聖書通読クラブ Day 164

聖書通読クラブ Day 164【詩篇31篇〜35篇】

Spread the love

シャローム!

私たちは子どもの頃から、テレビや漫画、映画などの影響で敵と味方の構図をよく見ます。最初に主人公は自分の弱さに悩んでいます。そこに敵が現れます。ピンチになってどうしようかと思ったら不思議な方法で強くなり、敵を成敗するという構図です。
問題は、私たちの敵が誰かと言うことです。多くの場合、敵は他人でしょう。どうしても赦せない人、どうしても耐えられない人がいるかもしれません。もしかしたら「主よ、あの人を滅ぼしてください」と祈ったことがあるかもしれません。
しかし、実は敵は彼らではありません。敵は自分の中にあります。歴史を見ても、大きな国ほど内側から崩れていきます。私たちの中に住む神様に従わない性質が目の前の人に投影されているだけです。
そのことをサタンは利用して、相手に対して憎しみの心を与えます。そして敵対させます。しかし、イエス様の十字架によってすべての敵意は廃棄されました。私たちに罪を犯す者を私たちが赦すように、主は私たちを許してくださいます。
今日、みことばの朗読の中で、今一度自分の敵は何か、どこにあるかをみことばに教えていただきましょう。

今日の通読箇所:詩篇31篇〜35篇

■アウトライン

●敵から救いかくまわれる:31篇
  ・網から引き出してください:1-4節
  ・私の霊を御手にゆだねます:5-8節
  ・四方八方みな恐怖:9-13節
  ・私の時は御手の中にある:14-18節
  ・おおきないつくしみ:19-22節
  ・主を愛しまつれ:23-24節

●助言を与えてくださる主:32篇
  ・霊にあざむきのない人:1-2節
  ・疲れ果てる骨々:3-4節
  ・罪のとがめを赦される:5節
  ・救いの歓声で取り囲む:6-7節
  ・行くべき道:8-9節
  ・恵みが取り囲む:10-11節

●注がれる主の目:33篇
  ・新しい歌:1-5節
  ・主のことばによって:6-8節
  ・御心の計画:9-17節
  ・恐れる者に注がれる主の目:18-21節
  ・主の恵み:22節

●霊の砕かれた者:34篇
  ・主を恐れることを教えよう:1-22節

●私と争う者:35篇
  ・悪者への主のしうち:1-6節
  ・ひそかに網を張る:7-10節
  ・暴虐な証人:11-16節
  ・黙っていないでください:17-22節
  ・主の誉れを口ずさむ:23-28節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【31篇】敵から救いかくまわれる

・網から引き出してください:1-4節
ダビデは繰り返し、主が自分の拠り所だと宣言しています。人は知らないうちに主を忘れ、自分にたよってしまいそうになります。ですからダビデは口癖のように、また、切なる願いを持って主が自分の拠り所だと宣言しました。ダビデにとって主は力の岩です。強いとりでです。

・私の霊を御手にゆだねます:5-8節
ダビデは自分の心を主に告白し、その次には信頼と安全へと導かれています。イエス様もまた、十字架で「父よ、わが霊を御手にゆだねます」と言われました。心配を自分で持っていると心配は無くなりません。しかし、私たちの心配を取り去るために主は十字架にかかってくださいました。すべてを主の御手にゆだねましょう。
そうするなら、主の恵みを楽しむことができます。私たちが本当に楽しめないのは、心に不安があるからです。主にすべてを委ねるなら、喜びがわきあがります。
ダビデはむなしい偶像と言っていますが、それは神を信じず、この地上のものに拠り頼んでいる者です。ダビデはそのような者を憎み、主に信頼しています。私たちもこれに倣いたいです。

