聖書通読クラブ Day 139

聖書通読クラブ Day 139【ネヘミヤ記 7章~9章】

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シャローム!

神様の好意と、ネヘミヤの素晴らしい指導力、そして民の強力によって城壁は52日という短期間で建て直されました。
その後、ネヘミヤはどのようにしたのでしょうか。以前も学びましたが、始めることよりも続けていくことの方が大変です。
ネヘミヤは城壁の完成後、どのようにしたのでしょうか。

今日もみことばを朗読し、教えられていきましょう。

今日の通読箇所:ネヘミヤ記 7章~9章

■アウトライン

みことばで祈る

●帰還民の人数:7章
  ・働き人の任命:1-4節
  ・系図からの発見:5節
  ・イスラエルの帰還人数:6-38節
  ・祭司、歌うたい、門衛の帰還人数:39-45節
  ・しもべたち:46-60節
  ・血統を証明できない人:61-65節
  ・全集団の合計:66-68節
  ・かしらたちのささげ物:69-71節
  ・定住:72節

●律法と祭りの回復:8章
  ・律法の朗読:1-8節
  ・神聖な日:9-12節
  ・仮庵の祭り:13-18節

●歴史を通しての悔い改め:9章
  ・朗読と告白:1-5節
  ・創造からアブラハム:6-8節
  ・出エジプト:9-15節
  ・約束の地:16-25節
  ・律法に立ち返らせる:26-31節
  ・自らの罪を認める:32-37節
  ・堅い盟約:38節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【7章】帰還民の人数

・働き人の任命:1-4節
城壁の修復後、最初にされたことは何でしょうか。なんと門衛と歌うたいが任命されました。実際的な守りである門衛と霊的な守りである歌うたい、賛美を捧げる者が門に配備されます。
通常、敵は門から侵入してきます。逆に言うと、門を突破されるとおしまいです。ですからこのような配備がなされます。
その上で、兄弟のハナニとエルサレムの町のつかさハナヌヤにエルサレムを治めるよう命じました。
次いで、門の開閉に関して指示します。敵に侵入されないように警備を強化しています。
何度もお伝えしていますが、神殿は私たち自身です。そして、私たちは自分の心を見張る必要があります。もちろん神様は私たちの心を守ってくださいますが、普段から力の限り見張って見守るのは自分の心です。自分で自分の心を守る必要があります。少し冷たい言い方かもしれませんが、他人はあなたの心を見守ってくれません。その人も自分の心を見守るのに精一杯だからです。
だから、神様にどのようにして自分の心を見張れば良いかを教えていただきましょう。今生かされていると言うことは、必ずその事ができます。

・系図からの発見:5節
神様はネヘミヤの心を動かされました。それで何をしたかというと、帰還民の系図の記録です。その際、最初に上って来た人々の系図を発見したとあります。
私たちはエズラの2章で同じような系図を見たと思います。「最初に上ってきた人の系図」とはその事を指しています。調べるとその時からここまで90年の時が経っているそうです。
そして、エズラの系図と比較すると、少し違った人の名前が書かれていたり、人数が違っています。おそらく、それは途中で名前や出生が判明した人たちが加えられたり除外されたりした結果なのでしょう。その修正の結果です。

・イスラエルの帰還人数:6-38節
まず系図の最初はゼルバベルと十一人の指導者が書かれています。イスラエルの十二部族の代表です。
8節以降には氏族と家族の人数、26節以降には町々にいる人の人数が書かれています。

・祭司、歌うたい、門衛の帰還人数:39-45節
39節以降は祭司の氏族の人数、43節はレビ人、44節には歌うたい、45節に門衛の氏族の名が書かれています。

・しもべたち:46-60節
この系図の特徴は「宮に仕えるしもべたち」が記載されていることです。おそらくは戦いで捕虜としたギブオン人だと思います。ヨシュアの時代にギブオン人は水を汲み、たきぎを割る者たちとされました。
57節以降はソロモンのしもべたちです。ソロモンの時代に神殿建設のために来たツロの職人がそのまま住み着き、その末裔であったり、貿易によって海外から来た人たちの末裔です。

