聖書通読クラブ Day 162

聖書通読クラブ Day 162【詩篇21篇〜25篇】

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シャローム!

私の好きな賛美で「主は道を日々造られる」という賛美があります。英語のタイトルはGod will make a wayです。
私たちの前には様々な道があります。時には永遠に続くように思える一本道を歩んでいるように思えるときもあれば、あまりにも沢山の分かれ道があり、どちらに進んで良いかわからないときもあります。
私たちの前に広がる道を別のことばで言うなら決断と言うこともできます。私たちは毎日大小を含めておびただしい数の決断をしています。調べによると、人は一日35,000回も決断しているとのことです。それだけの道を選んで進んでいると言うことです。
このすべての決断を正しく決断できる人がいるでしょうか。それを100%間違いなく選ぶにはどうしたら良いでしょうか。今日の通読にそのヒントがあると信じます。

今日の通読箇所:詩篇21篇〜25篇

■アウトライン

●主に信頼する王:21篇
  ・御救いを楽しむ:1-2節
  ・とこしえの祝福:3-6節
  ・憎む者どもを見つけ出す:7-12節
  ・御力のゆえに:13節

●苦しみからの救い:22篇
  ・どうしてお見捨てになったのですか:1-5節
  ・私は虫けら:6-8節
  ・母の胎から取り出した方:9-10節
  ・遠く離れないでください:11-18節
  ・会衆の中で賛美する:19-24節
  ・主を尋ね求める人々:25-31節

●溢れる杯:23篇
  ・主は私の羊飼い:1-6節

●万軍の主を迎える:24篇
  ・主の山に登る者:1-6節
  ・栄光の王が入ってこられる:6-10節

●主を待ち望む:25篇
  ・恥を見ない:1-3節
  ・教えてください:4-7節
  ・主の小道:8-10節
  ・咎をお許し下さい:11節
  ・主を恐れる人:12-15節
  ・苦しみから贖いだしてください:16-22節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【21篇】主に信頼する王

・御救いを楽しむ:1-2節
主の救いが私たちの喜びです。私たちはどこから救われたのでしょうか。永遠の滅びから神からの一方的な恵みによって救われました。これほどの喜びがあるでしょうか。私たちはこの事を本当に知ったとき、死からいのちへと方向転換をさせてくださった主の御力を喜びます。
そして、救いがどれ程の事であるかを悟るとき、十字架の道を楽しみながら歩むことができるでしょう。

・とこしえの祝福:3-6節
主がダビデを見いだされ、ダビデを王に召されました。彼の頭に純金の冠が置かれました。聖書で金は神様を象徴する物質でもあります。ダビデの頭の上には主がありました。この事は4節と並行して書かれています。聖書で、特に詩篇でよく見られる同義的平行法という書き方です。同じ意味を違うかたちで表現することで、言いたいことを、より浮き立たせる役割があります。
ダビデの頭に載せられたのは純金の冠でしたが、それは尊厳と威光でもあります。
主と永遠の契約を結んでいるダビデを主は祝福され、御前で楽しませてくださいます。主と共に歩む人生はこのようなものです。

・憎む者どもを見つけ出す:7-12節
王が主に信頼する国はどれほど素晴らしいでしょうか。ダビデは戦いに力がありました。知恵もありました。失敗もしましたが人々への配慮と愛に満ちた人でした。勇敢でした。しかし、その中でも最も注目されるべきは主に信頼していたということです。これがダビデの魅力の秘訣です。聖書が示す正しいアイデンティティ、自己像を持っていました。
続く8節からは敵について書かれています。主がすべての敵を見つけ出されます。これを自分にあてはめるなら、みことばによって私の中に神様に敵対する領域が明らかにされていきます。
そして、悪者の行く末が書かれています。敵は主の御前に完全に滅ぼされます。しかし、今、この地上で、また、私の中でこの事は完了していません。イエス様が私たちをお迎えに来られるとき、これらは完全に成就します。

