聖書通読クラブ Day 126

聖書通読クラブ Day 126【歴代誌 第二 13章~15章】

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シャローム!

礼拝は私たちの中心です。信じる者は息をすることと同じほど、いや、それ以上に礼拝が大切です。
だから、悪魔はそれをあらゆる手段を用いて奪おうとします。時には正面から戦いを挑んできます。時には私たちに同調し、私たちを持ち上げ、私たちを有名にし、私たちをだめにしようとしてきます。
悪魔に対抗する一番の方法は礼拝です。今日も礼拝を選び取っていきましょう。そのために、今日もみことばを朗読し、教えられていきましょう。

今日の通読箇所:歴代誌 第二 13章~15章

■アウトライン

勝利の主

●主への叫び:13章
  ・ユダの王アビヤ:1-2節
  ・若くておくびょう:3-7節
  ・勝ち目のない戦い:8-12節
  ・伏兵:13-22節

●大群への挑戦:14章
  ・しばらくの安息:1-8節
  ・アサの叫び:9-15節

●警告への反応:15章
  ・力を落としてはなりません:1-7節
  ・心を尽くした誓い:8-15節
  ・アサの生涯:16-19節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【13章】主への叫び

・ユダの王アビヤ:1-2節
アビヤに関しては列王記でも見ました。そこには「主の目の前に悪を行った」と書かれていますが、歴代誌は少し違う視点で見ています。

・若くておくびょう:3-7節
3節にはアビヤとヤロブアムの軍勢が出ています。アビヤはヤロブアムの半分の軍勢です。
アビヤはヤロブアムに向かって言います。その内容は何でしょうか。神様の約束です。それはすなわち塩の契約だと言っています。どのような状況であっても神の約束に硬く立つアビヤの姿があります。
そのような約束を受けていた正当な血統のソロモンの子レハブアムはどうかというと、若くておくびょうとあります。
おくびょうな事は小さな事のように思えますが、黙示録21:8には人硫黄の池に入れられる第二の死の事が書かれていますが、その一番最初に「おくびょう者」と書かれています。
なぜおくびょう者が第二の死に入れられるのでしょうか。それは主を信頼しないで自分を信じているからです。おくびょうは神からのものではありません。2テモテ1:7には何が書かれているのでしょうか。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」とあります。
自分はおくびょうだと思っている方はぜひ、主に祈ってみましょう。

・勝ち目のない戦い:8-12節
ヤロブアムはヤハウェなる神ではなく、金の子牛を神としていました。そしてアビヤはヤロブアムが祭司とレビ人に行ったことをはっきりと告げます。また、羊や牛で祭司職を購入する腐敗した状態も語っています。
私たちも主の働きを何かで得ようとしていないでしょうか。主の働きは主が与えてくださるものです。主が与えてくださったことを熱心に追求することは素晴らしいことです。しかし、主が与えてくださっていないのに熱心になるならそれは的外れな努力となるかもしれません。10節からはアビヤの正しさが書かれています。そして、はっきりと宣言しています。「主が私たちの神である」と。どうしてこのように宣言できたのでしょうか。祭司やレビ人によって礼拝が続けられていたからです。生きた神様との関係がありました。
主に聞き従っているからこそ、戦士が戦闘を行くのではなく、祭司がまず合図のラッパを吹くことができます。
主との生きた関係があるので、金の子牛を礼拝するイスラエルに向かって「主と戦ってはならない。勝ち目がないからだ」と言うことができます。

・伏兵:13-22節
私たちは日々大小の戦いに直面します。もし私たちが毎日の礼拝を通して主との生きた関係があるなら、その戦いを主にお委ねし、戦いの方法を聞くことができます。
イスラエルのヤロブアムは伏兵を背後に回らせます。ユダが振り向くと前後で挟み撃ちになっています。人間的に考えたら万事休すです。しかし、ユダの人々は主に叫びました。ラッパを吹き鳴らしました。ときの声をあげました。そうするとどうなったでしょうか。ヤロブアムと全イスラエルはユダのアビヤの前に打ち破られました。
今まで何度もこの法則を見てきたでしょうが、これだけ繰り返されていると言うことはとても重要ですが、私たちが忘れてしまいそうになることが多いからです。
いつでも主により頼む生き方が勝利の生き方です。

【14章】大群への挑戦

・しばらくの安息:1-8節
アビヤは葬られ、アサが新しく王位に就きます。この10年は平安の10年でした。それはどうしてでしょうか。
理由は2節にあります。主の目に良いと見られることを行っていたからです。具体的にアサはどのようなことをしたでしょうか。みことばを確認してみましょう。
アサはこの間に防備の町を築きます。しかし、その防備の町に頼ることはしませんでした。主を第一にしつつ、自分のできる備えをしました。第一のものを第一とした上で自分のできることを行う事は主の目にも正しいことです。「主がおられるから」と言って何もしないのは良くありません。