・血統を証明できない人:61-65節
ここはアロンの家系が証明できない人たちです。なぜアロンの家系だけこのように厳しいのでしょうか。それは祭司、そして大祭司はアロンの系図の人しかなれないからです。ここは厳密に調査しておかなければなりません。民全体の祝福と災いがかかっています。

・全集団の合計:66-68節
ここからは全集団の合計が書かれています。これらを読むのも大変でしょうが、調べて記録するのはどれほど大変なことでしょうか。しかし、神が心を動かし、ネヘミヤが記録したからこそ、この記録を今でも見ることができます。
記憶はあっさりと消えてしまいますが、記録は残ります。主の良くしてくださったこと、その日に受け取った主からの恵みなどをしっかりとノートに記録しておきましょう。

・かしらたちのささげ物:69-71節
ここからは工事や神殿での奉仕の時に使うためのものをささげた人たちの名前が書かれています。

・定住:72節
エズラの時も書かれていましたが、ここでもおなじように城壁の再建工事が完成し、人々は町に帰りますが第七の月になると再び集まっています。第七の月に何が行われるのでしょうか。

【8章】律法と祭りの回復

・律法の朗読:1-8節
エズラ記の喜びの絶頂は城壁が完成したときに思えますが、この8章が喜びの絶頂であり、非常に重要な箇所であるのではないかと思います。
城壁の完成の後、人々はいったん家に帰りますが再び集まります。どこに集まったでしょうか。水の門です。下の図表で場所を確認してみましょう。
「民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まった」とありますが、ここの本来の意味は「民は、水の門の前の広場に集まり、一人のひとのようになった」と言う意味です。どうしてそのようになったのでしょうか。この後で見ていきましょう。
多くの人がまるで一人のようになる光景を私たちは今までの通読で見たと思います。どこか思い出せますでしょうか。ソロモン神殿の完成の後です。「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。」(2歴代5:13a)
世の中は一致を求めます。しかし、イエス・キリスト抜きで本当の一致はできないのです。人間同士でひとつになろうとしても、最初は良いでしょうが長続きしません。人と人がつながるならもろいつながりですが、神様を中心として、それぞれが神様にしっかりつながるなら本当の一致があるのです。三つ撚りの糸は簡単に切れません。
話を本文に戻しましょう。ここで学者エズラが登場しています。人々は律法の書をエズラに願ったのです。
そこでエズラは男女関係なく、聞いて理解できる人たちの前で律法の書を朗読します。それはなんと夜明けから真昼までと言う長い時間です。約6時間くらいです。その間、民は律法の書に耳を傾けました。
この日は特別な日でした。第七の月の一日目は、秋の祭りの始まりを告げるラッパの祭りです。この後10日後に大贖罪日があり、さらに4日後に仮庵の祭りがあります。
ラッパは大きな音がします。ですから目覚めを意味します。そのような日に律法が読まれました。しかも、通常は男性が主に聞くのですが、ここでは聞いて理解できる男女とあるので、もしかしたら小学生くらいの子どももいたかもしれません。大切なのはこの時、みことばを聞くときに聖別や年齢は関係なかったと言うことです。これは画期的なことです。
ここに集まった民は何を求めたのでしょうか。それはエズラの声を超えた神の声です。みことばを純粋に求めた人たちが集まるとき、それはまるでひとりの人のように一致します。
具体的にどのように朗読されたのかを4節から見ることができます。学者エズラはこのためにつくられた木の台に立ちます。左右にレビ人がいます。律法の書は大きな巻物なので、左右で巻物の棒を支え、紙(羊皮紙)を送り巻き取る係がいなければ読めなかったのです。
ここからが非常に重要です。みことばを聞いた民はどのように反応したのでしょうか。5-6節を見てみてください。実はこれがみことばを読むとき、私たちが模範としたい姿勢を見ることができます。
(1)立ち上がる
まず、民は立ち上がっています。なぜだかわかりますか?みことばが読まれるからです。みことばは神のことばです。会社でも社長が話すのに椅子に座ったままで話を聞くでしょうか?立場が上の人が話すときにはその人に経緯をはらって立ち上がって話を聞きます。この世の中の何よりも高い権威はみことばです。そのことばが語られるのであれば、私たちは最大の敬意をはらい、立ってみことばを読んでみましょう。
(2)同意する
続けて見ると、みことばが語られると民は手を上げながら「アーメン、アーメン。」と言っています。アーメンとは「真実、忠実」「その通りになることを同意します」と言う意味があります。それが二回繰り返されています。パロの夢を解き明かしたヨセフの所でも学んだように、二度というのは速やかに、そして確実に起こることです。
「語られたみことばに完全に同意し、自分もその通りにすみやかになります」という、強い民の意思を見ることができます。
また、手を上げることは自分が降参したこと、つまり自分を低くし、主を高く上げるという行動です。
私たちもみことばを一章、また1段落読み終える度に「アーメン、アーメン。」と言いましょう。
(3)ひれ伏す
続いて民はひざまずき、地にひれ伏しています。そしてこれが礼拝であると書かれています。
もしかしたら中にはひれ伏すと聞くと、他の宗教を想像し、違和感を覚えるかもしれませんが、現代見られる宗教が誕生するはるか前に、主を信じる者がひれ伏して礼拝していました。ひれ伏す礼拝は私たちのものです。礼拝の本質です。
どうしてひれ伏す必要があるのでしょうか?ひとつは私たちがちりからつくられたからです。ですから私たちが地面に寝そべるなら、「私は本来はちりに等しい存在です」ということを体を持って表現していることになります。
もちろん、主に対してへりくだる姿勢でもあります。
そして、もうひとつ。肉体は時に礼拝をさまたげようとしてしまいます。ですから、このようにひれ伏すことで強制的に肉体を主に従わせるのです。そうするなら、私たちの肉の性質が私たちの内にとどまれなくなり、私たちから離れ去ります。
私たちはぜひ、この事を実践してみましょう。みことばを朗読し、手を上げ「アーメン、アーメン。」と言い、ひれ伏すのです。これをするなら、ひとりでも、何時間でも礼拝をすることができます。
ひれ伏す祈りをする中で、様々な神のことばが聞こえてくるでしょう。ぜひ、この体験をしてください。そして、その恵みを聞かせてください。
7節からを見ると、レビ人は律法を解き明かしています。みことばが何を言っているかを解き明かす教師たちです。「はっきり読んで説明した」とありますが、本来の意味は「神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」と言う意味です。
そうするなら、民はみことばを理解できます。知恵と啓示なる御霊が助けてくださいます。

