シャローム!
ダビデと息子のアブシャロムの確執は多くの人を巻き込んでしまい、多くの犠牲を出してしまいます。
私たちも誰かとの間に不和があるなら、自分では気づかないかもしれませんが同じように多くの人に影響を与えてしまいます。
悪魔の目的は人と人との関係を引き裂き、神から目を逸らそうとすることです。私たちはお互いを見るときに弱さを見てしまうかもしれません。ですからお互いが神様を見上げ、隣人の弱さを見てもそれを受け入れ、愛するという決断をしていく必要があります。
今日もみことばから教えていただきましょう。
今日の通読箇所:サムエル記 第二 16章~18章
■アウトライン
助言と助言のぶつかり合い
●王への反逆:16章
・ツィバの謁見:1-4節
・シムイの呪い:5-14節
・フシャイの賛辞:15-19節
・屋上での不品行:20-23節
●打ち壊された助言:17章
・アヒトフェルの助言:1-4節
・相反する預言:5-14節
・井戸に隠れる:15-20節
・川を渡るダビデ:21-22節
・アヒトフェルの自死:23節
・イスラエル軍とダビデ軍:24-26節
・持ち込まれる食料:27-29節
●アブシャロムの死:18章
・ダビデの采配:1-5節
・開戦:6-8節
・樫の木に引っかかるアブシャロム:9-15節
・アブシャロムの記念碑:16-18節
・走って行きなさい:19-23節
・吉報か否か:24-27節
・アヒアマツの報告:28-30節
・クシュ人の報告:31-33節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【16章】王への反逆
・ツィバの謁見:1-4節
昨日見たところで、ダビデの共、アヒトフェルがアブシャロムの側にくみしました。このまま行けばアブシャロム軍の圧勝です。
結局王であるダビデはエルサレムから逃げる形になりました。その時に一緒に付いてくる人、アブシャロムと留まる者に分かれました。このようなときに人の本当の心がわかります。ダビデ自身を愛していたのか、ダビデの持っているものを愛していたかです。
さて、ここで書かれていることを見てみましょう。少しわかりにくいですね。一言で言うなら、ツィバが主人であるメフェボシェテに対してさげすんでいると言うことです。
メフェボシェテの願いは王と一緒に行くことでした。しかし、足が不自由なのでそれができませんでした。そこで、仕える若いツィバは「自分は力もあるし、経済力もあるのに、どうしてこの足の不自由な者に仕えなければならないのか」と思っていました。
そこで、ダビデの好意を直接自分に向けようとしてこのような品々を持ってダビデの所に来ました。そして、主人メフェボシェテに関して嘘の報告をダビデにします。
自分の利益のためなら人のことなど考えもしない極めて自己中心なツィバの姿が見えます。
ダビデも少し冷静になればわかりそうなものの、ツィバの言うことを吟味もしないで鵜呑みにしました。
・シムイの呪い:5-14節
先ほど、ツィバはメフェボシェテをさげすみましたが、ここに出てくるシムイはダビデをひどい言葉で中傷します。
この6-8節のみことばをゆっくり読み返してみましょう。これは本当のことですか?
