聖書通読クラブ Day 231

聖書通読クラブ Day231【エレミヤ書 19章〜21章】

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シャローム!

私たちは、聖書の人物に一種のシンドロームを抱いているかもしれません。確かに、聖書に出てくる主の器はものすごい働きをしています。しかし同時に、彼らは人間であることも覚えなければなりません。彼らがすごいのではなく、彼らを用いられた主がすごいのです。
そして、主の器は時に葛藤し、悩みます。自分の生まれてきたことさえも呪ったりします。それほどに苦しみを受けますが、その時に主の恵みを知ります。
私たちも日々の生活の中で葛藤があるでしょうか。解決できない問題、病はあるでしょうか。それはある意味幸いなことかも知れません。そのことを通して飢え乾きが起こり、主を求めます。
そして、感情も揺れ動きます。聖書は感情のゆれをある程度許容してくれています。ダビデも怒ったり、敵を呪ったりしています。しかし、その後すぐに主に立ち返っています。
私たちも日々の生活で感情が揺れ動くかも知れませんが、そのことを正直に主に告白してみましょう。そして、なるべく安定した人格が与えられるように祈ってみましょう。
信仰と人格は共に欠かせないものです。

今日の通読箇所:エレミヤ書 19章〜21章

■アウトライン

●わざわいがもたらされる:19章(1-15節)

●迫害:20章
・パシュフルへの預言:1-6節
・燃えさかる火のようなみことば:7-12節
・主をほめたたえよ:13節
・生まれた日を呪う:14-18節

●行いの実:21章
・いのちの道と死の道:1-10節
・ユダの王家のために:11-12節
・行いに従って罰する:13-14節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【19章】わざわいがもたらされる:19章(1-15節)

ベン・ヒノムの谷は以前にもお伝えしましたが、ユダの人々が偶像礼拝をしていた所で、後にゲヘナと呼ばれる谷です。ここに書かれている「瀬戸のかけらの門」は、糞の門ではないかと言われています。
また、「耳が鳴る」とは、あまりの恐怖で恐れおののく事の表現です。1サム3:11、2列21:12にも同様の表現があります。
そして、この場所は見分けが付かなくなっています。聖さと汚れが混ざり合っています。聖さとは、特別に区別された事を意味しますが、霊的堕落が進み、神の聖さが失われてしまいました。
ベン・ヒノムの谷は「虐殺の谷」と呼ばれます。バビロンが攻めてきて、殺した人々をここに積み上げます。人々の屍はさらされたままで、埋葬もされません。
また、生き残った者も飢餓のために飢えから共食いをするほどになります。恐ろしい光景です。まさに、ゲヘナという名にふさわしい場所です。
10節からを見ましょう。ここで陶器師の瓶が使われます。焼き上げられる前の粘土は、やり直すことができますが、焼き上げられた陶器はやり直すことができません。落とすと砕かれます。
主はユダの人々を、私たちを最高傑作として創造されました。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)
それなのに彼らは良い行いに進むことができなかったので、主はこのように言われました。
主に聞き従わないことはやがて大きな悲劇を招くことになります。

【20章】迫害

・パシュフルへの預言:1-6節
いままでエレミヤは口による迫害を受けているだけでしたが、ついにここで打たれます。聖書で打つというと、多くはむち打ちを意味します。イエス様もむち打たれました。パウロも、使徒たちも同様です。エレミヤも同様にむちを受けたのかも知れません。そして、足かせにつながれていました。
ところが、パシュフルという者が足かせを解きました。それでエレミヤは彼に「恐れが回りにある」と言いました。パシュフルとは「広がりが回りにある」と言う意味です。平和が広がっていくという意味ですが、エレミヤは秘話を恐れに変えました。そして災いを宣言しました。彼らが富にたよっていたからです。

