聖書通読クラブ Day 168

聖書通読クラブ Day 168【詩篇51篇〜55篇】

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シャローム!

悔い改めは献金と並んで教会であまり人気のないメッセージかも知れません。人々は「祝福されます!繁栄します!」というメッセージを求めるかも知れません。しかし、主はいつでも私たちに悔い改めを願っています。
イエス様もまず悔い改めのメッセージをされました。悔い改めは単なる反省や後悔とは別です。悔い改めは神様に立ち返る事です。自分勝手な歩みから神様の願われる道へと方向転換して歩み出すことです。
ダビデは大きな罪を犯しましたが、心から悔い改めました。
それなのに、なお多くの人々から裏切られ、親しい友からも裏切られます。ダビデも人生に苦しみました。しかし、その中には喜びがありました。それはどのような者だったでしょうか。今日もみことばを朗読し、そのことを主ご自身に教えていただきましょう。

今日の通読箇所:詩篇51篇〜55篇

■アウトライン

●聖霊を取り去らないで:51篇
  ・罪からきよめてください:1-4節
  ・心の真実を喜ばれる:5-9節
  ・ゆるがない霊:10-13節
  ・神へのいけにえ:14-17章
  ・エルサレムの城壁:18-19節

●とこしえまでも:52篇
  ・なぜ悪をほこるのか:1-4節
  ・幕屋から引き抜く:5節
  ・神の恵みに拠り頼む:6-8節
  ・とこしえまでの感謝:9節

●義人はいない:53篇
  ・善を行う者はいない:1ー3節
  ・神が彼らを捨てられた:4-6節

●助けてくださる方:54篇
  ・御名によって権威によって:1-3節
  ・進んでささげるささげ者:4-7節

●裏切り:55篇
  ・祈りを耳に入れてください:1-8節
  ・ことばの混乱:9-11節
  ・仲間の裏切り:12-15節
  ・平和のうちの購い:16-19節
  ・バタよりもなめらか:20-21節
  ・重荷を主にゆだねる:22-23節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【51篇】聖霊を取り去らないで

・罪からきよめてください:1-4節
この詩篇51篇は、個人的に一番好きな詩編です。一言で言うなら悔い改めの詩篇ですが、完璧なまでに礼拝のステップが書かれています。ダビデはナタンによってバテ・シェバの罪を指摘されました。その時の詩篇です。
まず、ダビデは主の御恵みによって情けをかけてくださいと祈っています。どうしてこのような祈りができるのでしょうか。それは、自分が罪を犯したと言うことをしっかりと受け止め、認めているからです。ダビデは自分の罪から逃げようとはしませんでした。心が直ぐな人でした。
そして、自分が罪を犯したと言うことを認めつつ、神様の御恵みに拠り頼んでします。ローマ2:4にはこう書かれています。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くこともしらないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
神様が私たちをさばかれるとき、それは神の怒りを超えた私たちに対する慈愛です。「もっと成長して欲しい、もっとわたしの近くに来て欲しい」という主の願から出ているものです。ダビデは神様との深い関係の中でそのことを知っていました。悔い改めるなら赦してくださるお方だと知っていました。だからこそ自分の罪が指摘されたとき、人一倍重く受け止め、真っ先に神様のところに行っています。
そして祈っているのが「そむきの罪をぬぐい去ってください」ということです。そむきの罪は罪の中でも最も重いものです。それは神様に従わないと言うことです。マタイ12:32には「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」とあります。
自分の欲におびき寄せられて、聖霊様が悲しむことを選び取って締まったダビデは心から悔い改めの祈りをしています。
2節には別の罪が出てきます。咎です。これは罪の結果出てくるものです。そしてもう一つが「私の罪」と言うものです。
ダビデは神様を悲しませることをしていると言うことは、どこかでわかっていたでしょう。しかし、自制することができませんでした。結果、神様を悲しませてしまいました。それをどうにか隠そうとしましたが、それは逆に神様をよりかましませることになりました。
ずっと自分の心の奥底では「いけないことだ」とわかっていたのかも知れませんが、人はそういうときに、なかなか歯止めがきかないものです。3節に「自分のそむきの罪を知っている」とあるとおりです。しかし、そこで預言者ナタンがはっきりとダビデの罪を指摘しました。その時ダビデは罪をはっきりと認めました。
4節を見ると、まず神様に罪の告白をしています。この場合、バテ・シェバやウリヤの両親、親族に一番にあやまるべきでしょうが、ダビデはまず神様のところに行きました。私たちもまず、神様のところに行きたいです。
そこでダビデは自分が間違っていて、神様が正しいと言うことを認め、告白しています。これがへりくだりです。ダビデの行った事はいけないことです。それは揺るがない事実です。しかし、大切なのはその後、どのような行動を取るかです。