違いますね。ダビデは何度も訪れたサウルを打つチャンスを主の故に忍耐し、見逃してきました。サウル家の者に良くしようと努力しました。シムイの言っていることは事実無根の正反対のことです。
側近はその言葉を聞いて黙っていることができませんでした。イエス様の弟子が「サマリヤの人たちに火を降らせましょうか」と言ったことを思い出します。
しかし、ダビデはそれを許しませんでした。ここでも裁きを主におゆだねします。
ダビデはこの一連の問題に対してどのような心構えだったのでしょうか。続く9節からそれを知ることができます。
ダビデはこれらを自分の出来事として受け止めていました。これがリーダーの姿です。
起こった問題を自分のせいではないと言い続けている者に成長はありません。自分が少しでも関わった事でうまくいかないことがあるなら、それは自分の問題として取り扱う必要があります。
そして、12節を見てください。これがダビデの信仰です。イエス様も十字架の苦しみの中で、その先にある栄光を見つめておられました。私たちもこれに倣う必要があります。
シムイのしていることを見てみてください。悪魔はこのように私たちに働きかけます。悪魔はしつこいのです。嘘を言って、石を投げてきたりちりをかけたりし続けます。はらってもやってくる小バエのようです。さすがのダビデたちも疲れたので一息つきました。
・フシャイの賛辞:15-19節
ダビデは以前アヒトフェルがアブシャロムの側につくとわかったとき、「彼の助言を愚かなものにしてください」と祈りました。その答えをここで見ることができます。
フシャイが来てダビデについていくと言いましたが、ダビデはフシャイをエルサレムに送り込みます。
フシャイはかしこく、アブシャロムの性格をよく知っています。ですから、ここで神がアブシャロムを選ばれた事、またアブシャロムがダビデの後継者であり、その地位と権利を持っていることを訴えます。
かつてイスラエルの民の心をわしづかみにしたアブシャロムでしたが、ここではフシャイによってアブシャロムの心がつかまれています。
・屋上での不品行:20-23節
上機嫌のアブシャロムはアヒトフェルに助言を求めます。21節からのアヒトフェルの助言を見て、みなさんはどう思いますか?常識で考えてもおかしな事ではないでしょうか。
しかし、舞い上がっている人、霊的に盲目になっている人は、このような事を平気で信じてしまうものです。
アブシャロムは白昼公然と人々の目の前で、屋上の天幕で王の妻やそばめに入ります。
これは王に対する反逆を意味します。ルベンはかつて父のそばめの所に入り、長子の権利が奪われてしまいました。
そして、かつてナタンが預言した事が成就します。2サムエル12:11-12を見返してみましょう。
この事を持って、ダビデのウリヤの罪の刈り取りは一段落します。
続いては、23節にあるように、アヒトフェルの助言に関してです。この地にイエス様以外完全な人はいません。この先、どうなっていくのでしょうか・。
【17章】打ち壊された助言
・アヒトフェルの助言:1-4節
アヒトフェルは更にアブシャロムに助言します。この助言は完璧に見えませんか?確かにダビデたちは疲れていました。しかし、完全な人はひとりもいません。この助言の中に落とし穴があります。どこかわかりますか?
答えは2節の最後、「私は王だけを打ち殺しましょう」という箇所です。何がおかしいかわかりますか?ここで話しているアブシャロムはヘブロンで王になっていました。それなのにダビデを「王」と言ってしまっています。人の言葉は心にあるものが出てきます。
・相反する預言:5-14節
みごとな話術です。結局、ダンからベエルシェバまで、つまりイスラエル全軍がアブシャロムを担ぎ上げて出兵します。アブシャロムは上機嫌になったでしょう。
フシャイには別の考えもありました。アブシャロムが全イスラエルを集めるまでには時間がかかります。この間にダビデをヨルダン川の向こうに動かそうと考えています。
14節では、アヒトフェルのはかりごとよりもフシャイのはかりごとの方が良いと言っています。結果的に、主はアブシャロムの愚かさを用いて、アヒトフェルの賢いはかりごとを打ち壊します。
・井戸に隠れる:15-20節
フシャイは急いで祭司ツァドクとエブヤタルに事の次第を伝え、ダビデに川を渡ることを伝えます。時間稼ぎしている間に行わなければなりません。一刻を争います。