・四方八方みな恐怖:9-13節
ダビデは王でした。自分や家族だけでなく、国家の苦しみがありました。ですから、彼の苦しみは体を疲れさせせるほどでした。
ダビデは何度となく親しい者から裏切られています。孤独を味わいました。四方八方みな恐怖の状態です。
しかし、ひとつだけ空いている方向があります。上です。主はいつも天から見下ろし、正しい者を引き上げてくださいます。
そして、主の目で見るなら敵が私たちを取り囲むのではなく、主のいつくしみと恵みが私たちを取り囲みます。

・私の時は御手の中にある:14-18節
主は自分の時を主の御手にゆだねています。1ペテロ5:6にはどのように書かれているでしょうか。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時にあなたがたを高くしてくださるためです。」
それでも、主の前に正しく歩む者にいろいろなことを言ってくる人がいます。それでダビデはそのように告発してくる者の口を封じてくださいと祈っています。

・おおきないつくしみ:19-22節
ダビデの心は揺れますが、結局ここに戻ってきます。主を信頼すると言うことです。私たちの日々の戦いもここにあるのかもしれません。神に信頼するのか。自分に信頼するのか。
そのような葛藤を繰り返していくうちに、私たちの告白は賛美へと変えられていきます。
しかし、ダビデであっても主の恵みを忘れそうになることがあります。ですから「私はあなたの目の前から断たれたのだ」と言っています。悔い改めの祈りです。これを気づかせてくださるのは聖霊様です。私たちも主の道からそれていることに気づいたら、すぐに軌道修正をしましょう。

・主を愛しまつれ:23-24節
ダビデは自分の体験を通して、主を愛することを勧めます。そして、心を強くせよと励ましています。誰に向けられたことばでしょうか。主を待ち望む者です。
この時代には、まだ救い主はこの地上に来ていません。しかし、救い主は来られました。では、私たちは何を待ち望むのでしょうか。それは主の再臨です。再びこの地に私たちを迎えに来られる主を待ち望みましょう。暗く、問題ばかりに見える今の時代にもダビデの励ましが響くのではないでしょうか?

【32篇】助言を与えてくださる主

・霊にあざむきのない人:1-2節
ダビデは何度も幸いな人がどのようなものであるかを語ります。ここでは何が幸いでしょうか。それはそむきを赦され、罪をおおわれた人です。この時代は動物の血でこの事が何度も行われていました。
しかし、今の時代はイエス様がただ一人のまことのいけにえとして十字架で血を流してくださった、その尊い血潮によって、私たちのそむきは赦され、罪が覆われています。これが購いです。

・疲れ果てる骨々:3-4節
ダビデはそのような者になる課程で黙ると言うことを学ばされました。自分の主張をしたいのにそれをあえて黙ります。黙ることは話すことよりも苦しいです。本当に骨が砕けそうになるほどつらいです。
しかし、その苦しみは十字架の恵みです。自分の中にある罪を示されている瞬間でもあります。

・罪のとがめを赦される:5節
この示された罪を主に正直に告白する時、主は罪のとがめを赦してくださいます。
罪は誰にでも告白すれば良いというものではありません。できるなら、神様に告白するのが一番良いでしょう。誰もいない、奥まった部屋で主が目の前におられるように、心の内を話すのです。主はその告白を聞いてくださいます。

・救いの歓声で取り囲む:6-7節
だびでは「それゆえ」と語り始めます。主が赦してくださるから、私たちは主に祈ることができます。すべてを受け止め、すべてを赦してくださるお方だからこそ、心の内をなにも隠さずしゃべることができます。
よく、「悔い改めの祈りができないのですが、どうしたらいいですか」と聞かれることがあります。そのような方に私はこう答えます。「まず、神様がどのようなお方かをみことばから教えていただき、それを告白し続けましょう」と。悔い改めるお方、立ち返るお方がどのようなお方か知らなければ悔い改めることもできません。本当に何でも赦してくださるお方だという確信がなければ、心の深い葛藤を話すことができません。主をもっと知りましょう。