・御力のゆえに:13節
ここでの主語は「私たち」となっています。おそらく、ダビデと民がひとつとなって主をほめたたえているのでしょう。
ダビデは神の箱がペリシテ人の手から自分の所に戻ってきたとき、あまりの喜びのあまり、はだかで踊ったとあります。しかし、よく読むとダビデはエポデを来ています。その意味は、王の服を脱いで、民と同等の立場に立って主を喜んだということです。
主の御前では身分の上下はありません。愛する兄弟姉妹がひとつとなって神様を賛美する姿はこの地上で最も美しい姿でしょう。

【22篇】苦しみからの救い

・どうしてお見捨てになったのですか:1-5節
この詩篇は明確にイエス様を啓示している詩篇です。イエス様ご自身もこの詩篇から引用されています。
まず、ダビデの詩篇ですが、ダビデの生涯と一致しない部分がありますので、まず初めにそのことをみたいと思います。
まず、ダビデは長寿を全うして死んでいきますが、ここでは敵に囲まれて死んでいく姿を描いています。また、ここでダビデは犯罪人として死んでいきます。しかしダビデはそのような死に方をしません。やはりこれはイエス様の姿です。それでは本文を見てみましょう。
まず1節から、早速イエス様が引用された箇所です。マルコ15:33-34「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクダニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」これはイエス様が十字架の上で言われたことです。イエス様と父なる神は全く一つ心でしたが、イエス様が全人類の罪を背負った故に、この瞬間に父なる神との関係が断絶し、イエス様は完全な孤独を経験されました。天の父と言うことができず「わが神」と言っています。これほどのことまでして、私たちを救いに導いてくださったイエス様に感謝してもしつくせません。

・私は虫けら:6-8節
自分は人ではなく虫けらと言っています。人々からも神からも見捨てられたような状態を言い表しています。この「虫けら」とは「緋色」と言う意味もあります。緋色の染料は虫から抽出されます。これは幕屋の中で使われる色です。それは購いをも意味します。ダビデは「私は贖われた者だ」という宣言もしているのでしょうか。
続けて7-8節を見てみましょう。これもイエス様が十字架にかかられた時、人々が取った行動です。マタイ27:41-43にそのことが書かれています。「同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。『彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王様なら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。「私は神の子だ。」と言っているのだから。』」
彼らはこの詩篇を詠まなかったのでしょうか。彼らがこの預言を成就していることに気がつかなかったのでしょうか。祭司長です。律法学者です。みことばに精通している人々です。しかし、彼ら神様に最も近いと思っていた者が神であられる方を十字架につけてしまいました。私たちも他人事ではありません。毎日聖書を読んでいるから大丈夫と言ったことはありません。みことばの餓えに御霊が注がれ、いつも目を覚まさせていただく必要があります。

・母の胎から取り出した方:9-10節
ダビデは苦しみの中で母の胎に神様への拠り所を見いだします。自分が生まれてきたところです。母の胎では胎児は羊水によって守られ、へその緒を通して母から栄養を供給され成長します。考えてみたら不思議です。なにも無いように見えるところからいのちが誕生します。神様が母の胎の中ですべての人を組み立ててくださっています。
この箇所を持って、母体信仰というものがあると言うのを聞いたことがあります。母の胎にいるときから母はイエス様を信じているので、腹の中にいる子も生まれる前からキリスト者なのだという主張です。確かに、祈りにっよって守られた子どもかも知れませんが、信仰はその人と神様との関係の中で、本人が自ら神様を信じる告白を持って確立します。たとえ親であっても子どもには強制的にイエス様を信じさせることはできません。しかし、キリストのところへと導くことはできます。生まれる前から子どものために祈り、生まれてからもみことばによって育て、神様と親しく歩むことができる手助けをしていきましょう。