・神聖な日:9-12節
この日は特別な日でした。ラッパの祭りです。喜びの日です。しかし民は泣いていました。まるで大贖罪日のようです。どうして民は泣いていたのでしょうか。民は律法を聞いたときに泣きました。悲しみました。自分と律法の示す基準にあまりにも乖離があったからです。
私たちもこの悲しみが必要です。イエス様を信じ、罪から贖われ、救いの確信があるからこそ悲しめるのです。
ネヘミヤ、そしてレビ人も民をはげまします。今日は喜びの日だと伝えます。罪を悟らされた事は喜びです。なぜなら、罪を悟ることができなければ悔い改めることもできないからです。
民は食べたり飲んだりごちそうを贈って大いに喜びました。出エジプトの時、アロンがつくった金の子牛の前での出来事とは正反対です。

・仮庵の祭り:13-18節
次の日、民の一族のかしらたち、祭司、レビ人たちは律法のことばをよく調べるためにエズラの所に集まります。
律法を知り、もっと知りたいと聖なる飢え乾きが起こっています。そこで彼らはよく調べていると、まもなく仮庵の祭りであると言うことを発見します。
彼らはすぐさま仮庵をつくるおふれを出します。そして、喜びの中、仮庵の祭りが行われます。それはなんと、ヌンの子ヨシュアからこの時まで行われていなかったというのです。
それで、民は非常に喜びました。これは正に仮庵の祭りです。秋の祭りは収穫を喜ぶ祭りでもありますが、それ以上に、天でイエス様と花嫁なる教会がひとつとなることを啓示している祭りです。結婚式で悲しい顔をしている人はいないでしょう。そこには大きな喜びがあります。この地上で味わったことのないほどの喜びの前味が仮庵の祭りです。
そして最初の日から最後の日まで行われたのはみことばの朗読でした。私たちも毎日行っていることです。