・行くべき道:8-9節
主は私たちに悟りを与えてくださいます。そして行くべき道を押してくださいます。最近では車に当たり前のようにナビゲーションがついています。自転車にもありますし、スマートフォンにもナビゲーションがあります。ですから私たちは初めての場所でも迷うことなく目的地にまで到着できます。
主こそ人生のナビゲーションをしてくださるお方です。このお方に従うなら、絶対に迷うことはありません。ただ、ひとつ条件があります。徹底的にこのお方に従うと言うことです。そうしないなら、道に迷い込んでしまいます。

・恵みが取り囲む:10-11節
ダビデは強いコントラストを描いています。悪者は心の痛みが多いとあります。不安や恐れがその人を取り囲んでいる状態です。しかし、主に信頼する者はどうなると書かれていますか?恵みがその人を取り囲むとあります。なんと素晴らしいことでしょうか。この事実を知ったなら、私たちは喜ばざるを得ません。
正しい者たちとダビデは呼びかけます。何が正しい者でしょうか。間違いを間違いと認め、主に立ち返ることのできる者たちです。みなさんがそのような人であることができますように。

【33篇】注がれる主の目

・新しい歌:1-5節
この詩篇はひとつ前の32篇の続きと言われいます。正しい者へ与えられる喜びからはじまっています。
心の直ぐな人はみことばによって示された罪を素直に認め、主に信頼しています。そのような者からあふれ出す喜びが賛美です。
2節には琴が出てきます。ダビデが賛美を奏でるために造った楽器とも言われています。そうです。ダビデはいつもクリエイティブでした。時にはエポデで踊るという王として考えられないような事をしますが、それほど常識に縛られず、神様を褒め称えることに制限を設けていません。私たちもそのような自由な気持ちで主を賛美したいですが、教会でそのことをするときに一つだけ注意事項があります。それは秩序を乱さないと言うことです。
以前、賛美の時に、本当に心から喜び踊っている人がいました。最初は良かったのですが、徐々にエスカレートしていき、周りの人に迷惑になるような動きになってきました。それはやりすぎです。一人のときにそのように賛美してくださいねとその人には伝えました。
しかし、愛と秩序を保ちながら、私たちはいつでも新しい歌を主に献げていきましょう。

・主のことばによって:6-8節
ここでは主が天地を創造された事が歌われています。主の御口のいぶきですべてが創造されました。それまで主はご計画をされていましたが、主の時が満ちたときにその事をことばとして口から出されました。その瞬間にすべてが創造されました。
私たちは神の子です。それであれば、父と同じ性質を与えられているはずです。それなら、私たちが口から出すことばがどれ程重要かがわかるのではないでしょうか。
不平不満や文句、陰口や暴言をいつも口から出していたら、それが本当に現実のものとなってしまうのです。意思を持ってこの口からいつも主への賛美が出てくるように、この口を主に見張っていただきましょう。

・御心の計画:9-17節
主が命じられたらその通りになります。私たちはすべてを従えよと神様からの仰せを受けています。地上で唯一ことばが与えられているのは人間だけです。このことばを持って自分を治め、すべてを治めていきましょう。
しかし、人は弱いので、何かを従えるときに支配欲ができてきます。そして高ぶりへとつながっていきます。もし私たちがそのような状態になるなら、主は私たちが考えていること、行動していることを無効にされます。そして、主のご計画だけがなされていくように導いてくださいます。それが幸いな者、幸いな国です。
主は天から目を注ぎ、すべての人をご覧になっています。私たちの心を創造された方は、すべての人の思いを知ることができます。
主との関係を築く上で、軍勢の多さ、力の強さは関係ありません。どれだけ地位があっても、お金があっても、救いを、永遠のいのちを手に入れることができません。ただ、心でイエス様を信じ、口で告白して救われます。

・恐れる者に注がれる主の目:18-21節
主の目は神の子に注がれますが、特にどのような者に注がれるでしょうか。それは主を恐れる者です。その恵みを待ち望む者です。
主を恐れるとは、主の恵みに期待することでもあります。この方の恵みによって私たちは永遠のほろびから永遠のいのちへと移されました。それだけではなく、主が私たちの助けとなり、盾となってくださいます。