・遠く離れないでください:11-18節
ダビデは自分を囲む者を牛と例えました。その牛が口を開くとほえたける獅子のようになったと書かれています。正にイエス様に対する訴えをしたユダヤ人の指導者の姿です。
14節からを見ると、非常な苦痛を持っている様子がわかります。イエス様の十字架での苦しみです。「水のように注ぎ出され」とありますが、イエス様の十字架の時、兵士がイエス様の脇腹をやりでつくと、血と水がほとばしりました。骨々はみな、はずれたとあります。十字架で両手を広げ、釘が打たれるので、重力に耐えられず関節がはずれてしまいます。また、心がろうのように溶けています。この「心」は「マインド、思い」という意味です。父からの断絶で思いはろうのように溶けました。そして、渇いています。イエス様は十字架で「私は渇く」と言われました。
「私を死のちりの上に置かれます」とありますが、イエス様は確かに十字架の後、墓に葬られました。
そして18節です。ヨハネの福音書にこの事がはっきりと書かれています。「さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの兵士に一つずつあたるように四分した。また下着をも取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。そこで彼らは互いに言った。『それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。』それは『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。』という聖書が成就するためであった。」(ヨハネ19:23-24)
聖書は驚くほど正確に預言しています。ヨハネは詩篇を知っていました。そして、目の前でその通りのことが起こったことに驚きを隠せなかったのではないでしょうか。

・会衆の中で賛美する:19-24節
あまりの苦しさに主に急いで助けてくださいと懇願しています。この祈りに主は応えてくださいます。
イエス様は十字架の上で父との断絶を経験されましたが、その後十字架で最後のことばを「父よ、わが霊をあなたにおゆだねします。」と言われました。わが神から父よと、関係が回復していることがわかります。イエス様の従順を主が受け入れてくださいました。祈りが聞かれました。ヘブル5:7にはこう書かれています。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」
そして22節、ここもヘブル人への手紙にこう書かれています。「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。『わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。』」(ヘブル2:11-12)本来なら、私たちが主を賛美するのが当然です。しかし、主が私たちを賛美してくれています。まるで、ヨブの1章で主がサタンに「ヨブを見たか」と言われている時のようです。

・主を尋ね求める人々:25-31節
ダビデが大会衆の中で賛美をしますが、それは神様から出たものであると言っています。そうです。賛美は私たちが自分の力で主をほめたたえると思っているかも知れませんが、それさえも主から出たものです。私たちは自分だけの力では主を賛美することさえもできないのです。
そして、実際にも霊的にも悩む者に対して、食べて満ち足りること、そして主を尋ね求める人々は主を賛美することを告げています。
27節は、先ほどの大会衆はイスラエルの人々だけでなく、異邦人も含まれていることを示しています。日本はイスラエルから見て地の果てです。しかし、この小さな島国にも主の救いが及んでいることを感謝します。
ところが日本ではまだイエス様に本当の意味で出会っている人は多くはありません。だから祈ります。この国が救われますようにと。共にみことばの約束を信じて祈り続けましょう。二人三人が集まって祈る祈りは主に聞かれます。
では日本で誰が救われるのでしょうか。すべての人です。裕福な人も、貧しい人も、主の御前にひれ伏すときが来ます。
そうして、子孫たちにも救いがつたえられます。信仰の継承です。このようにして、主に贖われた家族が日本中、世界中に広がっていくことを宣言して祈り続けます。