【9章】歴史を通しての悔い改め

・朗読と告白:1-5節
仮庵の祭りが終わって二日後、大きな喜びを味わった後、彼らが導かれたのは深い悔い改めです。民は荒布を着け、土をかぶって集まっています。そして少し不思議な事をしています。自分たちの罪と、先祖の咎を告白しています。先祖の咎と聞くと、仏教的なものを感じる人もおられるかもしれませんが、れっきとした聖書的な事です。
出エジプト20:5には「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」とあります。
これは因果応報的な考えではありません。親の罪がそのまま自分に降りてくると言う考えではないのです。
みことばにも「父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。」(申命記24:16)とあります。
お伝えするのが難しいのですが、先祖の咎は「怒りっぽい母親に育てられたから、その環境によって私も怒りの影響を受ける」というのに近いものがあります。咎とは罪の結果のようなものです。
中には「先祖の咎は断ち切らなくて言い」と言う人もいますが、私はそうは思いません。みことばにはっきりと「先祖の咎は三代、四代まで」と書かれています。四代まで遡ると、父方15人、母方15人、あわせて30人分の咎があります。親もまたその親の影響を受けているからです。この霊的な負の連鎖をみことばによって断ち切る必要があります。
先祖の事は敬い、神にその存在を感謝します。しかし、その中に潜む罪の性質、咎は断ち切られなければなりません。
実際、アメリカのトップ大学で研究するクリスチャンの研究者がマウスにストレスを与え、何代下まで続くかを研究した結果、何度調べても五代目以降はストレス物質が出てこなかったそうです。
本当に深い悔い改めに導かれた方は、ぜひ先祖の咎を断ち切る祈りをもされてみてください。

・創造からアブラハム:6-8節
それでは、ネヘミヤの時代の人々はどのように悔い改めたのでしょうか。それは創世記から今の時代までを振り返り、自分の先祖の過ちを告白しています。
この告白が大切です。なぜなら、イエス様を信じる者は「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)とあるからです。例えば自分の好きな人がいたとします。その人に自分の気持ちを伝えようと思って何も言わず、目で合図を送っているだけなら気持ち悪く思われてしまうだけでしょう。心は口に出さなければ伝わりません。
心に満ちていることが口から出てきますから、みことばを読み、心に溢れることがあればそれを神様に小さな声でもいいので告白してみてください。
それが難しいという方は、この箇所を朗読してみましょう。

・出エジプト:9-15節
・約束の地:16-25節
・律法に立ち返らせる:26-31節

・自らの罪を認める:32-37節
長い歴史を告白し、ようやく彼らの時代に至ります。今の状況に対して主に憐れみを乞います。その上で、自分たちの過ちをしっかりと認めています。律法の基準が回復されたからこそ、自分たちの行っていたことが悪かったとはっきり言えるのです。また、それを悟り、告白できるのは、みことばを悟らせてくださる聖霊様の力です。
その上で、神様の恵みに応えることができなかったことも告白しています。神に立ち返ることができなかった事も告白します。
そして、再度、自分たちの置かれている苦しみを主に告白しています。

・堅い盟約:38節
彼らは歴史を振り返り、主がどれだけ良くしてくださったか、どれほど憐れみ深いお方か、恵み深いお方かを知り、それに応える形で盟約を結びました。「みことばを読み、そのとおりに行います」という盟約です。みことばの民となることの約束です。
みなさんの中で、悔い改めの祈りをしたいと思ってもなかなかできない人はいないでしょうか。私はそのような相談をしばしばされます。その時にお勧めするのがこのネヘミヤ9章で語られていることです。まず初めに、主がどれほど素晴らしいお方か、どれほど憐れみ深く恵みに豊かな方であられるか。主の素晴らしさをありったけ告白するのです。みことばの中から、特に詩篇から主の素晴らしさを告白し続けます。そうするなら、自然と深い悔い改めの祈りに導かれるのです。私たちもみことばの民となりましょう。いつでもみことばに立ち返りましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

