聖書通読クラブ Day 158

聖書通読クラブ Day 158【詩篇1篇〜5篇】

Spread the love

シャローム!

今日から詩篇に入ります。詩篇は全部で5つの巻物からできています。聖書で5つの巻物と言えばトーラー、モーセ五書です。
モーセ五書は神様から人に向けられた神の戒めです。一方詩篇は人から神様に向けられた人々の賛美や葛藤の告白になります。この二つは神様からのラブソングとそれに対するアンサーソングのようにお互いに響き合っています。
詩篇はテヒリームというヘブライ語です。これは即興的に献げられる主への賛美集と言うこともできます。
著者は多くがダビデですがアサフ、コラの子、モーセ、エズラ、詠み人知らずのものなど、多くの人の賛美州であり、時代も地域も実に多岐にわたっています。
彼らがどのような状況で何を神様に告白し、祈り、賛美していたのでしょうか。今までもお勧めしてきましたが、詩篇は特にこの事をお願いします。ぜひ、みことばを声に出して朗読してみてください。
初代教会は詩篇を祈りの書として、詩篇をそのまま朗読していました。これが祈りでした。私たちもこの祈りを捧げてまいりましょう。

今日の通読箇所:詩篇1篇〜5篇

■アウトライン

●幸いな人:1篇
  ・幸いな人:1-3節
  ・悪者:4-6節

●主に身を避ける人:2篇
  ・主に逆らう:1-3節
  ・主の怒り:4-6節
  ・わたしの子:7-9節
  ・御子に口づけせよ:10-12節
  ・幸いなこと:13節

●敵の中での信仰:3篇
  ・私の敵:1-2節
  ・答えてくださる主:3-4節
  ・安眠:5-6節
  ・救いは主にある:7-8節

●主への信頼:4篇
  ・苦しみの中で与えてくださるもの:1-2節
  ・特別に扱われる:3-5節
  ・心に喜びをくださる:6-8節

●主に身を避ける者:5篇
  ・聞いてください:1-3節
  ・豊かな恵みによって:4-7節
  ・待ち伏せている者:8-10節
  ・愛で囲まれる:11-12節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【1篇】幸いな人

・幸いな人:1-3節
詩篇1篇はこれから続く150篇全体の宣言です。ここでの幸いとは、「これ以上無いほどの至上の喜び」と言う意味です。では、どのような人が幸いな人なのでしょうか。
悪者のはかりごとにに「歩まず」、罪人の道に「立たず」、あざける者の「座に着かなかった」人です。
この動詞がだんだんとステップアップしています。最初は歩んでいた者が立ち止まり、やがて座っています。私たちが自分のたましいに対して無関心であれば、このような状態になってしまいます。このようでない人が幸いだと言っています。
その様な人は、これらの代わりに何をするかが続けて書かれています。それは「主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」とあります。まるで牛が4回も草を反芻(はんすう)して、やがて緑の草が白いミルクとなるように、みことばを何度も反芻することを意味します。
初代教会の人々は、今のように一人一冊聖書を持っていませんでした。ですから、朝に会堂に集い、祭司が読み上げる聖書を耳を澄まして聞きました。そして、聞いたみことばを忘れないように何度も何度も思い返し、口ずさみながら日々の仕事をしたそうです。それが口ずさむというものです。それが幸いな人の生き方です。この口が不平不満や陰口、噂話ではなく、いつも主のみことばで一派になっている人が幸いな人です。
そのような人の報いが3節に書かれています。これを朗読して、私たちもこの祝福にあずかりましょう。

・悪者:4-6節
ここからは逆に悪者について書かれています。悪者は何に例えられているでしょうか。それは吹き飛ばすもみがらです。もみがらとは何でしょうか。麦や稲の殻がついた状態のものです。それらは収穫され、一所に集められます。外からではわかりませんが、箕(み)を使って麦を空中に放り上げると、もみがらは飛ばされてしまいます。
外から見たらわからない麦ともみがらですが、その違いは何でしょうか。実があるかないかです。イエス様は律法学者、パリサイ人をこの悪者としています。なぜでしょうか。彼らが人々から立派に見られることに力を入れ、神様からの戒めの本質をないがしろにしていたからです。つまり、実の無い歩みです。
私たちは植物から学ぶことができます。環境が整えば自然に成長して、やがて花を咲かせ実を実らせます。私たちのキリスト者としての歩みも同じです。私たちに御霊の実が実らされていないのであれば、もう一度自分の信仰のあり方を祈り求める必要があります。
みことばを毎日口ずさみ、幸いな人とされていきましょう。

