シャローム!
再びダビデはエルサレムに迎えられ、王宮に入ります。しかし、一方では南北のイスラエルの分断の足音も聞こえてきます。
比較的シンプルであったモーセ五書から、沢山の人物が絡み合う複雑な時代になっています。
ダビデはどのように晩年に向かって備えていくのでしょうか。次の世代に何を残そうとしてるのでしょうか。
今日もみことばに教えられていきましょう。
今日の通読箇所:サムエル記 第二 19章~21章
■アウトライン
ダビデの晩年に向けて
●王権復興:19章
・この日の勝利は嘆きの日:1-8節
・民の言い争い:9-10節
・人々の心をつかむダビデ:10-15節
・憐れみの心:16-23節
・メフィボシェテのいいわけ:24-30節
・バルジライへの祝福:31-40節
・激しいユダの人々のことば:41-43節
●新ダビデ王朝の確立へ:20章
・よこしまなシェバ:1-2節
・留守番していた十人のそばめ:3節
・ヨアブの一突き:4-10節
・野に移されるアマサ:11-13節
・アベル・ベテ・マアカの包囲:14-15節
・賢い女の行動:16-22節
・ダビデのとりまき:23-26節
●さらし者たちの骨:21章
・ききんの原因:1-6節
・苦渋の決断:7-9節
・神の心を動かす祈り:10-14節
・疲れるダビデ:15-17節
・続くペリシテとの戦い:18-22節
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(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【19章】王権復興
・この日の勝利は嘆きの日:1-8節
ダビデは自分の軍が勝利したにもかかわらず、アブシャロムの死を悲しんでいます。悲しみ過ぎてると言ってもいいかもしれません。
民も喜んでいいのか、悲しんだらいいのかよくわからなくなっています。
そこでヨアブが立ち上がります。彼はアブシャロムを殺した張本人ですが、彼の言っていることもよくわかります。子どもの死も悲しいですが、ダビデは一国の王ですので、民のことも気にかけなければなりません。
ヨアブはダビデに「そろそろ民に対しておことばをください」と願います。
ダビデは門の所に座ります。それは王の仕事をするということです。ダビデは本当は王の仕事をしたくなかったでしょう。しかし、重い腰を持ち上げて門に座りました。
私もかつて、大きな集会に出た後、霊的な混乱状態から何日も起き上がれなくなったときがありました。
その時にある方が「今すぐ出てこい!食事するぞ!」と言って半ば強引に私を引きずり出してくれました。それがきっかけで再び立ち上がることができました。
時には悲しみや苦しみから思い切って立ち上がることも大切です。
・民の言い争い:9-10節
民の間に混乱があります。真の王は誰なのかと。アブシャロムについていた者はダビデが敵と思っていましたが、よく考えてみると本当の敵はペリシテ人です。その事に気づき始めています。そして、なお混乱します。
・人々の心をつかむダビデ:10-15節
ダビデはユダ族の出です。今回の事件では、ユダはダビデ側ではなくアブシャロム側につきました。そして、ダビデはユダの側に受け入れて欲しいと願っています。先ほどまで敵であった者がした悪いことを忘れているように思えます。
続けてマアサに語ります。マアサはダビデにとって敵でした。その者に自分の将軍になることを願っています。ダビデは懐の広い器です。
この時のダビデの心の裏には、ヨアブを下ろして代わりにアマサを将軍にしたいと言う願いがありました。
ダビデは平和的に物事を解決するタイプですが、ヨアブはミッションのためには手段を選ばない愛国心を持っているタイプです。ダビデにとっては少しやりにくい将軍だったのでしょう。
ダビデはこのようにしてすべてのユダの人々を、あたかもひとりの人のように自分にたなびかせました。
そして、川を渡ろうとしますが、それを助けるためにユダの人々がやってきます。
・憐れみの心:16-23節
ところがその中にとんでもない人物も混じっていました。ダビデを罵ったサウル家のシムイです。そしてツィバもいます。ツィバはメフェボシェテの事をダビデに偽って報告したことを恐れていたのかもしれません。
シムイはダビデの所に来て、ひたすらに身を低くします。悔い改めているように見えます。この悔い改めは本当でしょうか。
シムイは本当に悔い改めたのなら、千人もの人を率いて来る必要がありません。また、「ヨセフのすべての家に先立って」と言って、イスラエルの民より自分を先にしています。
なにか慇懃無礼な、押しつけがまし悔い改めのように感じます。
それを見かねたアビシャイは「この人は王を罵ったのですよ」と言います。ところがダビデは恩赦の心を示し、シムイを殺さないと言います。器の大きな人物です。