・心の真実を喜ばれる:5-9節
5節には、ダビデは咎あるものとして生まれ、罪あるものとして母は私を身ごもったとあります。これは聖書に書いていないので吟味が必要ですが、イスラエルの人々の間ではダビデの母はダビデの父、エッサイの妾(めかけ)であったと言われています。それで、サムエルが油を注ぎにエッサイの所に来たとき、ダビデだけ他の兄弟と別の扱いを受けていました。
ダビデはこのような自分の出生を知っていて、この事を告白したのかも知れません。
ここに二つの重要なポイントがあります。一つは、生まれながらの罪というものです。子どもの保育・教育を教えるテキストには「子どもは産まれながら純粋無垢な存在である」とかかれています。それは本当でしょうか。確かに子どもは無条件でかわいいです。しかし、生まれた瞬間から大声で泣き、自分の欲求を主張します。成長の過程で子どもが罪を覚えるのではなく、聖書は人は生まれながらに罪があると教えます。
これを知っているか知らないかは非常に重要です。「自分には罪がない」と思い込んで生きると言うことは、神を知らないと言うことです。神の律法によって私たちは罪の下に置かれます。これを悟らせてくださるのが聖霊様です。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)
どうすればそむきの罪、咎、自分の罪から聖められるのでしょうか。7節を見ると「ヒソプを持って私の罪を除いてきよめてください」とあります。ヒソプとはパセリのようなハーブの一種で、イスラエルでは雑草のようにどこにでも生えているものです。なぜヒソプと罪のきよめが関係あるのでしょうか。
その鍵は過越の祭にあります。過越の祭には、ヒソプで家の門柱とかもいに子羊の血が塗られます。すると、その前を死の霊が過ぎ越していきます。血はいのちですので、その家に血が塗られていると言うことは、その家にいるものはすでに死んだと見なされるからです。
ここで私たちに必要なのは、イエス様の血潮です。この前に自分の罪を認め、悔い改めました。次はイエス様の血潮を宣言して祈りましょう。
このお方の血によって、私たちは雪よりも白くされ、主が砕かれた骨が喜びます。

・ゆるがない霊:10-13節
罪を認めることは、自分に死ぬことでもあります。しかし、イエス様は復活の恵みにもあずからせてくださいます。
たとえば家を建築するとき、前にある家を残したままで全く新しい家を建築することができるでしょうか。それは無理です。一度古い家を壊し、更地にした上でさらに土台をしっかりと据えてから新しい家が建てあげられていきます。
私たちの内なる人も同じです。一度古い自分が死ななければ、イエス様が生きてくださいません。
このプロセスを経たダビデは、きよい心、揺るがない霊を新しくしてくださいと祈っています。罪を犯すことで曇り、薄れていた主への情熱をもう一度あたらしくしていただけるように願っています。
そして、おそらく旧約聖書で唯一、この箇所で「聖霊」ということばが出てきます。これは文字通り「聖い霊」という意味ですが、まだこの時代に聖霊様は注がれていません。しかし、ダビデは信仰によって新約時代の恵みの信仰を持っていました。それで、「あなたの聖霊を私から取り去らないでください」と祈ります。黙示録2:5にはこのよううに書かれています。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに言って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」と書かれています。燭台は聖霊様を啓示する幕屋の器具です。悔い改めと聖霊様が密接に関わっていることがわかります。
聖霊様が私たちの中におられ、このお方を歓迎するなら、そこから生ける水の川が流れ出ます。そして、救いの喜びが内側からあふれ出します。その喜びを取り去られないよう、ダビデは喜んで仕える霊が来て支えてくださるように祈っています。私たちもこの祈りをしてみましょう。
このような罪から私たちが立ち直る回復を見るなら、多くの人は神様の偉大さを知ります。それが証の力です。
以前の自分を知っている人に信仰を持ってからあったとき「変わったね」と言われることがあります。その時に私は主をほめたたえます。主が私を変えてくださいました。どのように変えてくださったかをその時に証しします。そのために、普段から証ができる用意も怠らないようにしておきましょう。