・主の恵み:22節
ダビデは恵みが私たちの上にあるようにと祈っています。恵みが臨みますようにという祈りです。使徒の働きでは、聖霊様が弟子たちの上に留まり、彼らは力を受けました。そして、内側から生ける水の川があふれ出し、力強く全世界へと福音を届けていきました。同じ御霊が私たちの内に留まってくださっていることを感謝します。

【34篇】霊の砕かれた者

・主を恐れることを教えよう:1-22節
ダビデはサウルから逃げました。イスラエルの国中を転々としましたが、行くところ行くところでダビデをサウルに告げ口する者がいます。それで、イスラエルの国にいることができなくなって、ペリシテ人の所に行きます。この詩篇は「アビメレクの前で気が違ったかのようにふるまい」とあります。アビメレクとはペリシテ人の王です。この事の故にダビデはアビメレクにあきれられ、捕まらずにすみました。
その後、ダビデはアドラムという洞穴に住み、そこにごろつきが集まってきました。やがて、その人たちがダビデの勇士としてダビデに忠誠を誓う者たちとなっていきました。

ダビデは1節で主を賛美しています。そのタイミングに注目してみましょう。ダビデはいつ、主を賛美していますか?そうです。「あらゆるとき」であり、「いつも」です。例外はありません。「疲れているから」などと言い訳もしません。これがダビデの信仰です。
ダビデはアドラムの洞穴に来た貧しい者、どうしようも無い者に主をほめたたえさせました。これが最高の弟子訓練です。
主は本当にシンプルです。私たちが主を求めると、主は応えてくださいます。どうして主がわからないのでしょうか。どうして主を遠く感じてしまうのでしょうか。私たちが求めていないからです。
8節、このみことばを味わってみましょう。私たちも主の素晴らしさを味わいましょう。これを見つめてみましょう。なんとなくみことばを読むのでもなく、なんとなく祈るのでもなく、時間を聖別して、スマホの電源も切り、意思を持って主を求める時間を作ってみましょう。時の流れが止まり、永遠にこの時間が終わらなければ良いのにと思わされます。天国の前味です。
その様な者には報いがあります。主を恐れる者には乏しいことがないと書かれています。主を尋ね求める者は、良いものに何一つかけません。詩篇23篇にあるように「私の杯は溢れています」という状態です。イエス様は山上の垂訓でも、「神の国とその義とを第一とする者は、これに加えすべてのものが与えられる」と言われています。にわかに信じがたいかも知れませんが、これは真理です。主を第一とする者はおまけとして祝福がやってきます。
11節から、ダビデはアドラムにいる人々に愛情を込めて「来なさい、子たちよ」と行っています。主を恐れることは何かを具体的に語るためです。
一言で言うなら、悪口を言わないと言うことです。人々をあざむかないということです。その上で悪から離れて善を行い、平和を追い求めることです。
アドラムにいる人々は劣悪な環境で育った人たちも少なくありませんでした。殺人や暴力、強奪が生まれたときから当たり前だった人もいたでしょう。そのような人たちに、主を恐れることを徹底的に教えました。忍耐と時間はかかるかも知れませんが、冒頭でもお伝えしましたが、彼らがダビデの三勇士となり、忠誠を誓う勇士となります。
15節からは、主の目はどのような者に無垢でしょうか。耳は、御顔はどうでしょうか?主はすべての苦しみから私たちを救い出してくださいます。
そして、主はある人の近くにいてくださいます。どのような人なのでしょうか。心砕かれた者の近くにいてくださいます。たましいの砕かれた者を救ってくださいます。主によって砕かれる喜びを知りましょう。
19節には「正しい者の悩みは多い」とあります。たしかに、イエス様に出会わなければ悩まなくて良い悩みが沢山あります。主のために悩むことは、自分が聖さを求めている証拠です。そのような者を主は守ってくださいます。
主に身を避ける者、主を恐れる者はだれも罪に定められません。