・メフィボシェテのいいわけ:24-30節
三度、ここでメフィボシェテが登場します。彼はどのような姿で王を待っていたでしょうか。その姿は本人とわからないほど変わり果てていたのではないかと思います。
ダビデはメフィボシェテに「なぜ私と一緒に来なかったのか」と問います。するとツィバのしたことをダビデ王に告げます。
そして、自分は生きている価値のない者なので、王の好きなようにしてくださいと願います。そこに王は「言い訳するな。あなたとツィバは地所をわける者だ」と。つまり、王家の者だと言っています。
それを受けてメフィボシェテはツィバに全部を与えてもいいと言います。
一見、私たち日本人から見るとメフィボシェテは謙遜な器だなと思うかもしれませんが、これはへりくだりに見えた高ぶりです。
王が「こうだ」といていることに「そうではない」と言っているようなものです。
私たちも神様に同じような態度を取っていないでしょうか。神様が「恵みをあなたに雨のように注ぐ」と言われているのに「いやいや、私にはもったいないので少しでいいです」と言っていないでしょうか。神様がくださるものは気持ちよくすべて受け取りましょう。受け取ることも愛の表現です。
例えば誰かにお土産を持っていったとき、「ありがとうございます。では、一つだけもらってあとはいりません」と言われたら、複雑な気持ちにならないでしょうか。思い切って受け取る事も学びましょう。
・バルジライへの祝福:31-40節
バルジライはかつてダビデがアブシャロムから逃げて来たとき、食料を持ってきた者のひとりです。彼は裕福でした。しかし、富に仕えるような者ではありませんでした。むしろ、富を従えていました。
ユダヤの格言で「お金は最悪の主人になりえるし、最高の僕にもなりえる」と言う言葉があります。経済の知識を学び、それをしっかり管理して御国のために用いることは素晴らしいことです。バルジライはそのような器でした。神の国のために自分の富を使ったのです。
この箇所を見ればわかりますが、バルジライは自分が高められようとしてダビデを養っていたのではない事がわかります。彼の中の憐れみの心がそうさせました。
ダビデはバルジライに一緒に来て欲しいと願いますが、高齢のため行くことをためらいます。自分の代わりに息子のキムハムを遣わします。
・激しいユダの人々のことば:41-43節
人の心は変わりやすいものです。イエス様が十字架にかかる前、人々はイエス様を「ホサナ!」と言ってエルサレムにお迎えしました。ところがその直後、イエス様が捉えられたら今度は「十字架にかけろ!」と叫びます。
ここでもイスラエルの人々は今までダビデを敵としていたのに、どのようにしたらダビデに好かれるかを争っています。
私たちは誰かの特定の人につくのではありません。イエス・キリストにのみ仕える者です。
【20章】新ダビデ王朝の確立へ
・よこしまなシェバ:1-2節
民の間に混乱が生じる中で、よこしまな者、シェバが登場します。よこしまな子とは「悪魔の子」と言う意味です。
彼は角笛を吹き、注目を集め、「ダビデは自分の同朋にだけ有利に働いて、他の者には目求めない」という嘘を言って回り、イスラエルの不満を駆り立てました。来たイスラエルと南ユダの分裂の足音が聞こえます。
・留守番していた十人のそばめ:3節
ダビデはユダ部族に迎え入れられ、エルサレムの王宮に入ります。そこには留守番として残してきた10人の女性がいます。
しかし彼女たちはアブシャロムによって汚されました。彼女たちをどうしてあげることもできませんでした。結果、彼女たちは王宮にいながら、一生何もすることのできない状態で死ぬ日まで閉じ込められていました。
もし私たちがキリストの花嫁として召されているのなら、どんなことがあっても誘惑から逃げ、聖さを保つ必要があります。そうでなければ、このようなむなしい状態になってしまうかもしれません。
・ヨアブの一突き:4-10節
将軍となったアマサにダビデは命令を出します。三日間でユダの人人を集めるように言います。急いでいます。
しかし、アマサはそれができませんでした。ダビデはここでマアサの実力を計ったのかもしれません。そこでアビシャイに命じます。
シェバを野放しにしておくとこの後大変なことになってしまいます。とにかく急がなければなりません。
7節を見ると、ヨアブは降格させられています。アビシャイに従う者として書かれています。
そしてアマサが後からやってきてアビシャイたちに追いつきました。一緒に戦いたかったのでしょうか。
その時です。またヨアブがやらかします。ヨアブはアマサに友好のしるしの口づけをしようとして、隠し持っていたナイフでアマサを一突きすると、内臓が地面に流れ出ます。即死です。アブネルを殺したときに見せた無慈悲なヨアブの姿をここでも見ることができます。