【2篇】主に身を避ける人

・主に逆らう:1-3節
この第二篇はメシヤの詩篇と言われるものの一つです。イエス様の事を預言している詩篇です。
この箇所を見ると、今の時代にも共通することが書かれています。古くからこの世は主と主に油注がれた者とに逆らいます。
イエス様も預言者が迫害されることを語られます。使徒の働き以降ではキリスト者が迫害されています。また、イスラエルの民も苦難の歴史を歩んでいます。

・主の怒り:4-6節
一つ前のヨブ記でも読みました。ベヘモスといわれる河馬、海の巨獣のレビヤタンを制御することは人にはできません。同じようにこの世のどのようなものを持ってしても、主には勝つことは絶対にできません。
主はその事をご存じなので、天の御座からその事を見て笑い、あざけられます。私たちも周りの状況に左右されそうになることがあるかもしれませんが、イエス様は今でも天の御座から私たちを見守っていてくださり、助けてくださいます。
そして主と主に油注がれたものに逆らう者に対して燃える怒りを持って答えられます。これを見て恐れない者はいません。
また、主はシオンに「わたしの王を立てる」と言われています。冷静に考えるとおかしな表現です。主が王の王のはずです。わたしの王とは誰でしょうか。それこそイエス様です。
神であられるお方が人の体を持ってこの地上に来てくださり、十字架の死と葬りと復活を通して私たちのたましいを購い、王の王となってくださいました。このお方は確かに聖なる山、シオンに来てくださったのです。

・わたしの子:7-9節
主は定めを語られます。ここの主語はどうなっているでしょうか。「わたし」となっています。これは新改訳聖書においては、神様がご自分の事を表現されるときに「わたし」と書きます。神様以外の預言者などが自分の事を言うときには「私」と書かれています。
それでは改めてこの箇所を見てみましょう。「わたしは主の定めについて語ろう」と書かれています。主ご自身が主の定めについて語ります。これをどう理解すれば良いのでしょうか。ここも答えはイエス様です。御子であられるお方がこの事を語られています。
そしてこの有名なことばが出てきます。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」これは新約聖書でイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に、天の父が天から語ってくださったことばです。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17b)
確かに天の父はイエス様にすべての権威を与えられ、地の隅々まで治める権威を与えられました。そして鉄の杖で悪者を打ち砕くように粉々にしてくださいます。

・御子に口づけせよ:10-12節
このお方がすべての主権者です。イエス様が主の主です。だから詩篇の著者は語ります。「それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。」と。
主はむやみに王たちを砕きたいわけではありません。主を知り、主に立ち返って欲しいという願いがあります。ですから、砕かれないようにこの事を呼びかけています。
どのような権力者であっても自分の限界を認め、主に仕え、主を恐れ、御子に口づけするなら主の滅びはその人に及びません。
御子に口づけするとは何でしょうか。みことばを口に置くことです。神はことば、ことばは神です。みことばを私たちが口ずさむなら、それは御子に口づけすることになります。みことばを朗読しましょう。口ずさみましょう。イエス様が私の主ですと告白しましょう。

・幸いなこと:13節
これがこの詩篇の結びです。1篇では幸いな人は主のおしえを昼も夜も口ずさむ人でした。2篇の幸いな人は主に身を避ける人です。つまり、主への絶対的な信頼です。
その人を信頼するには、その人のことをよく知らなければ信頼できません。おなじように、主に信頼するなら主のことをもっと深く知る必要があります。どのようにして主を知ることができるのでしょうか。みことばと祈りです。これを毎日続けていきましょう。それがこの地上で最も幸せな人の生き方です。

【3篇】敵の中での信仰

・私の敵:1-2節
この詩篇はダビデがアブシャロムから逃げているときの詩篇です。王として君臨したダビデが、わが子から追われるという苦しみの中で主に叫んだ祈りです。
覚えているでしょうか。アブシャロムはヘブロンで王と宣言しました。ダビデは主の住まわれるエルサレムを戦いの場にしたくなかったので自ら逃れます。その時のダビデの心が書かれています。
今まで王としての働きから一転し、多くの人がアブシャロムに流れました。一部の人はダビデに付いてきましたが、ほとんどは敵になってしまいました。
ここでダビデの素晴らしいことは、これらのことを心に秘めなかったことです。ヨブは主が語られたとき、手を口に当てて心を開きませんでした。一方、ダビデは自分の正直な心の状態を主に申し上げています。私たちもこれをしましょう。人に相談する前に、「イエス様、あのね」と自分の気持ちを声に出して主に告白してみましょう。主はその祈りを聞いてくださり、受け入れてくださいます。