・神へのいけにえ:14-17章
血の罪からの救いを求めています。主に悔い改めても、罪責感は依然としてやってきます。ヘブル12:1にはこのように書かれています。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。」とあります。
イエス様の血潮によって、このまつわりつく罪から私たちは贖われました。まるで裁判で「有罪」と言われた後、弁護者なるイエス様が来られた結果「無罪」となったようなものです。その喜びは計り知れないものです。
これらの事からわかるのは、物質的ないけにえが主へのいけにえではないと言うことです。主へのまことのいけにえ、主が喜ばれるいけにえは私たちの砕かれた心です。
イエス様の時代の律法学者、パリサイ人は形だけのいけにえをささげていました。イエス様はそのことをとがめられました。もみがらのような存在です。主は心を見られます。

・エルサレムの城壁:18-19節
ここまで来たダビデは、今度はエルサレムの城壁を築いてくださいと祈っています。エルサレムには主が住まわれます。私たちの内なるエルサレムにも城壁が築かれる必要があります。そうでなければ、敵から攻められてしまいます。箴言25:28には「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ち壊された町のようだ。」とあります。喜びを奪い取られないように、主の守りが必要です。
この回復のプロセスを経て、主にささげられるいけにえは受け入れられます。いけにえは礼拝です。主に受け入れられる礼拝はこのようなかたちで行われていきます。
「いろいろプロセスがあって難しい」と感じる方は、この詩篇51篇を朗読して、ひれ伏してみましょう。主が内なる人を造りかえてくださると信じます。

【52篇】とこしえまでも

・なぜ悪をほこるのか:1-4節
ここでの冒頭で、エドム人ドエグが出てきます。ダビデがサウルから逃亡しましたが、その最初の頃、ダビデが祭司を尋ねた時のことになります。ダビデは長い間食事をしていませんでしたので、餓えていましたので、パンを求めました。武器も求めました。すると、アヒメレクは幕屋から取り下げたパンとダビデがゴリヤテを倒したときの剣を与えました。
力を受けたダビデはさらに逃亡しますが、そこでエドム人ドエグと出会いました。
サウル王は柳の木の下で座り、誰も自分を気にしてくれる人はいないといって嘆いていました。そして、誰かダビデがどこにいるのか教えてくれたら褒美をやると言うと、ドエグがダビデの事をばらしてしまいました。
サウルは祭司アヒメレクの所に行き、アヒメレクを責めます。アヒメレクはダビデに悪い部分を見いだせないというと、サウルは主の祭司を殺すことを命令します。そして、ドエグが85人の祭司を打ち殺しました。
その様な悲劇の中、ひとりだけ祭司が生き残り、ダビデのところに逃げてきました。エブヤタルです。そのときに歌われたのがこの詩篇です。
1節から書かれているおまえ、欺く者、欺きの舌はすべてドエグです。ドエグはダビデが祭司アヒメレクからパンと剣を受け取ったのを見たと言いました。それは事実です。しかし、悪意を持って事実を伝えるなら、正反対の事が伝わってしまいます。
しかしダビデはその様な中でも神の恵みがあると言っています。

・幕屋から引き抜く:5節
ドエグは幕屋に来ていましたが、それは主を心から礼拝するのではなく下心を持って来ていました。その様な者を主は幕屋から引き抜かれます。
イエス様も神殿で商売する両替人や鳩を売る者の机をなぎ倒されました。そして宣言されました。「主の家は祈りの家でなければならない」と。

・神の恵みに拠り頼む:6-8節
ダビデはドエグと自分を比較しています。神を力としない者と神に拠り頼む者の対比です。ドエグはサウルから評価され、この世の富と地位を得たかも知れません。しかし、幕屋から引き抜かれます。神に仕えるか、富に仕えるか、どちらかにしか仕えることができません。