・野に移されるアマサ:11-13節
無残な姿となったアマサは野に運ばれます。そして、ヨアブが再び部を超えたリーダーシップを発揮しています。
・アベル・ベテ・マアカの包囲:14-15節
ダビデの恐れていたことが起こりました。城壁のある町の中にシェバが逃げ込んでしまいました。
人々はアベル・ベテ・マアカに来て彼を包囲します。
・賢い女の行動:16-22節
このように町の中に入り込み、籠城されるとなすすべがありません。どこに突破口があるんでしょうか。
そこに助け手が登場します。ひとりの女性が町から叫びます。
ヨアブとの会話は、「この町を滅ぼさないでsください」というような内容です。そこでヨアブはこの町を破壊することが目的ではなく、シェバの首が欲しいだけだと答えます。
すると女は知恵を用いてシェバの首をはねさせ、それをヨアブの前に投げます。知恵があるだけではなく、勇敢な女性です。
結局、この知恵のある女性の判断と行動力でこの町は守られました。
聖書で女性は教会の象徴でもあります。知恵のあり、実行する教会でありたいですね。
・ダビデのとりまき:23-26節
ここでダビデの布陣が書かれています。ヨアブが再びイスラエルの全軍の長になっています。
【21章】さらし者たちの骨
・ききんの原因:1-6節
ダビデの人生の晩年期に入ります。ここでは飢饉がおきています。原因を主にうかがうとサウルの一族に血を流した罪があるとわかりました。主に聞くなら、主は答えてくださいます。私たちの中にある罪も神様に教えていただきましょう。
サウルの一族はギブオンの人たちを殺し、それが原因で飢饉が起きています。そこでダビデはギブオンの人に何をしたら償えるか聞いています。
自分ではなく、サウルの罪の刈り取りを自分が行っています。
ギブオンの人は金でもなく、人の恨みでもないと言います。ただ自分たちを滅ぼそうとした者の子ども7人を引き渡すことを要求し、ダビデはその要求を受け入れます。
・苦渋の決断:7-9節
ここでメフィボシェテが出てきます。7節のメフィボシェテと8節のメフィボシェテとは別人です。このメフィボシェテはサウルとアヤの娘リツパの間に生まれた子です。主はサウルの子ヨナタンの子のメフィボシェテを惜しみました。それでダビデとヨナタンの誓いのゆえに、代償として引き渡す候補から外されました。この時期は大麦の刈り入れの始まった頃とありますので、過ぎ越しの祭の頃、春先であったと考えられます。
彼ら7人は三年間続いた飢饉の原因がサウルの一族がギブオン人を殺したという神のことばによって、その代償とされました。
・神の心を動かす祈り:10-14節
アヤの娘リツパは、七人の死体を空の鳥、野の獣から守りました。猛禽に肉が食べられることは屈辱的なことです。それから守りました。
やがてリツパの事はダビデに知らされます。サウルの家系の者が正当に葬られていないことを知ります。心が痛みます。
そこで、彼らの骨を丁寧に葬ることをします。
その後、どうなったでしょうか。なんと、神の心を動かしたのです。このような事があり得るのでしょうか。神様は御心を変えられないお方です。
しかし、ダビデ、サウルの子孫の死、そしてリツパの行動などを通して、彼らの「飢饉を終わらせて欲しい」という切なる祈りを聞き、飢饉を終わらせる事を決断されたのです。
私たちのいのちをかけた祈りは神様の心を動かすことがあります。祈りましょう。
・疲れるダビデ:15-17節
ダビデは年を取っていました。もう戦いに出て行くだけの力がありませんでした。しかし、ここで巨人との戦いをしなければなりませんでした。
・続くペリシテとの戦い:18-22節
19節ではあのゴリヤテの兄弟が出てきます。あれほど恐れていたゴリヤテの兄弟をあっさりと打ち倒しています。
ガテでの手足の指が六本ある闘士が出てきますが、ダビデの部下はそれれをも打ち倒します。
ダビデがゴリヤテを倒した信仰は部下にまでも伝わっています。
ダビデは一代でこれほど強力な部下を育て、教育していきました。私たちもダビデから学びましょう。主がダビデに良くしてくださったことを私たちの人生にもいかしていきたいものです。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
イェス様にだけ仕える者になりたいと思いました。
すみません、私は単刀直入な性格なので、
そして先生を信頼して腹を割って発言させていただきます。
疑問に感じて何度も読みました。
アウトラインを取っていただいているからこそ、その先に進むことができて、
さらに疑問も持つことができいるのだと感謝します。
疑問 第一