【23篇】溢れる杯

・主は私の羊飼い:1-6節
この詩篇は150編の中で最も有名な詩篇と言っても過言ではありません。ぜひ、何度も朗読してこれを心に刻んでいきましょう。
まず、最初にダビデは宣言します。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と。これがこの詩篇23編のすべてを言い表しています。以下、それがどういうことかを具体的に説明しています。
なぜ乏しいことがないかというと、主がダビデを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴ってくださるからです。イエス様はヨハネの福音書10:11で「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」と言われています。良い牧者の声を聞き分ける羊は幸いです。
また、「緑の牧場に伏させ」とは、イエス様が五千人の給食の奇跡を行われたとき、人々を座らせたときにこの同じことばが使われています。
3節、イエス様は復活の主です。主がわたしのたましいを生き返らせてくださいます。ダビデはイエス様よりも前に生まれていましたが、復活の信仰を持っていました。自分に死に、イエス様によってよみがえらされた者は自分のために生きることをせず、主のために生きます。今まで生まれてから死への一直線だった私たちの人生を、イエス様の一方的な恵みによって永遠のいのちへと導いてくださいました。
これが義の道です。義の道はらせん階段のように同じ所を巡りながらも主の元へと近づいていきます。ちょうど、主の例祭が巡ってくるように、同じ季節を巡りますが、その恵みは年ごとに新しいものになります。それが義の道です。
そして4節。これが23編の中心です。「あなたが私とともにおられますから」これほどの幸いはありません。主がともにいてくださるのであれば、何でもできます。恐れることはありません。
もし、皆さんの周りに世界一のボディーガードがいたらどうでしょうか。それ以上の安心を与えてくださるのは主だけです。今も私たちと共に主がいてくださることを感謝します。
これを機に、ダビデの信仰はさらに引き上げられていきます。
5節、主は敵の前で食事を整え、頭に油を注いでくださいます。イエス様は弟子と食事を共にしました。十字架にかかられる前も食事をしました。過越の食事です。そして、復活された後、弟子たちが湖で漁をしているとき、イエス様自ら魚を焼いて食事を整えてくださいました。
そしてダビデは宣言します。「私の杯は溢れています」そうです。主が共にいてくださるので私の杯は溢れています。ヨハネ7:38には「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」もう一度言います。私の杯は溢れています!
その様な者は、いのちの日の限り、いつくしみと恵みとが私を追ってきます。この「追ってくる」ということばは、強盗が殺そうとして襲って追いかけてくるという意味です。それほどの勢いを持って私たちを追いかけてくるのは主のいつくしみと恵みです。これから逃れることはできません。
そして、ダビデの願い、私たちの願いが宣言として、最後に書かれています。「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」そうです。私たちはやがて新しいエルサレムで主と共に永遠に住むことになります。そのために、今日もみことばを祈りに導かれましょう。今日の一日が永遠に続いていきます。

【24篇】万軍の主を迎える

・主の山に登る者:1-6節
有名な23編に続く24編もまたイエス様を啓示しています。ここではイエス様のエルサレム入場、そして新しいエルサレムに入られるイエス様の姿を見ることができます。
まず、1節で宣言をしています。すべては主のものであると宣言されています。主は良い者にも悪い者にも等しく恵みを注いでくださるお方です。ですから、主は全世界の王、すべての人々の神です。
続けて3節からは主の山の事が書かれています。ここにはすべての人が生けるわけではありません。どのような人が行くことができるのでしょうか。4節を見てみましょう。このような人は5節にあるように、主ご自身から祝福を受け、義を受けることができます。
詩篇15篇にも同じ事が書かれていたと思います。

・栄光の王が入ってこられる:6-10節
「これこそ」と書かれています。このような人は主の御顔を慕い求める人々です。ヤコブも多くの失敗をしましたが、それでも最後まで主を求め続けました。夜明けまで神の使いとレスリングをしました。太ももの関節を外されても、なおあきらめませんでした。そのような情熱で主を求めましょう。
7節からはガラッとかわり、力強い宣言になっています。「門よ」と書かれています。私たちにはあまりなじみがないかも知れませんが、エルサレムは山の上にある、城壁に囲まれた町です。そして、この中に入るには門を通らなければなりません。さらに、神殿にも門がありました。そこを守っているのはレビ人たちです。
その門番たちに向かって「頭をあげよ」と言われています。どうしてでしょうか。栄光の王が入ってこられるからです。どのような要人もかなわない最も大切なお方です。
イエス様がロバに乗ってエルサレムに入場されるとき、人々はシュロの葉を手に持って「ホサナ!祝福あれ!」と言いました。しかし、彼らはその後直ぐに同じイエス様に対して「十字架につけろ!」と言いました。彼らはまだ準備ができていませんでした。
栄光の主が門を通って入ってこられるのは主が再臨されたときです。その時には整えられたキリストの花嫁が主をお迎えします。私たちも日々、かしらをあげましょう。
「これらのこと(世の終わりに関して)が起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。購いが近づいたのです。」(ルカ21:28)

