聖書通読クラブ Day 125

聖書通読クラブ Day 125【歴代誌 第二 10章~12章】

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シャローム!

ダビデ、そしてソロモンによって神殿は完成し、礼拝のシステムも完成しました。永遠にこの喜びが続くと思っていましたが、残念ながらそれは長くは続きませんでした。
ソロモンがこの世を去った後、まもなく礼拝国家とも言えるこの国は分裂してしまいます。
その原因は何でしょうか。どうしてこうなってしまったのでしょうか

今日もみことばを朗読し、教えられていきましょう。

今日の通読箇所:歴代誌 第二 10章~12章

■アウトライン

レハブアム

●レハブアムのやり方:10章
  ・ヤロブアムの提案:1-5節
  ・相談するレハブアム:6-11節
  ・長老の意見を退ける:12-15節
  ・天幕に帰る:16-19節

●レハブアムの歩み:11章
  ・進軍を止められる主:1-4節
  ・防備の町:5-12節
  ・父たちの道に歩む:13-17節
  ・レハブアムの家族:18-23節

●レハブアムの業績:12章
  ・主の律法を捨てる:1節
  ・へりくだる:2-8節
  ・滅ぼし尽くさない主:9-12節
  ・レハブアムの業績:13-16節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【10章】レハブアムのやり方

・ヤロブアムの提案:1-5節
ソロモン亡きこの時代、レハブアムはシェケムにいました。
時を同じくしてソロモンに仕えていたヤロブアムはソロモンに反抗し、エジプトに逃げていました。しかし、ソロモンがこの世を去ったと聞いて戻ってきます。そして、レハブアムに提案します。その内容はどのようなものでしょうか?
簡単に言うと、重税を軽くしてくださいと言うことです。私たちも様々な税金を支払うでしょう。本当に沢山の税金を徴収されるのだなと感じますが、その税によって道路や福祉やあらゆることが成り立っているので感謝です。しかし、やはり税は軽いに越したことはないでしょう。
この時代のことを考えると、ソロモンは非常に豪華な神殿を作りました。その費用はイスラエルの民の税として課税されていました。その税を軽くすることの提案です。

・相談するレハブアム:6-11節
レハブアムは長老と若者に相談します。このように相談できる相手がいると言うことは素晴らしいことですね。
長老からの回答はどのようなものだったでしょうか。「重税を軽くするのではなく、民に寄り添って彼らに親切なことばをかけ、好意を示してねぎらいなさい」と言うことでした。
少し納得のいかないレハブアムは今度は一緒に育った若者に相談します。彼らは何とアドバイスしたでしょうか。「もっと重い税金を課してやる!従わないなら鞭で打つ」と言っています。
まとめるなら、長老は優しく民に接し、若者は厳しく民に接するという意見です。みなさんならどちらのアドバイスを採用しますか?
長老たちは油注がれたソロモンに仕えており、その知恵を身近で見ていました。ですからこのようなアドバイスができました。しかし、若者は勢いで押し切り、神に頼らず人間の力で突破しようとしています。

・長老の意見を退ける:12-15節
レハブアムは若者の意見を採用します。知恵に欠けた残念な結果です。ソロモンは晩年、多くの妻たちによってヤハウェなる神が見えなくなり、信仰を失ってしまいます。そして他の神々に仕えました。その結果の刈り取りを子どもたちがすることになっています。

・天幕に帰る:16-19節
この事がきっかけで、王と民の間にみぞができます。民はさらなる重税を課せられる事を知り怒ります。
なんとかしようと役務長官ハドラムを遣わしますが、民は彼を石で殺してしまいます。本気で怒っている民を恐れ、レハブアムはエルサレムに逃げてしまいます。
たった1世代であの栄華を極めたソロモン王朝は音を立てて崩れていってしまいます。その理由は明確です。19節にあるようにダビデの家にそむいたからです。つまり、みことばに従わない事が原因です。
「自分は絶対信仰を失わない!」と思っていても、あっという間に失ってしまう可能性もあります。イエス様の弟子、ペテロも「死ぬまでイエス様に従う!」と言った直後にイエス様を裏切って逃げたりしています。
「自分こそ大丈夫」という状態が一番危険な状態かもしれません。いつでも神様により頼む歩みをしていきたいものです。

