聖書通読クラブ Day 157

聖書通読クラブ Day 157【ヨブ記 40章~42章】

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シャローム!

聖書の中の大きなテーマに赦しがあります。私たちはなかなか赦すことができません。けんかをするときには自分の正しさをお互いに主張し続けます。しかし、「私があなたを赦す」「いやいや、私があなたを赦すんだ」という争いを見たことがあるでしょうか。
赦す事はとても難しい事に思えます。これは一生かかって神様から教えていただくレッスンかもしれません。
しかし、今日のヨブ記の通読を通して、そのヒントが与えられるのではないでしょうか。
私たちは神様からの一方的な恵みによって罪赦された者です。それなのに、人が自分に行う小さな罪を赦すことができません。どうすれば赦すことができるのでしょうか。自分を赦し、人を赦すならどのような結果になるでしょうか。
今日もみことばから知恵そのものであられる聖霊様に教えていただきましょう。

今日の通読箇所:ヨブ記 40章~42章

■アウトライン

和解と回復

●主とヨブの会話:40章
  ・全能者との争い:1-2節
  ・つまらい者:3-5節
  ・主のさばきを無効にする:6-14節
  ・河馬:15-24節

●レビヤタン:41章
  ・レビヤタン:1-10節
  ・主のもの:11-12節
  ・レビヤタンの特徴:13-34節

●ヨブの回復:42章
  ・この目であなたを見た:1-6節
  ・もっと祝福された:7-17節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【40章】主とヨブの会話

・全能者との争い:1-2節
主は引き続きヨブに語られます。今までどれ程主が偉大なお方であるかを主ご自身が自然現象の中から語られました。このようなお方に対して私たちは何も言えません。まして、全能者であられる主と争うことなど決してできません。神を責めることはできません。
ところが私たちは神様に対して文句を言ったり、あるいは神様のせいにしたりしていないでしょうか。なぜ私たちがこのような事を行ってしまうかというと、神様の偉大さを知らないからです。自分の無力さを知らないからです。神が神であられること。人はちりに過ぎないこと。それでも神様はちりに過ぎない私を愛してくださること。つまり主の恵みと憐れみを本当に知るなら、私たちの口はいつも主への賛美で満ちあふれるでしょう。

・つまらい者:3-5節
ヨブは神様に答えます。私たちはこの箇所をさらっと読んでしまいますが、考えてみるとすごいことです。神であられる主とヨブは会話をしています。
いつ神様とヨブはこれほどの関係になったのでしょうか。もし、今までヨブが神様と無関係であるのだったら、このような会話は成立しません。このやりとりから神様とヨブとの親しさを見ることができないでしょうか。始めて話したような感じではなく、昔から知っているような会話をしています。
私たちも普段の歩みの中で、神様との親密な交わりが必要です。神の子から神の友とされ、王である祭司からキリストの花嫁へと成長していきます。その秘訣はコミュニケーションです。人との関係でもそうですが、徹底的にコミュニケーションを取ることでお互いを知ることができます。
夫婦では、ずっと一緒にいるので笑い方や考え方まで似てきます。それがふたつのものが一つとされると言うことです。神様と毎日沢山コミュニケーションを取りましょう。天国に行ってイエス様に「はじめまして」と言われないようにしましょう。
ヨブは神様の語りかけを聞いても死にませんでした。そして、その後、自分はつまらないものだと告白しています。
神様はヨブを責められましたが、ヨブの人格を責めてはおられません。間違いは間違いと指摘されますが、人格はどこまでも愛してくださっています。私たちにも主は同じ事をされます。主に赦されたからこそ、悔い改めに導かれます。主がまっすぐに語ってくださるこそ、心から正直に告白することができます。
ヨブは手を口に当てます。これは、もうこれ以上神様に口答えしないという行動です。私たちも悪いことばを出しそうになったら口に手を当ててみましょう。

・主のさばきを無効にする:6-14節
主は再びヨブに勇士のように腰に帯を締めよと言われています。覚悟して聞きなさいと言うことです。神様はここからヨブが神様を不義とする問題を語られます。今まで見てきたとおり、ヨブは自分を正しいと主張してきました。それなのになぜ苦しみに会わなければならないのかと主張し、それは神様のせいだと言いました。それに対して主が語られます。
この時、主は静寂の中で語られているのではなく、嵐の中から語られています。主は高ぶる者、悪者どもに怒りをぶつけて、それをなんとかしてみろと言われます。つまり、ヨブに対して主が言われた事は、主はすべてを治めておられ、無関心ではないということです。