【25篇】主を待ち望む

・恥を見ない:1-3節
ダビデはいつも信仰の宣言から詩篇をスタートしています。私たちもまずあきらめる前に、みことばからの信仰の宣言をしてみましょう。
そしてダビデは恥を見ることがないようにと祈っています。主を待ち望む者に対して、恥をかかせることをする人がいます。ノアが山で箱舟を造っていた時、多くの人はそれを見に来てノアと家族をバカにしました。しかし、ノアと家族は主の約束を最後まで信じていました。そして日々実行していました。結果はみなさまご存じの通りです。
また、イエス様が十字架で死なれた後の弟子たちも同じだったのではないかと思います。すべては敗北であるように見えました。しかし主は三日目に死から復活されました。このお方に信頼する者は決して失望させられることはありません。

・教えてください:4-7節
ダビデは道を知らせ、小道を教えてくださいと祈ります。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
車でも自転車でも、走るのが楽なのは広い道です。人生においても多くの人々は広い道を行きたがります。しかし、真理は狭い方にあります。イエス様こそ道であり、真理であり、いのちであるお方です。
6節からはあわれみと恵みを覚えていてくださいと祈っています。私たち人間には記憶があります。これは神様が与えてくださった素晴らしい賜物ですが、記憶は案外曖昧なものです。時が経つとだんだんと記憶が薄れ、違った物が混じり、事実と違うことが本当であったかのように記憶してしまっている事もあります。
しかし、神様はすべてのことを覚えてくださっています。ところが、主はあえて意思を持って忘れてくださることがあります。私たちが心から悔い改めたとき、私たちの過ちを主は忘れてくださいます。
一方主が忘れてくださっているのに、私たちはいつまでもそのことを覚えていたりもします。
主は悔い改める者の若いときの罪やそむきを、イエス様の血潮のゆえに忘れてくださいます。それが恵みです。私たちもこの恵みの中を生きましょう。

・主の小道:8-10節
主は正しいお方です。ですから罪人にはっきりと「これが間違っている」と指摘することができます。律法は神に従おうとしない者たちの養育係です。主は罪人を滅ぼしたいと願っているのではなく、いつでも主の所に戻ってきたいと願い、道を示してくださいます。

・咎をお許し下さい:11節
咎とは、一言で言うなら罪の結果です。私たちはイエス様を信じることで罪は赦されました。しかし、私たちの中には依然として、罪の性質が残っています。ですから毎日みことばに立ち返る必要があります。よく言われるのが、「イエス様を信じたときに悔い改めたから、もう悔い改める必要は無い」ということです。これは本当でしょうか?
そういう人にはこのように質問します。「この前温泉に行って十分に体をきれいにしたから、これから一生お風呂に入らなくてもいいですか?」と。そんなことはないです。毎日お風呂に入らなければ体中から肉の香りが出てきます。
そのように、悔い改め、別のことばで言えば水の洗いは毎日受ける必要があります。だから通読が大切なのです。このみことばをもって、主に咎を赦していただくように祈りましょう。

・主を恐れる人:12-15節
主を恐れる人と言うのが出てきます。この後伝道者の書でも見ますが、知恵者中の知恵者のソロモンが出した結論がこれです。結局主を恐れることがすべてです。主を恐れるというのは、主を心から尊敬し敬うと言うことです。
主を恐れるなら、選ぶべき道を教えてくださいます。イザヤ30:21には「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』ということばを聞く。」とあります。
また、私たちのたましいはしあわせの中に住み、子孫は地を受け継ぎます。また、主を恐れる者に主は親しくしてくださいます。契約を知らせてくださいます。

・苦しみから贖いだしてください:16-22節
ダビデの心は揺れています。この前に力強い宣言をした後、このようにまた弱気の心になっています。私たちも同じような経験をするのではないでしょうか。このように、主に信頼し、また少し不安になりと言うことを繰り返しながら、主の恵みを知り、主の偉大さを学んでいきます。主と共に歩む人生です。
ダビデは「誠実さと正しさが私を保ちますように」と祈ります。みことばによって心の深くまで探られ、その赦しを主に求めています。そして、完全にされることを願っています。
天の父が完全なように、私たちも完全になることができます。
そして、最後に、イスラエルのとりなしをしています。イスラエルの、そして日本を、そのすべての苦しみから贖いだしてくださいと祈りましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 私の羊飼い、主に感謝します。
    イスラエル、日本を全ての苦しみから贖いだしてくださるように祈ります。

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