シャローム!
みなさんは初恋をしたことがありますか?または、新しい何かをかって喜んだことがありますか?
それでは、その喜びはずっと続いていますか?
イスラエルの民は偉大な救いを体験しました。しかし、すぐにその救いを忘れてしまい、不平不満が口から出てきます。
マズローの法則というのを聞いたことがありますか?人の欲求は五段階あり、下から生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求となります。人は欲求のかたまりですね。
荒野において、人々は一番下の生理的欲求、つまり食べ物、飲み物がないという事に直面します。
さあ、その時の民の態度、モーセの対応、神様の応答はどのようなものでしょうか。私たちはそこから何を学び、どのように自分の人生に適応していくべきでしょうか。
今日もみことばに教えていただきましょう。
今日の通読箇所:出エジプト記16章~18章
■アウトライン
食べ物、飲み物、悩み
●食べ物への欲求:16章
・民の食に対するつぶやき:1-12節
・主からの供給:13-36節
●水への欲求:17章
・水に乾く民:1-7節
・アマレクとの戦い:8-16節
●イテロとの再会:18章
・イテロとの会食:1-12節
・イテロの助言:13-27節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【16章】食べ物への欲求
イスラエルの民は一ヶ月ほど荒野を旅します。最初は救われた喜び、目に映る新しい景色などに喜んでいた彼らは、いつまでも同じ景色がひろがる荒野で、当てもなくさまよう事に気づき、不満が出てきます。
イスラエルのどの人が、誰に向かってつぶやきましたか?また、その内容はどのようなものですか?
4節では、神様はどのように答えてくださいますか?その目的は何でしょうか?4節の最後に注目してみましょう。
7-8節には朝の栄光と夕の恵みが書かれています。
主は今日も私たちを生かしてくださっています。それで十分です。しかし、私たちはその恵みを忘れてしまい、日々の小さな事でつぶやいてしまいます。
また、主が立てられた器に対してつぶやくのは主に対してつぶやくことになります。
例えば、私がデザインしたポスターを酷評する人がいるのを私が見たなら、とても悲しい気持ちになります。自分が作ったものを批判されるなら、それを作った人を批判することにならないでしょうか?
私たちは誰によって創造されましたか?その作られた者で例外はありますか?私たちすべての人は神の最高傑作の作品です。それであれば、人に対してつぶやくとき、それを作られた方に対してつぶやいているんだということを覚えましょう。
13-14節では、これから語られるマナに対する宣言です。15節から具体的な説明がはじまります。
イスラエルの人々は荒野で朝に天から降ってくるパンを目の当たりにします。「これは何だろう」と言うのも当然です。この言葉が元となり「マナ」という言葉ができました。
15節では、誰が誰のために、何として与えられたものだと書かれていますか?
16節からは、マナの集め方が指示されています。オメルとは今で言う「リットル」のような量の単位で、1オメルは約2.3リットルです。牛乳パック2つと缶コーヒーを合わせたくらいの量でしょうか?
今のように正確な計測をする機械がなかったので、民はおのおのが思うままを集めましたが、それを計るとちょうどいい量でした。
19節では集めたものをその日のうちに食べきることが規定されています。
親に細かいことまで言われたときに「めんどくさいなぁ」と感じることがあるかもしれませんが、従うことが大切です。この箇所でも主はこのことを通して、民が従うかどうかをご覧になっています。
20節、早速民の行動の結果が書かれています。それはどういうものですか?神様の指示に違わないと、マナはどうなりましたか?
22節ではさらに民に対して条件が加えられます。安息日のために、その前日は二倍の分を集めるというものでした。
人は毎日同じことが続く事で安心します。しかし、そのリズムが狂ったときに変化を感じます。
主は人にちょうど良いサイクルを与えてくださっています。6日働き1日休む。安息の奥義です。
27節、人々はどうしましたか?
28節は自分に語られているように感じました。主の戒めを守るために必要なのは安息です。それは休息とは違います。主との親密な交わりです。それが私たちを生かします。
31節からは、1日分のマナがつぼに入れられ、保存されます。これはのちに出てくる幕屋のところで詳しく見ることにしたいと思います。
このように、人々を生かすパンは彼らがカナンの地の境に来るまで彼らに与えられ続けました。
私たちはまだ約束の地、天の御国に入れられていないので、毎日天からのマナを受け取り続ける必要があります。この働きがその助けになれば幸いです。
【17章】水への欲求
イスラエルの民の飲む水は尽き果てました。荒野で水が尽きると言うことは死活問題です。そこで民の取った行動は、モーセと争い、石で殺そうとすることでした。
また、マナの時とは違って、イスラエルの民は神をも試みました。人は切羽詰まると何をするかわかりませんし、こういうときに人の本性が見え隠れします。
主はモーセに命じ、イスラエルのリーダーたちを集め、杖で岩を打ちます。すると水が出ます。
ここで1コリント10:4を見てみましょう。岩とは何と書かれていますか?また、ヨハネの福音書7:38も読んでみましょう。
8節からは戦いの場面に移ります。
9節でモーセはヨシュアに「何人かを選んでアマレクと戦え」と言います。無茶ぶり甚だしいですね。10節、ヨシュアはどのようにしましたか?権威者に従うことは祝福です。
ヨシュアは一生懸命戦います。ところが、本当の戦いはそこではなく、山の上で行われていました。
11節にはどのように書かれていますか?