・答えてくださる主:3-4節
現状は目の前は敵だらけです。この箇所にダビデの強さの秘訣があります。それが「しかし」です。確かに現状は敵に囲まれていますが、ダビデは信仰の目を持ってみています。ダビデが霊の目で見ていたことは、敵がダビデの周りを囲むのではなく、主ご自身が盾となって囲ってくださっている光景を見ています。ダビデのうなだれた頭を高く上げてくださっています。
4節にはダビデは声に出して主に呼ばわっています。私たちもこれを実践しましょう。黙って心の中で主を会話をするのも素晴らしいことですが、できるなら声に出して、目の前に主がおられる事を信じて声に出して告白してみましょう。
また、ダビデのように信仰の宣言を口に出して宣言してみましょう。私もそれまで悶々していたとき、主の霊に押し出されるように信仰の宣言をした途端に、一気に信仰が湧き上がって来たことが何度もあります。主は信仰の宣言に応えてくださるお方です。

・安眠:5-6節
ダビデはこのような敵に囲まれた中で眠っています。普通であれば恐怖で眠れないでしょう。どうしてその様なことができたのでしょうか。ダビデが全信頼を主に置いていたからです。ダビデは主を恐れていました。だから、人は恐れませんでした。
ところで、現代に多く見られる問題に不眠症と言うことがあります。多くの場合は心にある心配が原因であると聞いたことがあります。心配は主に信頼し切れていないひとつの目安です。主に全信頼を置くのであれば、ダビデのようにどのような状況でも安眠できると信じます。とにかく、寝ることを意識して一日を過ごしてみましょう。眠りは私たちが思っている以上に大切です。なかなか眠れないときはひたすら寝床で主の事を思い巡らしてみましょう。主は心に平安を与え、安眠を与えてくださり、気持ちよい目覚めを与えてくださると信じます。

・救いは主にある:7-8節
ダビデは主に願います。「立ち上がってください」と。救いを他の者ではなく主に求めています。
私たちは時として、自分の手で敵に復讐をしたいと考えるかもしれませんが、それは主がなさることです。自分で考えた復讐より、主の御手が動く方がよっぽど強力です。主にさばきをお任せする事が大切です。
そしてダビデは宣言します。「救いは主にあります」本当にその通りです。他の何も私たちを救うことはできません。ただ主お一人が私たちを救うことがおできになります。
この救いの喜び、救いの確信を持って、私たちは人々の祝福を祈ることができます。

【4篇】主への信頼

・苦しみの中で与えてくださるもの:1-2節
続けてダビデの詩篇です。ダビデはいつも主を呼んでいました。すると主は応えてくださいます。これが救いです。助けを求めても何も答えがなければ、それは救いではありません。主は私たちに応えてくださるお方であることを感謝します。
主はダビデが苦しむときにゆとりを与えてくださいました。主に関することを見るとき、私たちの肉の目は矛盾に見えることがありますが、主はこのみことば通りのことを私たちにしてくださるお方です。
何かの痛みがあるときに、痛み止めの薬を飲むと痛みが和らぐように、いや、それ以上に主は苦しみのときに私たちにもゆとりを与えてくださいます。そして正しい判断ができるようにしてくださいます。

・特別に扱われる:3-5節
ダビデは「知れ」と言っています。民に向かって言っているのかも知れませんが、私はこれはダビデが自分自身に言っているのではないかと思います。何を知れと言っているのでしょうか。「主はご自分の民を特別に扱われる」ということです。私たちは主に召された者です。特別に扱われる者です。ですから、私たちが主に呼ぶときに主は応えてくださいます。
だからこそ、4-5節の事が言えるのではないかと思います。
私たちが罪を犯してしまうのは、主の愛がわからなくなったときです。言い換えるなら、悪魔にだまされたときです。主がどれ程私たちの事を特別に扱われているかという恵みから目を背けさせられたとき、私たちは罪を犯してしまいます。
そうならないためにも、定期的に床で自分の心に語り、静まることが大切です。そして義のいけにえを主にささげ、このお方に拠り頼みましょう。