・アサの叫び:9-15節
時がたち、クシュ人が攻めてきます。クシュ人はエチオピヤ人のことです。アサは備えておいた軍隊を出陣させます。そしてアサ王は何をしたでしょうか。11節を見てみましょう。大胆な祈りを捧げています。私たちも主に助けを求めて祈りましょう。主は祈りを聞いてくださり、助けてくださる方です。
この結果はどうなったでしょうか。主はアサに勝利を与えてくださいました。
この箇所だけを見ても、勝利は主が与えてくださるものであることがわかります。私たちに勝利はありません。主が勝利です。

【15章】警告への反応

・力を落としてはなりません:1-7節
アサ王は今まで見てきたように、主の目に良いことを行いました。しかし、やはり人間です。アサ王に危機が訪れます。これはアサ王だけでなく、すべての人に共通するタイミングでやってきます。
それは勝利の後の誘惑です。これほどまでに主に献身した生き方をしたアサがなぜ誘惑に会わなければならないのでしょうか。主はアサの心の奥にある罪の性質をご存じで、それをテストされていました。「大丈夫」と思ったときが一番大丈夫ではないのです。
神の霊がオデデの子アザルヤの上に臨みます。そしてアサにメッセージを伝えます。その内容はどういうものでしょうか。これは始めて聞く内容でしょうか。
おそらくアザルヤは士師の時代を思い起こしていたのでしょうか。3節はそのような事を思い起こさせます。その時にはめいめい、自分の目に正しいと思う事を行っていました。そこから学んで欲しい、同じ繰り返しをしてはならないと警告します。

・心を尽くした誓い:8-15節
アサはこのことばを聞いて奮い立ちました。主のことばに従いました。アサ王がここで行ったことは何か、みことばを見てみましょう。
そのようなアサ王の所に、北イスラエルからも主を求める者が集まって来ました。主を慕い求める者、肉の戦いではなく、霊の戦いができる者がひとつとなります。
10節からを見てみましょう。大リバイバルが起こっています。何よりも感動するのが熱烈に主を慕い求める飢え乾きの心があることです。いのちをかけて主を求めています。そして、それは喜びとなりました。主もご自身を現してくださいました。

・アサの生涯:16-19節
アサは様々な場所で異教の神の最大を壊し、主の礼拝を回復させました。しかし、最も難関な場所がありました。家庭です。なんと母がアシェラのために憎むべき偶像を作っていました。
アサはどうしたでしょうか。母を王母の位から退けます。偶像も処理し、神の宮に父が聖別した器具を運び入れます。
第一のものを第一とするとき、主は安息と平安と祝福を与えてくださいます。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. 主が勝利を与えてくださることを感謝します。おくびょうの罪が自分の中にもあると思いました。

  2. >アサはこの間に防備の町を築きます。しかし、その防備の町に頼ることはしませんでした。主を第一にしつつ、自分のできる備えをしました。第一のものを第一とした上で自分のできることを行う事は主の目にも正しいことです。「主がおられるから」と言って何もしないのは良くありません。

    主を霊と真をもって礼拝し、偶像を取り除いて、主の目にかなうことを行いながら、防備の町を築いていくことは正しいことであることを感謝します。
    この考えが一番平安があります。
    そして防備の町に頼らず、主を第一にしつつ自分のできる備えをする。

    私にとって、この防備の町というのが、医療を受けることです。
    ①祈りつつ、
    ②医療の力も受けて、主に頼りつつ、自分にできる最善を行う、医師の指示通り正確に服薬して、リハビリを行う。生活面で改善した方がいいところは積極的に改善する。
    ③築いた防備にまた区頼ることをせず、主により頼み祈る。
    主が示されたなら、医療以外の事柄、祈りつつ防災の為にも備えが必要だと思いました。

    防備と信仰。
    これのバランスを欠くと、時々、恐怖になります。
    信仰があれば病気が癒される、信仰がないから病気になるという考え方を自分に、そして、人に押し付けることは信仰的虐待になりかねないと日々思っていました。

    初代教会の使徒たちのように、また主イエスのように、
    その信仰が至聖所まで達している方なら、即座に癒しが可能ですが、
    途上にある私達にとっては、謙虚に、主が与えられた環境を受け入れ、日々主にあって、歩んでいきたいと思います。

    そして、一番大切なことは、私達も至聖所の信仰を持つよう、主イエスと一つになれるよう、日々、十字架を仰いて生きていくことだと思います。

    主イエスと一つとなり、完成された暁には、嬉しく想像するのですが、
    主イエスのように、信仰によって、自分のそして人々の様々な問題を次々と解決していくことが出来るのだと私は信じます。

    イエス様の時代、そして初代教会の時代のように、そこにいる病気の人全員が癒されることを経験すると思います。

    今日の個所を通して教えられ確信しました。

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