シャローム!
神様から十の災いとしるしを目の当たりにしたイスラエルの民はどのような気持ちだったのでしょうか?彼らの住む場所だけは災いから守られました。自分のいのちが助かることだけを考えていたのでしょうか。それとも、救われた事に感謝をしていたのでしょうか。
私たち、イエス・キリストを信じる者は、救われた事だけに注目してはいけません。もちろん救いは天での大歓声がおきるほど素晴らしい事ですが、もっと大切なのはその後の歩みです。
結婚式とその後の夫婦の歩みに似ているかもしれません。
偉大なる救いを今日見ることができます。その後のイスラエルと神様との歩みはどうなっていくのでしょうか。
今日もみことばから教えられていきましょう。
今日の通読箇所:出エジプト記13章~15章
■アウトライン
水を通って救われる
●荒野へ:13章
・初子の聖別:1-16節
・葦の海への道:17-22節
●救いの奇跡:14章
・追いかけてくるパロ:1-20節
・割れる海:21-31節
●勝利の歌:15章
・モーセの賛歌:1-13節
・ミリアムと苦い水:14-27節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【13章】荒野へ
少し前に初子の死がありました。ここでは、初子を聖別することが書かれています。イスラエルの人々は門柱とかもいにヒソプで血を塗らなかった家庭の初子が死んでしまったことを目の当たりにしました。
本来なら、自分の子どももそうなっていたかもしれませんが、主の一方的な恵みによって子どもは助かりました。
ですから、自分の子どもの初子は自分のものではなく、主のものであるという意味で聖別が行われたのでしょう。
続いてはパン種を入れないパンの祭りの規定が出てきます。
パン種は罪を象徴することがあります。イエス様もパン種はパリサイ人の偽善だと言われています。(ルカ12:1)
このパン種を取り除いたパンは、偽りなくこの地を歩まれたイエス様の地上での生涯を啓示しています。
イエス様ご自身、お生まれになったのはベツレヘムです。それはベイト(家)+レッヘム(家)=ベツレヘム(パンの家)という意味があります。
また、マタイ4:4では、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とあります。
つまり、みことばが私たちのたましいを生かすいのちのパンです。(ヨハネ6:48)
この後、この出来事を忘れないようにと繰り返されています。一年の中で一週間だけ、いつもと違う食生活を行うことは違和感があります。子どもはそれを疑問に思うはずです。その時、救いを子どもに教えます。本当の意味での「食育」ですね。
17節からは話題が変わります。主がイスラエルをどう導かれるかです。まず、最初の導きはどのようなものでしたか?その理由は何ですか?
神様は私たちの人生でもこのような事をされます。わざと遠回りをさせます。その時、私たちは不満を感じることがあるでしょうが、それが忍耐を持って信仰を働かせるときです。「神様のされることはいつも間違いがない」と主に信頼しきる歩みは素晴らしいものです。
19節でヨセフの忠実さを見ることができますね。
21節、22節は主の愛を感じることができます。主はどこにおられると書かれていますか?その目的は何ですか?22節では、これらは民に対してどのようであったと書かれていますか?これは私たちにあてはめたらどうのようになりますか?
【14章】救いの奇跡
2節、主は突然引き返すように仰せられます。人は前に進むことは得意です。しかし、後退したり、引き返したりすることに抵抗を覚えることがあります。主が言われたのであれば、それに従う事が大切です。
この様子を見て、パロはどう思と神様は言われていますか?3節を見てみましょう。これも神様の緻密な作戦です。
4節には「イスラエル人はその通りにした」とあります。従順な姿勢を見ることができます。しかし、冷静に考えてみると、前は海、後ろはエジプトの軍勢になることは容易に想像できたでしょう。
どうしてイスラエルの人々は従うことができたのでしょうか?自分がこの場所にいたなら、自分の理解を超えた神様の御声に従うことができますか?
私が思うに、十の災いを見ていたイスラエルの人々は、どんなピンチでも私たちを特別に扱い、救ってくださるという確信があったのではないかと思います。
その証拠に、4節に「エジプトはわたしが主であることを知るようになる」と書かれています。
この後、パロたちは初子の死のショックから少しずつ立ち直り、ふと我に返ります。気がつくと奴隷としての労働力を失ったことに気づかされます。エジプトにとって大損害です。そして、パロは戦車を出し、海のほとりに宿営しているイスラエルの民に追いつきます。
みなさんも想像してみてください。自分と家族が逃げている時、目の前は海の断崖絶壁、後ろは最新鋭の戦車。みなさんならこの状況でどうしますか?
10節、彼らは神様の約束を聞いて信じていましたが、その光景を実際に目で見たとき恐れました。ペテロが水の上を歩く奇跡に似ています。しかし、彼らの反応がいいですね。主に向かって叫んだと書かれています。これが大切です。困ったことがあったら、まず、主に向かって叫びましょう。主は必ず助けてくださるお方です。
ところが次が良くないですね。11、12節では民は誰に何を言っていますか?また、その内容は本当ですか?
13-14節はリーダーの姿を見ることができます。民が(部下、家族、子どもなど)が失望落胆し、不平不満を言っているとき、リーダーはどのようにすべきかここから学ぶことはできますか?