【35篇】私と争う者

・悪者への主のしうち:1-6節
ダビデはサウルに、そして、アビメレクに追われたことがとてもつらかったのでしょう。多くの詩篇はその時のことが書かれています。この詩篇はおそらくサウルから逃れているときの詩篇だと思われます。
敵に追われ続ける人生は休まりません。ですから切実な思いで主を呼び求めているのです。そして、主に「わたしがあなたの救いだ」と行ってくださいと願っています。私たちも主にそのように言っていただくように願ってみましょう。
ダビデは自分の手によって敵に復讐はしません。必ず主にさばきをお任せし、主の御手で敵をどうにかしてくださいと祈ります。復讐は神様がしてくださいます。

・ひそかに網を張る:7-10節
新約聖書の時代では、敵に対してもっとレベルの高いことが要求されています。それは敵を愛すると言うことです。敵のために祈ると言うことです。人間の力ではできません。主の助けが必要です。
しかし、悪者は巧妙に網を張ります。クモが巣を張るように、見えない沢山の罠が私たちを取り巻いています。しかし、ダビデが何度もいのったように、悪者のはかりごとがその者に成就するようにと祈っています。
ダビデは主に信頼し、祈ります。それなので、敵のまっただ中にあっても喜ぶことができました。現実は変わっていません。しかし、ダビデの心が変えられています。これが大切です。心の一心によって自分を変えられる事を求めましょう。

・暴虐な証人:11-16節
ダビデは善に対して報いがないことで心を痛めています。そしてサウル断ちに対して憐れみの心を持っていました。単に「かわいそう」と思うことが憐れみではなく、敵のために悩み、葛藤し、痛み苦しむことが憐れみの心です。
しかし、そのような憐れみの心を持ってもなお、敵はさらに激しい中傷をしてきます。その中で私たちは信仰が試されます。

・黙っていないでください:17-22節
ダビデはことある度に主を賛美します。大きな会衆の中でも、強い人の間でも、場所を選ばず主を賛美しています。主を喜ぶことは私たちの力です。
ここで、批判する人たちの事を考えてみましょう。批判する人はなぜ批判するのでしょうか。いくつかの理由があると思います。一つは自分よりも実力のある人を見て批判することがあるでしょう。ねたみからくる批判です。相手を批判すると相手が低められ、自分が高められると勘違いして、安心しますが、現実は何も変わりません。自分が気持ちよくなるだけです。
他の理由として、相手の事がわからないから批判すると言うことがあります。わかりやすい例で言うなら、新しいテクノロジーや新しいシステムが出てきたとき、そのことを批判する人がいます。もちろん、否定的な目から見ることができるからこそ、安全面の考慮をすることができるかも知れませんが、時代の流れの早い現代において、新しい技術を批判ばかりして理解しようとしないのであれば、取り残されるかも知れません。
他にも沢山の理由があると思いますが、批判は何も良いものを生まないと言う事がわかります。たとえば誰かを批判し続けていて、あるときその人が周りの人から認められ、正しいことを行っていたのであれば、批判していた人の立場は逆に悪くなります。批判を繰り返す人の周りからは、自然と人々が離れていってしまうでしょう。
「人の不幸は蜜の味」ということばも聞いたことがあります。人の失敗は時にそのように感じてしまうこともあるかもしれません。私たちはそのようではあってはいけません。主の心を知って、それを行う必要があります。イエス様は十字架で人々からの中傷を忍ばれました。どうしてそれができたのでしょうか。いつも父を見上げ、その先にある喜びを見つめていたからです。

・主の誉れを口ずさむ:23-28節
何かを言ってくる人には言わせておきましょう。主が正しいさばきをして下さいます。その人が悪ければ主はその人をさばき、自分が悪ければ自分を裁いてくださいます。
少なくとも私たちの舌は主の義と主の誉れを日夜口ずさむようにしましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

あみ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です