17節のヨナタンとアヒアマツとは誰でしょうか。エブヤタルの息子がヨナタンで、ツァドクの息子がアヒアマツです。
彼らは人通りの多いエン・ロゲルでとどまっていました。女奴隷からメッセージを受け取り、それをダビデに伝えるためです。
この極秘作戦が人にばれないよう、このような伝言ゲームのような手法をとりました。
ところがそんなにうまく事は運びません。若者が彼らを見つけ、アブシャロムに告げます。ピンチです。一体どうするのでしょうか。
彼らはある人の家に行き、井戸に隠れます。まるでラハブがしたように彼らをかくまい、探しに来た人をまきます。
・川を渡るダビデ:21-22節
ヨナタンとアヒアマツは無事に逃げ切り、ダビデにメッセージを伝えます。ダビデはそれをすぐに実行します。
・アヒトフェルの自死:23節
アヒトフェルは自分のはかりごとが打ち砕かれた事で挫折しました。おそらく、エリートで今まで一度も大きな挫折を経験したことがなかったのかもしれません。恥と屈辱からでしょうか。自分の家に帰り、身辺整理をして首をくくって死んでしまいます。
この一度の失敗はアヒトフェルにとって死に至ることではなかったと思います。しかし、プライドがあり、自信があった彼はそれが根元からポッキリ折られたことに絶えることができなかったのです。
恥や失敗は本当の失敗ではありません。悔い改める機会です。自分が成長する機会です。ダビデのように間違いを認められる者は弱い者ではなく、主にあって強い者です。
・イスラエル軍とダビデ軍:24-26節
アブシャロム率いるイスラエル全軍とダビデ軍の対決です。アブシャロムの側のリーダーはアマサ、ダビデ側のリーダーはヨアブです。
・持ち込まれる食料:27-29節
数で見れば圧倒的にダビデが不利です。そこに助け手が来ます。それはなんと異邦人でした。アモン人ナハシュの子ショビ、アミエルの子マキル、そしてバルジライです。
同じナハシュの子ハヌンはダビデに歯向かいました。ところがショビはダビデを王として見ています。
彼らの差し入れはダビデにどれだけ力を与えたでしょうか。
【18章】アブシャロムの死
・ダビデの采配:1-5節
ダビデは目前に迫るアブシャロム率いる全イスラエル軍に備えます。
ダビデは自分の兵を三つの部隊に分けます。リーダーはヨアブ、アビシャイ、そしてイタイです。なんと、ペリシテのガテから来た男がリーダになっています。
戦いに慣れたダビデは自分も最前線に出たいと言いますが、説得されとどまります。良い助言です。
5節を見ると、ダビデの親心が見え隠れしています。相手は自分の息子です。謀反を起こし、死罪に当たることを行っていますが、子が死ぬことを願う親はいないでしょう。
・開戦:6-8節
戦いが始まってしまいます。親子の確執が多くの人の血を流させます。劣勢に見えるダビデ軍が優勢となり、全イスラエル軍は二万人の犠牲を出します。その多くがなんと密林で行き倒れになった者です。
雷も雹も黒雲も降りてきていませんが、主はこのような方法を用いて勝利を与えることがあります。
・樫の木に引っかかるアブシャロム:9-15節
なんと皮肉なことでしょうか。アブシャロムは騾馬に乗っています。アブシャロムに戦う気が無かったのでしょうか。戦いは馬に乗って行います。もしかしたら、パフォーマンスとして出陣していたのかもしれません。
そして、彼の自慢の髪の毛が木に引っかかってしまいます。そして騾馬はそのまま行ってしまい、アブシャロムは宙づりになってしまいます。それをひとりの男がヨアブに告げます。
ヨアブはとても忠実な人物です。とても真面目だったのではないかと思います。それは素晴らしいことですが、真面目すぎて自分のミッションを遂行するあまり、人のことは何も考えることができないような人だったのかもしれません。
ダビデはアブシャロムに対して「ゆるやかに扱ってくれ」と言っていましたが、ヨアブはそんなことも忘れてしまっていたのでしょう。とにかく、ダビデのためにアブシャロムを倒す、これしか見えていなかったのです。
結局、ヨアブと十人の道具持ちによってアブシャロムは殺されてしまいます。アブシャロムはエルサレムで父ダビデの妻やそばめ10人と白昼堂々と寝てしまいました。その刈り取りでしょう。
・アブシャロムの記念碑:16-18節
この箇所を見る度、涙が出ます。アブシャロムは本当は孤独でした。存命中に自分の名前をつけた柱を立てます。「自分の名前を覚えてくれる息子がいないから」と言っています。本当でしょうか?