【11章】レハブアムの歩み

・進軍を止められる主:1-4節
レハブアムは暴徒化するイスラエルをなんとかして止めようと必死です。それで選抜党員18万人を集め、戦う準備を進めます。
そこにシェマヤが来ました。そして神のことばを伝えます。その内容はどのような物でしょうか?
それは「主ご自身がこのようになるように仕向けられたということ。だから戦ってはならない。」という内容です。
そこで何とレハブアムは主のことばに聞き従いました。素晴らしいです。
しかし、疑問が一つ残ります。どうして主は分裂を促されたのでしょうか。主の願いは統一ではないのでしょうか。
その理由は様々な物があると思います。神様の御心からそれてきて締まったからでしょうか。神を忘れ、自分の力で事を進めようとしていたからでしょうか。もし自分の身の回りに分裂があるなら、このところで立ち止まって主に祈ってみましょう。その原因を作っているのはあの人ではなく、自分かもしれません。
主はあえてその様な事を許されると言うことがこのみことばからもわかります。ですから、目の前の現状を見て嘆くだけに留まらず、その本当の原因を求めて祈り、まず自分が主によって変えられることを願い求めていきましょう。

・防備の町:5-12節
レハブアムは今度は防御を固めます。地理的に主要な箇所を押さえていきます。敵が侵入できないよう守りを固めることは大切な事です。

・父たちの道に歩む:13-17節
北イスラエルにいた祭司とレビ人がエルサレムに逃げてきます。イスラエルの民もユダに移ります。
なぜなら、ヤロブアムが金の子牛をベテルとダンに置き、それをあがめさせます。また、レビ人でない人を勝手に祭司にしたりしていました。そのような事に嫌気がさした人たち、真に主をもとめる者が集まってきました。
北イスラエルの人であっても神を恐れる人々がリスクを冒してでもエルサレムに来ていけにえを捧げました。素晴らしい信仰です。
どのような状況の中にあっても、リスクを取ってでも神の国とその義とを第一に求めることを強調しています。
みなさんはこの覚悟がありますか?突然身の回りで迫害が起こり始めても、その中でもなお主を求めて礼拝を続ける覚悟があるでしょうか。この聖書通読クラブを通して通読をされておられる方は、そのような者であることを感謝します。

・レハブアムの家族:18-23節
レハブアムはダビデやソロモンに倣い、多くの妻とそばめを持ちました。これは子孫を沢山残し、国を強固にするためには必要な事であったかもしれません。
しかし、人が多いとそれだけ問題も増えてくるものです。

【12章】レハブアムの業績

・主の律法を捨てる:1節
レハブアムは着実に王位を確立していきます。その時に二つの選択肢があります。それでもなお、主に死体が居続けるか、それとも自分の力に酔いしれて主を忘れてしまうかです。
残念ながらレハブアムは後者の方でした。国が強くなるのに反比例するように主を忘れていきました。そしてついに主の律法を捨て去ったのです。背教です。そむきの罪です。
私たちはどのような迫害があっても、このことだけはしたくありません。いや、むしろ迫害があった方が主への飢え乾きが増すでしょう。逆にレハブアムのように裕福になり、力も得られ、神様を必要としないという状況になるほうが恐ろしいです。

・へりくだる:2-8節
そして今まで平和だったイスラエルについにエジプトが攻めてきます。その原因は何でしょうか?どうして敵が攻めて来るのでしょうか。5節のかっこ内を見てみましょう。
敵が攻めてきた時、預言者シェマヤが語ったことばです。そのことばに対してレハブアムとつかさたちはどのように反応したでしょうか。6節を見てみましょう。
自分が間違っていると認めることは人にはなかなか難しいことです。子ども同士のけんかでも「ごめんね」「いいよ」がなかなか言えないのです。
ここで王たちが主は正しいと認めると言うことは、自分は間違っていると言うことも同時に認めることになります。これができるリーダーは真のリーダーです。
言うなれば、まな板の上の鯉のように、主にさばきを委ねることをしています。私たちもこのような姿勢に倣いたいと思います。
そのような決断をした王に、主はどのように言われるでしょうか。7節からを見てみましょう。
なんと神様はさばきを思い直されたのです。もし、ここで王たちが6節のことばを言えなかったとしたら、どうなると思いますか。おそらくエジプトは直ちに攻め入ってきて滅ぼされたでしょう。
レハブアムはヤハウェなる神から偶像礼拝へと堕落していきました。もしかしたら、唯一の神を信じることに窮屈さを感じ、回りで自由に見える偶像礼拝に引かれていったのかもしれません。
ここで重要な事を考えてみましょう。主を信じることは束縛でしょうか。よく求道者や、信仰を持って間もない人に聖書を教えるときにこの問題に直面します。多くの人は「どうして日曜に教会に行かなければならないのか」「聖書を読まなければならないのか」「献金しなければならないのか」「クリスチャンになると束縛ばかりで私の自由がないじゃないか」と言います。
これは本当でしょうか?自由とは何でしょうか?神様を信じる事は束縛でしょうか?みなさんはどう思いますか?実際にイエス様を信じる中で窮屈に感じたことはないでしょうか?
このようにわからないときにはみことばを基準として考えるのが一番です。
「主は御霊です。そして、御霊のあるところには自由があります。」(2コリント3:17)
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを追わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)
「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(ヤコブ1:25)
イエス様を信じ、イエス様に従うことが本当の自由です。信じる私たちが主に従うことを不自由に感じるのであれば、それは私たちがまだ肉に属している証拠です。しかし、主は必ず私たちを造りかえてくださいます。そのためにこれからも毎日通読を続けていきましょう。