・河馬:15-24節
ここで主は突然カバについて語れます。日本語ではカバと訳されていますが、言語ではベヘモスという生き物です。大きく力がある生き物でしたので、カバが一番近いのでカバと訳されたのでしょう。
しかし、みなさんご覧になったことあるかどうかわかりませんが、カバのしっぽはここに書かれているように杉の木のようではありません。カバのしっぽは短いのでこれと違います。
一説によるとこのベヘモスは恐竜ではないかという人もいます。ノアの箱船の建築の時にもこのベヘモスが手伝ったのではないかと言われています。主はこれを第一の獣と呼んでおられます。大きく力強く、制することが難しいからでしょう。
このような大きな生き物をヨブと並べて創造されました。その生き物は大きく獰猛なのに草を食べます。覚えているでしょうか。主は創造の御業のとき、動物を創造され、最後に人を創造されました。それは同じ日です。
この制御できないような大きな生き物は人の手には負えませんが、ベヘモスを創造された主はご自分の剣でこれに近づくとあります。つまり、主はこの生き物をも治めることがおできになると言うことです。

【41章】レビヤタン

・レビヤタン:1-10節
続いて主はレビヤタンについて語られます。今までヨブもレビヤタンについて語っていました。海にいる巨獣です。
前にもお伝えしましたがレビヤタンの別の意味は「ねじ曲げる者」です。その姿はまるで竜のようです。想像上の生き物ではなく実際に存在した生き物です。
ベヘモスと同様、レビヤタンも人は制御することができません。3節からを見ると、レビヤタンは自由奔放で、思い通りに行かないような生き物であることがわかります。
主はこの事を通して、人が悪に対して自分では完全に制することができないことをつたえようとされています。ただイエス様だけがこの悪に対して制御をされるお方です。

・主のもの:11-12節
私たちは主にささげ物をします。しかし、勘違いしていないでしょうか。すべてのものは元々主のものです。私たちが所有している者など一つも無いのです。
すべてのものを創造されたお方に、私たちはどれだけ献げることができるでしょうか。主が報いなければならないと感じられるほどに献げることができるでしょうか。決してできません。天の下にあるものはすべて主のものです。
続けて、主はレビヤタンの各部分について詳しく語られていきます。

・レビヤタンの特徴:13-34節
レビヤタンの皮膚はとても堅い鎧のようなものであることがわかります。
レビヤタンがくしゃみをすると、いなずまを放つとあります。また日が出るとあります。私たちが知っている想像上の竜のような姿があります。黙示録にも「大きな赤い竜」という表現があります。
首には力が宿るとあります。首を切られたら動物はいのちがなくなります。首の強さは生命力の強さです。外からの攻撃は全く刃が立たないほど鉄壁の守りがある様子がわかります。どのような武器も役に立たないほど強い生き物です。
このレビヤタンが海の中を動くと、海を香油をかき混ぜるなべのようになると書かれています。海をこれほど動かすことができる動物が他にいるでしょうか。
このレビヤタンの象徴的な名前が34節に書かれています。それは「すべて誇り高い獣の王」とあります。すなわち高ぶりの王です。
これが神様が最も嫌われるものであります。私たちの中に高ぶりはないでしょうか。みことばから点検しましょう。

【42章】ヨブの回復

・この目であなたを見た:1-6節
ヨブ記のハイライトとも言える箇所です。最初にヨブが試練に遭ったとき、ヨブの妻は「神をのろって死になさい」と言いました。その時にヨブが自分の罪に気づき、心から悔い改めていたら2章から一気にこの42章に到達できたでしょう。
しかし、私たちもヨブと同じです。この地上で人生を歩むのはこの災いが次から次に襲い、友人たちからも苦しめられ、いつ苦しみが終わるのか、いつ主が助けに来てくれるのかわからないような状態です。
「神と語り合いたい」と言ったヨブに主はぐうの音も出ない事柄をヨブに言われます。ヨブは黙ることしかできませんでした。
しかしここに来て、ヨブは口を開きます。しかも、それは以前とは違った様子です。
2節を見てみましょう。本当にこの通りです。自分の経験や知恵だけでは神様のご計画をすべて知ることができません。次のみことばを思い巡らして見ましょう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだーー主の御告げーー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)
自分の小さな知恵と経験で自分の人生を何とかしようとすることと、神様にお湯種する人生、どちらが良いでしょうか?
3節ではヨブはようやく自分の間違いに気がつき、それを告白しています。神様よりも自分の思いを優先させる結果、神様のご計画を見え無くさせてしまいました。
4節では、ヨブは心からへりくだっています。これ以上無いほどに砕かれている様子が見えます。私たちが神様をはっきりと見るときに、このような態度にされます。
それでは私たちはこの目で神様をはっきりと見ることができるのでしょうか。どのようにして神様を見ることができるのでしょうか。罪あるものが神様を見ると死んでしまいます。この問題にどのように対処すれば良いのでしょうか。
鍵はイエス様です。このお方が父と私たちの間にある罪の隔てをご自分のいのちと引き換えに砕いてくださいました。そして、ヨハネの福音書1章によると、神はことばであり、ことばは神であると書かれています。どういうことでしょうか。みことばが神です。私たちはこの目ではっきりと神様を見ることができます。それがみことばです。
ただ見るのではありません。熱心に見るのです。そのために、このみことばを解き明かしてくださる知恵と啓示の御霊を求めていきましょう。
神を見るとどのようになるでしょうか。6節にあるように、悔い改めに導かれます。ローマ2:4にはこのように書かれています。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
叱られて悔い改めに導かれるより、赦された事を知って導かれる悔い改めの方がもっと深い領域にまで導かれます。
ここに来てヨブは神の前に完全に敗北宣言をしました。人の目には惨めに見え、完全なる敗北のように思えるでしょう。しかし、霊的な領域ではこれが勝利です。なぜなら、自分に死ななければキリストととっもに復活できないからです。完全に自分に死ななければ、キリストに従うことができません。

