聖書通読クラブ Day 24

聖書通読クラブ Day 24【出エジプト記19章~21章】

Spread the love

シャローム!

私たちが社会生活をする中で、様々なルールがあります。例えば交通ルールがあります。とても細かい規定があったり、毎年変わったりして、守るのが大変なこともあります。
しかし、もし交通ルールがなかったらどうなるでしょうか?誰も赤信号で止まらず、車で右側でも左側でも自由に、速度の制限なく走っていたらどうでしょうか?とても危険ですよね。

ルールを守る事は窮屈に感じますが、実は私たちはルールによって守られていることもあります。(もちろん、無駄なルールというのも存在しますが)

今日から十戒、そして具体的な律法の適用に入ります。それらを守ることは面倒で大変に思えるかもしれませんが、このことを通して主への従順を学び、永遠のいのちへと導かれていきます。

律法はイエス・キリストに従う私たちにとって無関係のものに見えますが、十字架を通して完了したもの、続くもの、新しく再定義されたものを受け取り、神の願い通りに生きて生けたらと願います。

今日もみことばに教えていただきましょう。

今日の通読箇所:出エジプト記19章~21章

■アウトライン

神の戒めの土台

●神の現れへの備え:19章
  ・主からの語りかけ:1-6節
  ・民への語りかけ:7-15節
  ・神の現れと召命:16-25節

●十戒:20章
  ・律法の土台:1-17節
  ・イスラエルの応答:18-26節

●律法の適用:21章
  ・奴隷の問題:1-11節
  ・傷害に関する問題:12-36節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【19章】神の現れへの備え

みなさんも大切な人と会う約束があるときには、その時間や場所を確認したり、それにふさわしい格好を準備したり、身なりも整えると思います。
これから、イスラエルの民は神の戒めを聞くことになります。そのために彼らは備えなければなりませんでした。どのような備えをし、神様に出会ったのでしょうか。

神様はどこからモーセをお呼びになりましたか?マタイの福音書24節では、イスラエルが囲まれたらどこに行けと言われていますか?

荒野と言うと、つらく苦しい場所に見えます。しかし、その本来の意味はミ・ダバール。「ことばのある場所」と言う意味です。多くの人は荒野で主の御声を聞きます。

4節では、神様がどのようにここまで導かれたかが書かれています。黙示録12:14もあわせて見てみましょう。

5節に神様の約束が書かれていますが、それは条件付きです。覚えておきたいのは、私たちが救われるのはイエス様の一方的な恵みによるものであり、人の努力ではありません。これは無条件です。しかし、イエス様を信じ歩む生き方は条件があります。それは私たちを永遠のいのちへと導くものです。
ここで書かれている条件はどのようなものですか?ノートに書き出してみましょう。また、その報いはどのようなものですか?
あわせて6節とペテロの手紙第一2:9を見てみましょう。

8節でモーセは神のことばを民に伝え、また民のことばを神に伝えます。これが上に書かれている者の働きです。祭司でありとりなしの祈りです。死といのちの間に立って、この地を取りなしましょう。

9節で主はモーセに語りかけられますが、何の中に臨まれると書かれていますか?黙示録1:7ではどのように書かれていますか?

10節では着物を洗うことが命じられています。これは単なる洗濯ではありません。着物は私たちの義をあらわします。普段と違う洗った着物を着る事で主をお迎えする準備をします。
福音書で言うなら、種まきのたとえの良い地にあたります。

12節、まるでエデンの園を守る御使いと剣のようです。誰でも安易には神様に近づくことはできません。「イエス様は友達!」と言うこともありますが、まあ、それはそうなんですが、「神である主が私を共と呼んでくださる」のであって、被造物の私たちが気軽に「イエス様はマイフレンドだぜ!」とは言えるものではないと思います。みなさんはどう思いますか?

16節からはいよいよ主が臨まれます。この場面をよく読んで、自分がそこにいるかのように創造してみてください。この緊張感はどれほどのものでしょうか。

神様に呼ばれたものは山に登ります。そして、神様は天から山に降りてこられます。これが祈りの家です。天と地がひとつになります。

【20章】十戒

今まで何度かこのことばを使っていますが、この箇所も一冊の本にできるほどの内容です。律法の根幹です。
しかし、このことだけを覚えておいてください。この十の戒めは神様の愛です。
なぜなら、日本語で読むなら「○○してはならない」と書かれているので強い禁止に聞こえ、それに対して反発してしまいます。
ところが、この本来の意味は「あなたは○○しないはずだよね!なぜなら、神である私があなたを宝のように扱い、聖なる国民とし、祭司の王国とし、すべてのものを与えているのだから」と言う意味になります。この考えを持って十戒を読むなら、今までと全く違った捉え方になるのではないでしょうか。

それでは、ノートに十の戒めを書き出してみましょう。そこから何を学ぶことができますか?