・とこしえまでの感謝:9節
ダビデはいつも主に感謝していました。自分の状況、環境によらず、主に感謝の心を持っていました。そして、主の御顔が見えないと感じるときも、主の恵みに拠り頼んで主を待ち望んでいます。この信仰を見習いましょう。

【53篇】義人はいない

・善を行う者はいない:1ー3節
詩篇14篇と同じような内容です。それほど、この事は私たちにとって重要なことなのでしょう。
「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている。」と書かれています。神を知らない、創造主を知らないと言うことは自分を知らないと言うことです。聖書はこのような者を愚か者と定義しています。
そして、神は天からご覧になり、神を尋ね求める者と悟りのある者を探されます。しかし、誰も見いだすことができませんでした。

・神が彼らを捨てられた:4-6節
4節では民が食われると書かれています。バビロン捕囚やアッシリヤの包囲、また世の終わりにはエルサレムが囲まれます。神の民はいつもこのような脅威にさらされています。神に愛されているからです。
そしてダビデはイスラエルの救いを祈ります。それはシオンから来ると書かれています。そして、御民が神の繁栄を元通りにしてくださると宣言しています。主は一度なくなったイスラエルと言う国を再建してくださいました。そして、やがて来る新しいエルサレムへと私たちを導いてくださいます。

【54篇】助けてくださる方

・御名によって権威によって:1-3節
52篇で見たドエグはエドム人でした。ところがここで出てくるジフ人はダビデと同じユダ族でした。彼らが裏切ります。
この詩篇はダビデがジフの荒野に逃げているときの詩篇です。ダビデと同じユダ族の彼らジフ人がダビデの居場所をサウルに告げました。それでダビデは殺されそうになりますが、ちょうどその時ペリシテ人が攻めてきた事がサウルの耳に入り、ダビデは一名をとりとめます。
しかし、イスラエルに戻ったサウルにジフ人はダビデの居場所を教え続けました。
1節からを見ると、ダビデは主の御名によって救われる事を願っています。主の御名はこの地上で最も力ある名前です。イスラエルの人々はこの神の名前を呼ぶことができません。十戒の戒めに抵触すると考えているからです。しかし、そこには「みだらに」神の名を唱えてはならないと書かれています。これは神の名を使って侮辱してはならないという意味です。
日本語ではありませんが、英語では神様のお名前をそのまま使って罵ることばがあると聞きました。そういった類いの者です。ですから、素直に主を礼拝するときに主の御名を呼び求めることはむしろ良いことです。
このお方はヤハウェーという聖なる四つのヘブライ語のアルファベットからできています。ヘブライ語は象形文字なので、ひとつひとつに意味があります。その意味を並べると、ヤハウェーとは「手を見なさい、釘をみなさい」という意味になります。明確にイエス様の事を指し示しています。このお方の名前に勝る名前はありません。
イエス様は最高権威者です。そしていつも私たちを弁護してくださるお方です。
3節で、ダビデは自分に立ち向かう者がいることを書いています。しかも自分に身に覚えがないことで見知らぬ者に非難されています。
現代でもこの事は続いています。特にSNSなど、匿名で自分の意見を言える場所が増えました。そこでは誰かが不祥事を起こしたら、関係のない人までその人に集中砲火を浴びせ、その人が再起できないほどに打ちのめします。そして次のターゲットができたらまたその人を攻撃します。
ダビデはなぜそのような事が起こるのかと言えば、彼らの前に神を置いていないからだと言っています。その通りです。彼らは自分が神です。自分の言っていることが絶対正義だと思い込んでいます。そこに神の義はありません。罪を犯しても心が痛まない人たちです。私たちもそのようにならないよう、聖霊様に助けていただきましょう。

・進んでささげるささげ者:4-7節
ダビデは神様を「私を助ける方、私のいのちを支える方」と言って信仰の宣言をしています。
私たちの人生のハンドルを握るのは私たち自身ではなく、私たちの創造主です。このお方がハンドルを握るなら絶対に事故などを起こしません。いのちを支えてくださる方です。
このお方の恵みに拠り頼み、ダビデは敵の敗北を宣言しています。決して自分の手で復讐使用とせず、主におゆだねしています。
そしてダビデ本人はいけにえをささげています。この時点でまた敵は滅ぼされていません。しかし、ダビデは信仰によって先を見ていました。ダビデの信仰ではすでに敵は滅ぼされていました。ですからダビデは信仰を持って先にいけにえをささげています。私たちも信仰の目を持って、自分で復讐することのないようにしていきましょう。