・滅ぼし尽くさない主:9-12節
あのユダ王国がここにまでなってしまいました。栄華を極めたソロモンの時代が遙か昔のように感じます。霊的な堕落はやがて物質的な貧困を招きます。
ここに気になることばがあります。12節に「ユダにも良いところがあったからである」と書かれています。これは列王記にはない記述です。歴代誌は神殿と礼拝の回復を目的として書かれています。ですから、ここではレハブアムのさばきではなく、へりくだった事にフォーカスされています。
へりくだる者に神の恵みが注がれます。

・レハブアムの業績:13-16節
様々な事がありましたが、最終的にレハブアムの評価はどのような者だったでしょうか。14節を見てみてください。
その理由は心を定めて主を求めなかったからです。時には主を求めることに心を定める必要があります。肉の自分は神を求めようとしない性質があるからです。
しかし、忙しさの中にあっても、自分の体を打ちたたいてでも自分を礼拝へと向かわせる姿を天から見て、主はどれほど喜ばれるでしょうか。時間を決め、聖別して毎日主を求めて通読と祈り、礼拝の時間を持っていきましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. >主はあえてその様な事を許されると言うことがこのみことばからもわかります。ですから、目の前の現状を見て嘆くだけに留まらず、その本当の原因を求めて祈り、まず自分が主によって変えられることを願い求めていきましょう。

    アーメン

    今まで一致して愛し合っていると思っていましたが、たまたま意見があっていたからであって、「意見が食い違うと、簡単にその関係も崩れるかもしれない。そんな時あなたならどうする?今までは意見が同じ方向だったから、互いに利用し合っていたにすぎないかもしれないよ、私の愛する子供たち、問題の中であなた方はどう対応するのか?答えを出してみなさい」
    と問われているように主はあえて、そのようなことを赦されていると思えて仕方がない今日この頃です。
    それでも神様はほったらかしにして、私たちが苦しむのを見ているだけの方ではなく、
    どんなことでも、神へ祈りのうちに聴くと、
    自分に値すると思っていた価値よりも
    もっと素晴らしい祝福を得るのに、
    神に聴かないで、人に聴くことをしてしまいます。
    人々に聴き、すり合わせ、固めてから自分の指針を達成したところで、相談した相手がろくでもなく頼りないと、レハブアムのように大きな失敗へと転落してしまうのだなと肝に銘じておきたいです。
    意見が合わなくて、またこちらの思いを発言してもよく聞いてもらえず、決めつけられて誤解されて不利なことを言われていると知り、失望して、主が遠く感じられるときでも、
    主は生きておられ祈りの中で、私の思いを長々ぐちぐちと訴えても、祈っていても、失望に引きずられ落ち込んでも、
    必ず主は私自身よりも私の訴えをよく聞き分けて、希望の光を見せてくださる方なのだと実感します。
    私の「疑問符があるときの声の質が、けんか腰になっている。」と主人に言われ、ああ確かに、何度も訴えて駄目だったから、公の会議でも訴えてきたことなのに、その会議では反応がないから、受け入れてもらえたと思っていたら、そうではなく大半の人が無関心でした。
    ずいぶん我慢してから疑問を投げかけたので、そういう声質になっているかもしれないと思います。その声に反応して、相手も感情的になり、自分は間違ってない、どうして悪いのかと、疑問に答えず頑なに自分の考えを押し通したい答え方になっているので、会話にならず。
    またその声に反応して、こちらも嫌な思いをしての負のスパイラルで、その感情に巻き込まれるのが嫌で、黙することを選ぶ。
    蓋をして我慢するから、心がざわつく。
    そんな時、主に祈ると、
    主は近くで、支えながら、み言葉をくださいました。
    「善悪の知識の木の実を取って食べてはならない。それを取って食べると必ず死ぬ」と

    どちらが正しいか、悪いかではなく、気持ちよく理解し合い、
    異質と共存する知恵を神に祈り求めることが必要だと思わされました。

    それにしても今まで学んできた中で、自分に反発する民の為にも、自分が犠牲になってでも救ってくださいと祈れるモーセは信じられないくらい忍耐のあるリーダーだと思います。
    聖書通信クラブで学んできたことが、実生活でも学ばされているということは、辛い思いはしますが、主にまみゆる日に、主と共に、喜びを分かち合うためだと思うと、身に余る恵みだと受け止めます。
    悔い改めるべきは私です。
    恵みの日のうちに主に立ち返える決心を主に伝え大きく感謝します。

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