彼には三人の息子がいました。しかし、息子ですら自分を覚えていないだろうと思ってしまっています。それは単なる思い込みです。
アブシャロムはなぜこのように派手に見える生き方をしていたのでしょうか。おそらく、自信の無さからそのような行動に出たのではないでしょうか。必要以上に自分を大きく見せ、実力以上の力があるように見せます。そのような生き方はつらいだけでしょう。
できないことを「できない」と言える生き方、素直に自分の弱さを認める生き方は、多くの助け手を引き寄せます。
自分のプライドを捨て、主に従う生き方を求めていきましょう。
・走って行きなさい:19-23節
アブシャロムの死はダビデ軍にとっては吉報です。しかし、ダビデにとっては悲報です。ですからアヒアマツはとても喜んでいますが、ヨアブはダビデの心を知っていたので、今日は知らせない方がいいと言いました。
かつでダビデはサウルを殺したと報告した者を「主に油注がれた者にてをかけるとは」と言って殺しました。その事がよぎったのでしょうか。ヨアブはクシュ人という異邦人を先に遣わし、その反応を見ようとします。
しかし、アヒアマツはどうしても行きたいと言い、走って行きます。
・吉報か否か:24-27節
ダビデは皆から「ここで待っていてください」と言われていました。今回ばかりは自分の軍の勝利よりも気になるのはアブシャロムの安否です。
先にダビデの所に到着したのはアヒアマツでした。
・アヒアマツの報告:28-30節
彼はダビデに何を報告しているでしょうか。ただダビデ軍の勝利だけを伝えています。
ダビデがアブシャロムの安否を聞くと「知らない」と言います。
残念ながらアヒアマツはダビデの聞きたいことを伝えていません。ずれています。何があったか知らないと言っています。
・クシュ人の報告:31-33節
後から来たクシュ人は正確にアブシャロムのことを伝えます。
それを聞いたダビデは何度もアブシャロムの名前を呼んで悲しみます。自分が息子に変わって死ねば良かったと言っています。もう少し早くその覚悟をして、息子と面と向かって腹を割って話し合えば、このような惨事にならなかったかもしれません。しかし、時すでに遅しです。イエス様の事を考えてみましょう。イエス様はすでに私たちの罪を背負ってくださいました。完全な愛です。人が友のためにいのちを捨てる。これほどの大きな愛はありません。イエス様は私たちをしもべとし、友と呼んでくださいます。天の父はイエス様のゆえに、私たちを神の子としてくださいます。
自分の中からアブシャロムの霊性を取りのけていただきましょう。そして、天の父の愛をいっぱいに受け取りましょう。私たちはそれの奴隷ではなく、神の子とされています。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
>それを聞いたダビデは何度もアブシャロムの名前を呼んで悲しみます。自分が息子に変わって死ねば良かったと言っています。もう少し早くその覚悟をして、息子と面と向かって腹を割って話し合えば、このような惨事にならなかったかもしれません。しかし、時すでに遅しです。
自分が代わりに死ねば良かったと思うほど、
死んでしまった人の為に救いを祈っても
これこそ時すでに遅しなのだから・・・
相手が納得するような証をする力が自分にないことは自覚していても
生きている間に、面と向かって腹を割って話し合いえたらいいなと思います。
お隣の老夫婦がとてもいい方たちで、深いお付き合いではないのですが、時々話をする機会がありました・・・が・・・
証まではできていませんでした。
ある日亡くなったことを知らされ、夫婦で辛い思いになり悔い改めました。
証をする前から、「私はいい、いらない。私は無宗教だから」とたいていは言われます。ここまではっきりは言われなくても、遠回しに断られます。
現に人々は簡単には受け入れません。
それでも死んだ後で悔いることがないほど、今生きている間に、その方の為にとりなしの祈りをすることはできると思います。
神様は、私たちの言動だけではなく、心の隅々まで見られる方ですから、私の願いが何なのかを分かってくださっていて、きっと応えてくださると信じます。
起床後から時間の経過とともに、だんだん夢の記憶が薄れていくのですが、今日見た夢がそのようなとりなしの祈りをしている夢だったような気がします。
何人かで、神様に向かって「私たちが取りなす人たちが救われますように、神の宝の民です。祝福された形に回復しますように。」と祈っていたような気がします。何か大切な事だったように思います。まだ記憶にうっすらの残っている今日、このみ言葉なので、
刻一刻と終わりに近づいている現実ですが、
主が「まだ祈る時間がある」と教えられているのだと受け取れました。
>イエス様の事を考えてみましょう。イエス様はすでに私たちの罪を背負ってくださいました。完全な愛です。人が友のためにいのちを捨てる。これほどの大きな愛はありません。イエス様は私たちをしもべとし、友と呼んでくださいます。天の父はイエス様のゆえに、私たちを神の子としてくださいます。
自分の中からアブシャロムの霊性を取りのけていただきましょう。そして、天の父の愛をいっぱいに受け取りましょう。私たちはそれの奴隷ではなく、神の子とされています。
アーメン、主イエスの完全な愛を感謝いたします。
まず自分の目の中の梁を抜き取っていただけますように。
アブシャロムの霊性を取り除けていただけますように。
忠誠心が自己義に覆われ、主君ダビデのもつ哀れみの心と一つにならないヨアブの霊性から解放されて、主イエスのみ旨と全く一つになり、主イエスの見るものと同じものを見ることができますように。
素直に自分の弱さを認めて、主に従えるように祈ります。