ネヘミヤ記の城壁と門の修復の図

1件のコメント

  1. 毎回、大切なことを学ぶので、ノートやパソコンに記しているのですが、
    膨大な量になって、大切なことをどこに書いたかが分からなくなっています。
    このことが残念で、すぐに探し出せるようにキーワードで整理する工夫をしなければと思わされています。

    昨日も、最後の罠は、いかにも狡猾で、アダムとエバと蛇のやり取りを思い出しました。
    でもネヘミヤは、「ユダのレビ族で祭司以外が神殿に入ることを禁じている」というみ言葉を正確に覚えていて、み言葉に矛盾していることを言っている偽預言者の正体を見破りました。

    み言葉を正確に理解し覚えることは大切だと再確認しました。

    今日も、
    警戒、系図、礼拝の三つが大切だと教えられました。
    生まれながらの人間には、この三つを行うことは不可能で、
    新しく生まれなければならず、
    イスラエルの子として誕生を証明できた者、
    キリストを信じる信仰によって、霊的に生まれ、神の子となった者のみ、
    聖なる武装をして自分を吟味しながら、働き、礼拝することが出来るのだなと。

    私は足腰が悪くて膝まづいて祈ることが出来ないのですが、
    膝まづく姿勢に近い姿勢で、
    自分の正しさを主に訴えながら「なぜですか、主よあなたが遠く感じられます。私にはあなたの高い基準に歩むことは無理かもしれません。十字架の血潮をもってしても、やはり私は、地獄に行くべき人間なのでしょうね。」と重い気持ちで祈っていました。

    心底、悔い改めることが出来ず、自分の正しさを主に主張していました。

    主は、私が怒りを持ち続け、天のみ国に入れないようにならないようにとの切なる思いで、
    しかも愛をもって私が壊れないような声で語ってくださいました。

    「私はあなたのそばにいる。善悪の木の実を取って食べてはならない、食べたら必ず死ぬ」と
    主の手が私の肩をつかんでいるような感覚がありました。
    その時、主の愛を感じることができて、
    やっと涙ながらに悔い改めることが出来ました。
    善い、悪いの判断ではなく、私が間違っているわけでもなく、相手も間違っているわけではない、物事の受け止め方、考え方が違うだけ、相手も愛の思いを持っての行動なのだと。
    それなら、どうしたらいいのかを工夫してみようという思いを与えられました。

    私に与えられる主の臨在は私の分に相応して、いつも、やわらかい臨在です。
    もっと、用いられる方たちには、とても重いものかもしれません。

    でも主に感謝します。今まで、この主の臨在にどれだけ励まされて来たことか。
    これがなかったら、今まで、クリスチャンを続けてこれなかったと思います。

    主は時々危険な時に、そばにいることをお示しになります。

    そんな時、自分の貧しさを自覚しますが、
    今、この貧しさを自覚して、悔い改めさせていただけることを、とても尊く貴重であることを思います。
    死んでしまってからでは、携挙の後では、再臨の後では、時すでに遅しですから。
    永遠の方向性がそこで決まってしまいますから。

    信仰生活が長くなるにつれて、主に真実に立ち返ることが難しくなってきている
    そんな貧しいものだということを今、教えていただけたことを感謝します。

    携挙の時は油断している時だとみ言葉にあります。
    イスラエルの子として誕生を証明できた者、
    キリストを信じる信仰によって、霊的に生まれ、神の子となった者に、
    聖なる武装をして自分を吟味しながら、働き、礼拝することが出来る者に
    いついかなる時も、この身分にとどまっていられるように、
    これからも聖書朗読を続けていきたいと思います。

    短く書こうと思うのに、ついつい長くなってしまって申し訳ありません。
    短く書くことは、私には本当に苦手なようです。
    安心して踏み込んで本音を書ける場を感謝します。

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