疲れてしまうモーセを支えたのは誰と誰でしたか?みなさんの周りににそのような人はいますか?
イスラエルの民は勝利します。しかし、14節には不思議なことが書かれています。この記憶を消し去るというのです。これは神様からの愛ですね。私たちがいつまでも勝利に酔いしれるなら、今度は足下を敵にさらわれてしまいます。
勝利を得たと確信したらすぐにその栄光を主にお返しして、過去の栄光を忘れる生き方はかっこいいと思いませんか?
モーセはこのことを記念して祭壇を築き「アドナイ・ニシ」と呼びました。それは「主の御座の上の手」と言う意味です。
この言葉は、「アマレクが主に対して手を上げたが敗北した」という意味だという人もいますが、私はこう思います。
先ほど石はキリストだと言いましたが、モーセは石の上に腰をかけました。そして、主の権力の象徴である杖を上げました。
それ故に、主の御座の上の手と呼ばれたのではないかと思います。モーセがしたことは、助けを借りてでも手を上げ続けただけです。あとは主が戦ってくださいます。これが神の民の戦い方です。
【18章】イテロとの再会
アブラハムの子孫であるミデヤン(創世記25:2)の祭司イテロが出てきます。この人はモーセのしゅうとです。
長年合っていなかったしゅうとと、主がどのようにしてくださったかを語り合います。
13節からは、モーセはいつもの仕事に戻ります。それを見たイテロがモーセにアドバイスします。14節に書かれているイテロが見た現状はどのようなものですか?
15-16節でモーセはその理由を答えますが、それはどう言ったことですか?これは正しいことですか?間違っていることですか?愛のある行動ですか?愛のない行動ですか?
17節で、イテロはどのようにいいますか?もし、みなさんが一生懸命仕事をしているときにこのようなことを言われたらどう感じますか?
19-23節にあるイテロのアドバイスをまとめてみましょう。これはビジネスにも生かせるとても重要な組織に関するアドバイスです。
また、モーセに選ばれる人の特徴はどういったものですか?21節を見てまとめてみましょう。
あわせて、テモテへの手紙 第一 3:1-13節までを見てみましょう。
私たちも自分の生活をよく考えてみましょう。自分でやらなくていいことを一生懸命やって時間や労力を使っていませんか?誰かに任せられることはないですか?あなたしかできない事に集中していますか?このことを真剣に考えるなら、これからの人生で今までできなかった領域にチャレンジすることができると信じます。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
エテロがモーセを訪ねて来てくれた場面で、
当時、まだ求道者であった時、県外に就職したことを思い出しました。
母教会の牧師先生が、私の職場まで車ではるばる訪ねて来てくれました。
職場では、上下関係がとても厳しく、慣れないことばかりで、
毎日が緊張で、どんくさい私は、毎日叱られることに耐えながら(*^^)v
頑張っていたのですが、牧師先生の顔を見るなり、涙がでて、一粒出たら、もう止まらなくなりました。
嬉しいとも、懐かしいとも言いようのない、涙が・・・一粒落ちると、その後止まらなくなりました
同僚が、「どんなに叱られても泣かない人なのに、初めてあなたの涙を見たよ、あなた泣くんだね」と後で笑いながら、話していました。
休憩時間まで待ていてくださって、先生の車に乗せていただくと、
「人前で泣いてしまって」と先生に伝えると
「いいよ、聖霊様が思いっきり泣かせてくれたんだよ」
とおっしゃってくださいました。
先生の車の中には同じ年の信仰の友がいて、「頑張ってるんだね」って声かけてくれて、先生は二人に、ポットからコーヒーを入れてくれて、
宣教師の先生と、牧師先生、そして信仰の友と私の四人で、
車の中で、聖歌を歌って、聖書のみ言葉を読んでくださいました。
そこで、親元を離れて私は心細かったのだと、初めて自覚しました。
でも、主イエスが一緒だから、これからも安心してやっていけると思え
再び元気づけられ、職場に戻った記憶があります。
聖徒の訪問は、主のみ言葉の安らぎを思い出し、辛い境遇の中でも主に目を向けさせる励ましを与えます。
コロナで、なかなか教会に来れなくなったお年寄りが、久しぶりに来られた時の言葉が嬉しかったです。
「教会は、世の集まりとは違う本当にほっこりするものを感じます。やっぱり教会っていいですね、また来ますよ、できる限り来たいです」と
ここでも
「祈っていますよ」 「祈りあいましょう」と声掛けがあり、
聖徒の麗しい交わりを受け取ることができ、感謝しています。