・燃えさかる火のようなみことば:7-12節
エレミヤはここで主の霊を受けて預言を始めます。この7節のことばは、もしかしたらかぎかっこを付けた方が良いかもしれません。これはエレミヤが神様に対して言っていることではなく、ユダの人々がエレミヤに対して言っていることです。エレミヤは神から惑わしを受けて、それでこのような変なことを語っているとあざ笑っています。
エレミヤは、神のことばをまっすぐに語った上で、このような仕打ちを受けています。
9節、このことばがとてもよくわかります。エレミヤは「もういやだ。神のことばを彼らに聞かせてやるものか」と思いましたが、主のみことばは彼のうちにとどめることができませんでした。彼の個人的な思い出は神のことばを語りたくないのですが、それを押さえることができません。これが神の召命です。
イエス様もゲツセマネで祈られたとき、これから受けようとされている十字架の苦難の杯を取り去ってくださるように父に祈りましたが、最後は父の御心のようになるようにと祈られました。
私も働きの最中で何度も倒されました。もう二度と立ち上がれないのではないかと思うことが二度ありました。しかし、みことばをとどめておくことができませんでした。それで、今、主の恵みによってこのような働きをさせていただいています。感謝しかありません。主の召しを受けた者は、誰が止めようともそのことを人の方法ではなく、主の方法と力によってなしていきます。
ここでエレミヤはかつて主から語られた励ましのことばを思い出します。そのことばをもって、自分のたましいに語りかけます。

・主をほめたたえよ:13節
エレミヤは自分を貧しい者と言っています。主に打ち砕かれて、へりくだっています。そして、主を賛美しています。このような状況でも主を賛美することができるのが信仰者の特権です。主を喜ぶことは私たちの力です。

・生まれた日を呪う:14-18節
このように主を賛美した直後、突然鬱のような状態になっています。ヨブと同じように、自分の生まれたことを呪っています。エレミヤの人間的な側面を目にすることができます。
聖書に出てくる人物もこのような心のゆれがあります。ヨブも詩篇の作者もエリヤもそのほか多くの器が経験しています。そして、ペテロもイエス様の十字架の前、「いのちをかけてあなたについていきます」と言った舌の根も乾かないうちに「イエス様を知らない」といって呪ったりしています。
私たちもこのような感情の起伏がありますが、イエス様の血潮によってそれは整えられていきます。高い山は削られ、低い谷は埋め立てられ、曲がりくねった道がまっすぐにされます。

【21章】行いの実

・いのちの道と死の道:1-10節
エレミヤはゼデキヤに対して預言します。ゼデキヤは最後の王です。バビロンがエルサレムを奉仕始めますが、この後バビロンが攻めてきてエルサレムは陥落します。
ゼデキヤはパシュフルとゼパニヤをエレミヤの所に遣わします。そして質問をします。その内容は「北イスラエルがアッシリヤに囲まれたとき、一夜にして逆転劇が起きたように、今の南ユダもそのようにならないか」と言うことでした。エレミヤの答えはどのような者だったでしょうか。
主はバビロンから守ってくださるのではなく、むしろバビロンと共にエルサレムに対して戦われます。彼らの武器はエルサレムに集められます。すなわち、バビロンがエルサレムの中心にまで攻めてくると言うことです。それに加え、疫病も起こります。主の御手はイスラエルを守ることではなく、かえって攻めることに用いられています。
ゼデキヤは神のことを知っていましたが、それは単なる情報として知っていただけです。実際には神様との生きた関係はありませんでした。神との関係はその実によって見分けることができます。
このような神の御怒りが起こっている最中でも、主は民を憐れんでくださいます。彼らにいのちの道と死の道を置いてくださいます。しかし、これはモーセの律法の中ですでに語られていました。「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。」(申命記11:26)
私たちにもいつも、この二つの道があります。その良い方だけを選び取ることができるよう、みことばの朗読と祈りを続けて行きましょう。

・ユダの王家のために:11-12節
今まではゼデキヤに対する預言でしたが、ここではユダの家に対する預言です。ヨシヤ王の後にできてきた王たちにこのことばが送られています。この時代は、大きな問題は裁判官や祭司ではなく、王が直接さばきを行います。その目的は虐げられている者を救うためです。王にはその権限がありました。そうしなければ、主の憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消す者がいないほどになります。

・行いに従って罰する:13-14節
主はむやみにさばかれるお方ではありません。あらかじめ、ずっと長い期間を通してメッセージを送り続けてくださいます。いざ、主の御手が動いてもなお救いの道を用意してくださいます。その恵みの期間に、何をしたかが問われます。
主は行いの実にしたがって罰するとあります。それは、この地上での歩みをも意味しているかも知れません。
天の御国でできないことがいくつかあります。伝道もできません。もう一つは、悔いあらためもできません。それらは完了するからです。地上に置かれている今しかできないこともあります。結局、主の御前で問われるのは、この地上で主をどれだけ愛したかです。主を愛するとは何でしょうか。主の戒めを守ることです。そのために毎日通読し、祈っています。これからも主を愛していきましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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