19:24 サウルの孫メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、ひげも剃らず、衣服も洗っていなかった。
19:25 彼が王を迎えにエルサレムから来たとき、王は彼に言った。「メフィボシェテよ、あなたはなぜ、私とともに来なかったのか。」
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>・メフィボシェテのいいわけ:24-30節
ここでメフィボシェテが出てきます。彼は足が不自由だったメフィボシェテとは別人です。サウルとアヤの娘リツパの間に生まれた子です。彼はどのような姿で王を待っていたでしょうか。その姿は本人とわからないほど変わり果てていたのではないかと思います。
ダビデはメフィボシェテに「なぜ私と一緒に来なかったのか」と問います。するとツィバのしたことをダビデ王に告げます。
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私には、このメフィボシェテはサウルの孫と書いてあるので、ヨナタンの子だと読み取れます。
ダビデ王ともあろう方が、祈りを忘れていたので、判断を間違えたと思います。
誤解しっぱなしで、その時はメフィボシェテはかわいそうだけれども、聖書は聖霊様が書いた書物であるから、たとえその時、ダビデ王が誤解しっぱなしでも、聖書は真実を記し、後の時代に生きる私たちが読むときには神は明らかにされているのだと思います。
疑問 第二
21:7 王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンの間で【主】に誓った誓いのためであった。
21:8 王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだ二人の息子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの息子アデリエルに産んだ五人の息子を取って、
21:9 彼らをギブオン人の手に渡した。彼らは、この者たちを山の上で【主】の前に、さらし者にした。これら七人は一緒に倒れた。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ殺された。
☟
>その中にヨナタンの子、メフェボシェテが含まれていました。ヨナタンとのあの約束があります。しかし、苦渋の決断を迫られ、メフェボシェテは他のサウルの子孫と一緒に殺されてしまいます。
☟
アヤの娘リツパの息子二人の中に足の悪いメフィボシェテでない方のメフィボシェテがいます
プラス、アデリエルに生んだ息子5人で7人になります
私には、何度読んでもここはヨナタンの子のメフィボシェテは殺されていないと読み取れます。
多くの問題からくる多忙と、王の称号を得た故に慢心があってか、
ダビデ王は祈りが続かず、サウルの子たちを死に渡したのだと思います。
石を投げて巨人を負かしたただの一人の若者を、
覆っていた神の力は王ダビデになった時には失せていたと思います。
この時も判断を間違っていたと思います。ちゃんと神に祈ればもっと違う解決を与えられたと信じます。
私がダビデ王についてこんな偉そうなことを言えるような分際ではないとは百も承知で、問題の時、多忙な時、祈りの答えが遅れている時、
神に信頼して、祈り切ることができるだろうか?と思います。
私こそ、主との初めの愛に帰りたいと思います。
まず主の前に出て、祈り切ることができますように。
千恵子さん、いつもありがとうございます。分かち合いの一つひとつに日々励まされています。
ご指摘の通りでした。私が間違っていました。
この記事を書いた後、みことばを読み返していてメフィボシェテが二人いたことを思い出し、送る直前にあわてて文章を書き直したら、眠さのあまり違うところを書いていました。
お詫びして訂正します。
こちらのアーカイブの文章は正しい文章に書き換えました。
いつも細かい部分まで見てくださり、心から感謝します。
ありがとうございました。
こちらこそ、感謝いたします。
お忙しい中、毎日こんな大変な労を取ってくださっていることを思うと、
分かち合いまでできない日でも、聖書を朗読してから、先生のコメントすべて、大切に拝読しています。
アウトラインや説明があるおかげで、感謝なことに今日まで守られています。
名前や地名、時系列がごちゃごちゃだったところが、つながって、今まで以上に聖書に親しみを持っています。
また主に目を向けることができています。ありがとうございます。
そして現在の聖書が作られるまでにも、たくさんの犠牲がささげられていること忘れず、これからも大切に朗読していきたい思います。