15節、主は無茶なことを言われているように見えます。前は海なのに前進しろと言われています。しかしその直後、具体的な方法が書かれています。それはどういうものですか?
19節からは不思議なことが起こります。イスラエルの民を導いていた雲の柱、火の柱は今度は民の後ろに回り込みます。主は私たちの四方を取り巻いてくださる火の城壁であることを感謝します。
そして、エジプトの陣営に暗闇を送ります。主は光を創造されたお方であり、闇をもご支配してくださっているお方です。
「夜を迷い込ました」と言うところの原文は「夜を照らした」という表現になっていました。暗闇に属する者には暗闇が訪れます。
21節、ついに出エジプト記で最も印象的な出来事が起こります。海が分かれました。
私はイエス様を信じた当初、このことを信じることができませんでした。なぜなら、「東風が吹いてきて水が分かれた」と書いているからです。地学が好きな私は、その当時、これは偶然起こった出来事だと思っていました。
しかし、その風を送られるのも主であり、自然の力だけでこの絶妙なタイミングで一定期間だけ海を分け、その後海を閉じると言うことは、どんなに天文学を知っていたとしても、気象に詳しい者でも不可能です。これは100%主の御業です。
このような偉大な奇跡を行うために、モーセがしたことはどんなことでしたか?アニメのように、「ウォーーー!」と言って気合いを入れたりしていましたか?
とてもシンプルなことです。主の声を聞いて、それに従っただけです。モーセがしたことと言えば、手をあげただけです。
主の御声に従うとはこういうことです。主は難しいことを私たちに要求されません。簡単なことですが、それがあまりにも簡単な故、また、時にはそれが突拍子もない故に、私たちの知性が働き過ぎて主の御声に聞き従えないことがあります。
主の御声への従順が偉大な奇跡につながります。
その後、海を渡り終えたモーセは手を再び海の上に差し伸ばすと、海が元の状態に戻り、エジプトの軍勢は全員海に飲み込まれてしまいました。
夜が明けて、波打ち際に打ち寄せるエジプト軍の身につけていたものを見ながら、イスラエルの民は何を考えていたのでしょうか?
こうして、水を通してイスラエルは救われました。
【15章】勝利の歌
今までもいくつか神に対する賛美が出てきたと思いますが、ここでは明確な主への賛美が書かれています。
1節で、イスラエルの人々は誰に向かってこの歌を歌ったと書かれていますか?これは非常に重要です。特に賛美の奉仕に携わっている人は気をつけましょう。
「主に賛美を」と言いながら、自分をよく見せたいと言うことに気を配っていませんか?もちろん、それも大切なことですが、人の注目を集め遺体という思いがあるなら危険です。
自分の美しさに酔いしれ、自分が神に成り代わろうとしたかつての賛美の大天使、ルシファーはその高ぶりの故に神に罰せられ、地に落とされました。
賛美を受けるにふさわしいお方は主意外あり得ません。
この賛美は12節までと13節からで分けられます。前半はヤハウェなる主の勝利を、後半は贖われた民が神の住まいに導かれる事を歌っています。この後半部分はまさにこれから出てくることになります。
8節の「あなたの鼻の息」とは東風のことです。
13節からは贖いが書かれています。贖いとは代価を支払って所有権が移された事です。どこからどこに所有権が移されたのでしょうか。また、その代価は何でしょうか?
また、13節の後半はまるで詩編23篇を読んでいるかのようです。
20節からはモーセとアロンの姉、ミリヤムがタンバリンを持って踊りながら賛美します。ダンスを主に捧げるなら、素晴らしい賛美となります。
22節からはガラッと話題が変わったように見えます。突然、苦い水の話題が出てきます。しかし、これをヘブライ語で見るなら、言葉遊びのように見えてきます。
なぜなら、ミリヤムとは「マラ・マイーム」という言葉とおなじです。そして、その意味は「苦い水」というものです。まさにここで語られていることです。
25節で、この苦い水に何が投げ込まれたら甘い水になりましたか?
そして、新約聖書でも同じ名前の人物が出てきます。それはマリヤです。マリヤはヘブライ語で読むと「ミリヤム」です。苦い水です。しかし、この人から木にかけられる方がお生まれになりました。
私たちの苦い水(罪の性質)に木(木にかけられたお方)が投げ込まれるなら、私たちから出てくるのはもはや苦い水ではなく甘い水となります。
聖書は本当に奥深く、一貫していますね。
26節、これは証ですが、数年前のある日、新宿に行く電車の中で激しい頭痛と体調不良に襲われていました。その中で通読をしている時にこの箇所が目に飛び込んできました。
「わたしは主、あなたをいやす者である。」
素直に「アーメン!」と思えたその瞬間、体中にまとわりついていた重い鎖のような気だるさと頭痛は一瞬で癒やされました。それからその日はいつも以上に元気に過ごせました。
みことばは私たちを救い、私たちをいやします。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
今日のみ言葉を感謝します。
心に苦いものがあるなら、自分も人も苦しめてしまいます。
人を喜ばせる甘い水がいつも私の内から溢れる為に、
絶えず十字架の力が、私の中に浸透していますように。