・もっと祝福された:7-17節
主は続いて三人の友人にも声をかけられます。優しいお方です。年長者なので、三人を代表してエリファズに語りかけています。その内容はどのようなものでしょうか。
ヨブに対して真実を語らなかったと言うことです。しかし、ここでおかしいと思いませんか?ヨブも真実を語りませんでした。しかし、神様に認められました。一方、友人たちは主に愛される故にとがめられています。この違いは何でしょうか。
それは心の中の動機です。ヨブは自分の苦しみを隠すことなく告白しました。一方、友人たちはヨブを悪者と決めつけ、自分の知恵や経験を当てはめて語りました。ヨブの弁解にも耳を貸すことがなく、一方的に自分の主張を押し通しました。なにもわかっていないのに、自分が知者であるかのように語っていました。それはまるで身の入っていない穂のようです。みせかけの信仰です。律法学者、パリサイ人の霊性です。
神様はこの問題にどのように対処されるのでしょうか。8節からを見てみましょう。和解を求められます。主は平和の神です。ヨブだけでなく、友人たちも回復を願われています。
ヨブの所に行っていけにえをささげることを告げられていますが、これはヨブにいけにえを献げるのではありません。友人たちはヨブに対しても罪を犯しましたが、その前に主に対して罪を犯しました。ですからまず、主に対して罪のゆるしのいけにえを献げます。それをヨブの前で行うことに意味があります。
そして、この箇所で友人たちに対して、主はヨブをどのように読んでおられるかに気づくでしょうか?「わたしのしもべ」と呼んでおられます。私もこのように主から呼ばれたいです。
友人は神様からの提案にどのように反応したでしょうか。9節を見てみましょう。従順になって従っています。彼らは主に対していけにえを献げます。ということは、ヨブも彼らを赦さなければなりません。自分に対して激しいことばで責めた友人たちを赦すのは簡単ではないでしょう。しかし、彼らを赦すとき、ヨブに祝福が来ます。
ですから私たちは主の祈りの中でも祈るのです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と。
10節を見ると、そのような友人のためにヨブは祈ります。主による和解の成立です。するとどうなったでしょうか。主はヨブを元通りにされました。所有のすべてを二倍にされました。長子の祝福です。兄弟や知人をヨブのところに連れ戻されました。そしてヨブを慰めてくださいました。
ヨブが自分の義を捨てて悔い改め、友人たちを赦すなら、このようなことが起こります。これはヨブにだけ起こることではありません。私たちに実際に起こることです。回復は神との和解、そして人との和解、すべての被造物の和解からはじまります。
それだけではなく、ヨブはこの後長生きし、子どもたちをもうけました。そして、四代目まで見ることになります。神様からの祝福のあかしです。

さあ、これでヨブ記を読み終えることができました。長くつらいように見えるヨブ記も毎日朗読を続けることで終わりを迎えます。そして、振り返ってみると、あの苦悩の時期があったからこそ、この最後の42章が光り輝きます。同様に、私たちもこの地上で苦難が多いかもしれません。しかし、嘆きの日は終わりを告げます。義の太陽が昇ります。その事を信じ、今日もイエス様により頼んでいきましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. イェス様が私を赦して愛してくださったように、私も他の人を赦し愛することができるように祈ります。

  2. ヨブ記まで導いて下さった事、本当に感謝致します。
    苦難の時、何故このような事が起きるのですか?と問うていたのはまさに私です。
    心から悔い改めます。
    神様の偉大さをもっともっと悟る事が出来ますように。
    苦難の時には、いかに生きるべきかを祈り、神様の前にへりくだり、全ての主権者、創造主である父なる神様、最善を成して下さる神様を信頼していきます。

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