22節からは神から語られたことを具体的に生活にあてはめていく様子を見ることができます。

特に今回は25節を見てみましょう。これはどういう意味だと思いますか?
私は、礼拝を捧げるとき、それを過剰に盛り上げたり演出してはいけないということを受け取りました。なんとなく「神様の臨済が満ちてる風」の照明や音楽を作り出すことがある程度はできますが、それは人の働きです。そうしなければ主の臨在が臨まれないわけではありません。ひとりで静かにひざまづき祈る中にも圧倒的な主の臨在が臨まれるときもあります。臨在は作り出すものではなく、主がもたらしてくださるものです。

【21章】律法の適用

ここからは奴隷の規定が書かれています。
みなさんにとって、奴隷とはどのようなイメージですか?もちろん、現代の国際社会の中で人権が無視されたような奴隷制度は歓迎されるものではありません。
しかし、このみことばに出てくる場所と時代の奴隷は私たちの思っているものとは少し違っていたようです。
当時の奴隷は喜んで主人に仕える奴隷でした。奴隷というより「しもべ」と言った方がしっくりくるかもしれません。
そこには主人と仕える者の信頼関係があり、その絆は強固でした。その事を念頭に置きながら、この箇所を通読してみましょう。

特に5-6節を見てみましょう。これを自分にあてはめるとどうなりますか?考えてみてください。

12節からは傷害に対しての事が書かれています。保険会社に勤務されている方や弁護士、法律に関わる方はとてもよくわかる箇所かもしれませんね。
この傷害に関しての大きなポイントは何だかわかりますか?
私は故意か、そうでないかだと思いました。みんさんはどう思いますか?

15節、17節。学生のみなさん、気をつけましょうね!お父さん、お母さんを嫌いと思うことは自分を嫌いと言っているのと同じです。あなたはどんなにもがいても、お父さんとお母さんから産まれてきたのですから。
赦すのが難しい親がいるかもしれません。その時は祈りましょう。いつまで祈るのでしょうか。自分の中で親を赦せるまでです。主の助けがありますように。

18-19説を読んで、福音書のどこかを思い出しませんか?
ルカの福音書10:30-37を読んでみましょう。
これらの事と私たちと、どのような関係がありますか?

23-25節、ある意味公平なルールです。
私たちは本来罪の故に永遠の死に定められていました。しかし、私たちのいのちにいのちをもって買い取ってくださった方がおられます。
しかも、いのちを差し出さなければならないのは本来私たちの方です。ところが、このお方は先に、みずからの罪なきいのちをおささげになり、私たちをいのちの代価で買い取ってくださいました。
このイエス様の信じられないほどの恵みを知るなら、感謝があふれてこないでしょうか?

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。

 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。

 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。

 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?

 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?

 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?

 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 出エジプト19:4-6
    モーセの時代は律法を守ることにより、神の宝の民となり得たのですが、私たちはただ、キリストの血を信じることにより、キリストの中にいることによって、この特権を持つことを感謝します。
    このシナイ山での恐ろしい光景(出エジプト19:10~)と(ヘブル12:18~)を比べると
    仲介者であられる主イエスの血潮の故に、キリスト者が、いかに幸いな立場であるか、その特権のすばらしさを思い、伴う責任を忘れず、御霊と共に歩み、救いの達成に努めるよう、恵みを放縦に変えることのないよう歩みたいと思います。
    しかし、その歩みすら自分の力では困難な存在であることを見極め自覚し、日々、主イエスの十字架を仰いていきたいと思います。
    そしてもう一つ
    男女の奴隷の規定、特に女奴隷に対する規定に熱く心を打たれました。
    その主人が彼女を自分の息子のものと定めるなら、彼女を自分の娘のように扱わなければならない。(出エジプト21:9)
    罪の奴隷であった者を贖い、天の父なる神はご自分の息子(主イエス)のものと定め、ご自身の娘のように扱ってくださること感謝します。
    私たちには父なる神が、主イエスが、そして聖霊様が絶えずそばにいて語り、助けてくださることを感謝いたします。この最高のファミリーの中に入れてくださる、この上ない幸せ、親しく交わりをすることができることを感謝いたします。
    主の十戒が愛に満ちていることを感謝いたします。
    人はうわべを見て、良く知らないで人を裁き批判し、自分こそが正しいと思いあがります。
    しかし
    主は決して誤解することなく
    ゆえもなく非難することはない、
    真実で正しく、慈しみ深い目を持った方。
    人の尊厳を傷つけることを赦されない方
    人を、また人の命を軽く扱われない方。
    天の父と、子である私たちの夫(主イエス)、そして慰め主であられる聖霊様・・・
    このような方に造られた被造物であることを感謝いたします。
    また、このような神を知っていることを感謝いたします。
    主イエスの十字架の血潮で贖われていることを感謝いたします。
    感謝します。感謝します。
    永遠に、感謝が続きます・・・
    まだまだ続きます・・・終わりがありません・・・
    ハレルヤ アーメン

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です