【55篇】裏切り

・祈りを耳に入れてください:1-8節
ここは今までにないほどの苦しみを感じる詩篇です。なぜなら、最も親しい友が裏切った事が書かれているからです。私たちも親しい者から裏切られるほどダメージの大きな事はないでしょう。
この詩篇で誰がダビデを裏切ったかと言えば、ダビデの相談役、顧問であり友人であるアヒトフェルの裏切りです。ダビデの息子アブシャロムがヘブロンで王となることを宣言しました。そのことで身内通しの戦いが起こることを避け、ダビデは荒野に逃げます。
空白になった王座にアブシャロムがやってきますが、その時にアヒトフェルもいました。人々はアヒトフェルの助言に酔いしれ、神に等しいくらいに思っていました。
そのようなアヒトフェルがアブシャロムにアドバイスし、宮殿の屋上でダビデの残した十人のそばめと姦通することを勧めます。それはすなわちダビデの王権を奪還したという証拠になるからです。
そこでダビデはアヒトフェルの助言が愚かなものになるように祈ります。その時の詩篇です。
1節からを見てみましょう。祈りにならない祈りがあります。うめいています。主はきれいなことばの祈りだけを聞かれるお方ではありません。立派なことばをならべた祈りが素晴らしい祈りではありません。ことばにならず、「主よ!」としか言えない、それすら言えずただ打ちのめされて泣き、うめくような祈りも主は聞いてくださいます。ことばの巧みさではなく、心からの祈りが大切です。
あまりのショックにダビデはうちにもだえています。

・ことばの混乱:9-11節
ダビデは苦しみの中で自ら敵に対して手を上げることをせず、ことばが混乱されるように願っています。かつて、人々は力を合わせて天にまで届く塔を建てようと言いました。しかし、神は彼らのことばを混乱させ、全世界に散らされました。
ことばは人に与えられた特別なものです。ことばが一つであれば、人は協力してものすごいことができます。
私たちは今の世界を見ると沢山の言語があります。しかし、大きく分けたら二つの言語にわけることができます。神の言語を話す者と神の言語を話さない者です。教会の中でも同じ言語が通じない人もいます。神につながる者は地上の言語を超えて、ひとつとなることができます。ダビデは敵にその逆を求めました。

・仲間の裏切り:12-15節
ダビデは苦しみの本質を告白します。友に裏切られた苦しみです。イエス様もこの苦しみを味わわれました。寝食を共にしたイスカリオテのユダに裏切られました。
私たちは生きていたら、親しく信頼していた人に裏切られることもあるでしょう。その人をいつまでも恨んでいては前に進めません。もちろん、恨む気持ちはわかります。ですから、祈りましょう。だびでがしたように祈りましょう。ダビデの祈りに自分の祈りを重ねましょう。

・平和のうちの購い:16-19節
主は苦しみの中から祈る祈り、うめきを聞いてくださいます。そのようなうめきを夕、朝、真昼に主に向かってするなら、主は聞いてくださいます。ダビデは平和の内に贖われることを願っていますが、その通りになります。

・バタよりもなめらか:20-21節
ダビデは彼らのことばをバターのようになめらかだと言っています。確かに、料理にバターを入れるだけで勝利の味がします。必要以上に丁寧な言葉遣いをする心のうちは下心があることが多いです。耳心地はいいのですが、それは抜き身の剣のように傷つけるものです。

・重荷を主にゆだねる:22-23節
親しい友が裏切った事で、ダビデは気が狂いそうに苦しんでいます。その中でこのことばが信仰によって溢れてきました。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」そうです。主は私たちの重荷を代わりに背負い、心配してくださるお方です。身近な信頼できる人でさえ裏切られる可能性があります。決して裏切ることなく、私たちを心配してくださるのは主だけです。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 喜んで仕える霊がわたしをささえますように。
    私のことを心配してくださる主に感謝します。

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