をするだけではなく、心からの礼拝です。主との生きた関係です。
・私をいやしてください:14-18節
エレミヤは迫害の中、中傷する者についての祈りをはじめます。
まず、エレミヤは神のことばを教えている者に、不敬虔さを指摘します。偉そうなことを言っていますが、実際には言うだけで行っていないということです。
そして、牧者としての最も大切なことを言います。主に従うことです。エレミヤは人々に無視されても、迫害されてもなお、彼らが癒やされないことを望んだことなどありません。迫害する者のために祈っています。
そしてエレミヤは、自分の恐れに関しても主に祈ります。迫害する者たちについて、彼らの悪い行いによって主の働きをやめてしまうことがないように祈っています。
・安息日に荷物を運ぶな:19-27節
ここでは安息日について語られています。主の例祭の中でも最も大切な日です。この日は労働は禁止されていました。しかし、エレミヤの時代には安息日にも商売がされていました。
安息日はストップすると言う意味もあります。自分の生きていくための働きをストップして、神様に目を向けることが安息です。24節から、安息日の祝福が書かれています。私たちはあまりにも忙しすぎます。そのことが主に拠り頼むことを妨げてしまう事もあります。ただ主の前に静まり、みことばと祈りの時間を持つことが安息の本質です。
しかし、安息日を守らないなら、災いがあります。それはすなわち、主への不従順を意味するからです。
【18章】:18章
・陶器師の家:1-17節
ここで主はご自分を陶器師、民を陶器にたとえて話されます。このみことばをよく読んで、自分に当てはめてみましょう。私たちは造られた者です。造られた者が造った人に文句を言うことはできません。制作者の深い意図があって造ったからです。
私たちが苦しむのは、本来の生き方をしていないからです。たとえば、自分は本棚として造られているのに、窓から見える車に憧れて「自分は車になりたい」と言って道を走るなら、削れて本棚は壊れてしまいます。
そういった意味でも造り主をもっと深く知り、自分の造られた目的を知ることは、私たちがこの地で幸いな生き方をするために大切なことです。
主はそのようにしてご自分の力と憐れみ深さを教えて下さいます。そして、主は人が失敗してしまうこともご存じです。その上で、悔い改める者は赦してくださいます。
ですから、聖書を読むときに「神のさばきは辛い、恐い」と言ったり、「信仰は窮屈だ」と言うのであれば、神様の本当の目的をまだ理解していないことになります。主は主権者です。この方の立てられたルールがすべてです。それを聞き、従う者は祝福されます。
この陶器師の家に行く様子は、マックス・ルケードの「たいせつなきみ」の絵本のようです。だめシールを貼られたウィミックが造り主のところに行き、自分の本当の存在価値を教えてもらいます。
そして、その事を知るなら、今度は出て行くことができます。そして、人々にその喜びを伝えます。
ところが、人々はそのことを聞くと「だめだ」と言います。これは自分は悔いあらためることができないと言っていることになります。神のことば、造り主のことばよりも、自分の思っていることを優先させています。人々は「どうせ悔いあらためても、また元にもどるから、このまま罪の生活をしていたほうがいい」と言います。それは自分を愛していることになります。
終わりの時代、人々は自分を愛し、金を愛するようになります。しかし、1ヨハネ5:3には「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」とあります。神の慈愛が私たちを悔い改めへと導くのです。
しかし現実は、13節からにあるように、あたりまえの事を忘れてしまっている状態です。雪がヘルモン山に降り、それが川を流れガリラヤ湖に注がれるという恵みがあるのに、人々はそれを忘れてしまっています。自分の事しか考えていないからです。
・計画を立てエレミヤを殺そう:18節
ここに恐ろしい事が書かれています。陶器師なる主はご計画を持っていました。しかし、ここでは人が計画を立てて、エレミヤを殺そうとしています。神のご計画に真っ向から反対しています。
私たちは陶器でいることが時には辛く感じることがあるかも知れません。しかし、主は私たちをそのように造られたのです。陶器には陶器の役割があります。それを全うすることが幸いな生き方です。
真理を語るエレミヤに対しての人々の報いは殺意でした。彼らはエレミヤを攻撃しているように見えますが、その実は神様を攻撃していることになります。真理に対抗しようとしています。私たちも民のよういなっていないでしょうか。
・彼らを罰してください:19-23節
エレミヤは祈ります。どうしてこれほどまでにされ、なお民のために祈るのでしょうか。それが本当の預言者です。主の心をいただいている証拠です。イエス様もそのようにされました。十字架の恵みに生かされる私たちもそのように、敵のために祈る事を、悪に悪を報いることをせず、かえって善を施すことのできる信仰と人格を求めていきましょう。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
敵のために祈れるように祈ります。