・御顔の光:6-8節
世の人々は「何か良いことはないか」と幸せを探し求めます。自分探しの旅をしたりします。しかし、そこには何もありません。私たちにとって何が良いのでしょうか。ダビデはそれが主の御顔の光だと言っています。
このお方の御顔を慕い求めるなら、私たちの心は満たされます。なぜなら、主はすべてのものをお持ちだからです。このお方の御顔を慕い求めるとき、私たちの心は満たされます。この世の何ももたらすことのできない満たしを受けることができます。
そして安らかに眠りにつくことができます。主だけが私たちを満たしてくださる唯一のお方です。

【5篇】主に身を避ける者

・聞いてください:1-3節
続いてもダビデの賛歌です。ダビデは正直な心を主に向かって告白します。最初は言っています。次にうめき、最後には叫んでいます。これが祈りだとダビデは言っています。
祈りはきれいなことばを並び立てることだけが祈りではありません。時にはことばにもならないうめきを持って、「主よー!」としか叫ぶことのできないような祈りもあります。主は直ぐな心を愛されます。
ダビデはいつ祈っていたのでしょうか。朝明けに祈っています。王は日中は様々な人と関わらなければならなかったので忙しいです。朝早く起きるなら、誰にも邪魔されず、主との親密な時間を過ごすことができます。
ぜひ、朝早く起きて主と交わる時間を持っていきましょう。それが主のための備えであり、見張りです。

・豊かな恵みによって:4-7節
ここでは神様が嫌われることが書かれています。神様は悪を喜びません。不法を行う者を憎まれます。偽りを言う者を滅ぼされます。血を流す者、欺く者を忌み嫌われます。
ダビデは自分の敵に対してこの事を言っていたのかも知れませんが、同時に主の前での自分の姿を見ていたのかも知れません。
ダビデはどうしたでしょうか。まず主の恵みに拠り頼みました。そして主の家、つまり主の臨在の中に行きます。この時、まだ神殿は建築されていませんでしたが、ダビデの幕屋がありました。そして主に向かってひれ伏します。主に対して完全な降伏をします。
これがダビデの強さの秘訣でした。完全に自分の自我に死に、主に拠り頼むことです。その時に欠かせないのがひれ伏す礼拝です。

・待ち伏せている者:8-10節
ダビデは再び自分の心を主に正直に告白します。先ほどは恵みに拠り頼みました。今回は主の義によって導かれることを願っています。
この後に書かれていることは口のことば、舌についてが書かれています。覚えているでしょうか。ヨブは自分の義をなかなか捨てることができませんでした。自分の義がある者通しが争います。
ダビデは自分の義ではなく、神の義に導かれることを願っています。イエス様も言われました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33a)

・愛で囲まれる:11-12節
ダビデは何と戦っていたでしょうか。高ぶり、口のことばです。そして、朝早くから、うめき叫ぶダビデの祈りは主に届きます。
主に身を避ける者は喜びます。その喜びはとこしえの喜びです。
私たちが自己防衛する以上に、主が私たちを守ってくださいます。そして、御名を愛する者が主を誇るとあります。これこそが賛美です。賛美は単なる音楽ではありません。賛美の本質は主を誇ることです。「私の主はこんなに素晴らしいお方なんだ!」と声高らかに宣言することが賛美です。
主はそのような者を祝福し、大盾で囲むように私たちを愛で囲ってくださいます。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. 毎日多くの恵みと分かち合いを感謝します。

    日が経っていくのは本当に早いですね。

    >ヨブは自分の義をなかなか捨てることができませんでした。自分の義がある者通しが争います。
    ダビデは自分の義ではなく、神の義に導かれることを願っています。イエス様も言われました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33a)

    アーメン

    「神の国と神の義を第一に」とは、神様との交わりを一番に、礼拝や通読を大切にしようという意味もあるのですが、

    自分が正しいと思う考えよりも、神様の正しさを、そして、神様の義が表われている十字架により頼み、そこを心の土台に置くことも神の国と神の義を第一にすることなのですね。

    聖書って、理解しつくせないです。日々進化して深く語られます。

    心から同意するのですが、

    「自分の義ではなく神の義により頼む」実行するのが難しい学科です。

    私の場合、どの学科も中途半端で、私の中の古い人の魂の都市がなかなか崩れない、崩れたかと思っていたらまだ健在だったという者ですが、主の来られる日まで諦めずに主を信頼して、主と共に、とらえて得ようと前に進んで走り続けようと思います。

  2. 救いは主にあることを感謝します。ダビデのように正直に自分の心を告白できるように祈ります。

中林 千恵子 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です