聖書通読クラブ Day 81

聖書通読クラブ Day 81【サムエル記 第一 7章~9章】

Spread the love

シャローム!

ついにイスラエルに王が誕生していきます。今まではさばきつかさがイスラエルを治めていましたが、これからは王が治めます。そして、預言者が王にアドバイスをします。
そのようなイスラエルの王制がどのように確立していくのでしょうか。

今日もみことばに教えられていきましょう。

今日の通読箇所:サムエル記 第一 7章~9章

■アウトライン

回復のきざし

●リバイバル:7章
  ・主を慕い求める:1-2節
  ・悔い改め:3-4節
  ・ペリシテとの戦い:5-11節
  ・エベン・エゼル:12-14節
  ・祭壇:15-17節

●王:8章
  ・父の道を歩まない息子たち:1-3節
  ・王を求める:4-9節
  ・王を求める代償:10-18節
  ・王を立てる:19-22節

●サウル:9章
  ・キシュの息子:1-2節
  ・雌ロバを探して:3-4節
  ・予見者:5-10節
  ・水くみの女性:11-14節
  ・サウルとサムエルの食事:15-27節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【7章】リバイバル

待ちわびていたこの時がやってきます。イスラエルにリバイバルが起こります。
さて、みなさんはリバイバルというとどういう様態の事を想像しますか?沢山のひとが教会に押し寄せることがリバイバルですか?多くの人はそう思うでしょう。しかし、それはリバイバルの結果です。
リバイバルの本質は、みことばがみことばとしてその人の内に回復することです。いままで無関係のように思っていたみことばを慕い求めるようになることです。
みことばを読むときに心をえぐられ、心からの悔い改めが沸き起こって、罪の奴隷から解放されることです。それを願ってこの聖書通読クラブをお勧めしています。みことばの回復を求めましょう。

さて、1-2節を見ると、神の箱はキルアテ・エアリムにとどまり20年経過していたようです。その間、イスラエルの全家は主を慕い求めていたと書かれています。これです。これが必要です。今まではめいめいが自分の目に正しいことを行っていました。自分で何とかしようとしていました。ところがここでは、自分の力の限界を知り、主に助けを求めています。これが大切です。
神の箱がキルアテ・エアリムに留まり、ここに至るまで20年の月日が必要でした。人の目に見えていなくても、主は必ず変化を起こしてくださっています。あきらめないで信じて祈り続けましょう。

3節から、人は自分の状態を認めたところから本当の回復を経験します。イスラエルの人々も、サムエルによる地道な、かつ継続的な預言を通して帰られました。今までの士師記の時のパターンと違っていることがわかります。彼らはかつては外国の神々を取り込み、彼らを利用しようとしていました。しかし、ここでは外国の神を取り除き、心を主に向け、主にのみ仕えるようになります。負のサイクルの鎖は打ち砕かれました。

5節から、いままで敵にやられっぱなしでしたが、イスラエルの逆転劇がはじまっていきます。ここで大切なことがあります。それは何でしょうか。リーダーのとりなしの祈りです。サムエルは「あなたがたのために祈りましょう」とあります。リーダーの祈りは自分が思っている以上に力があります。従う者のために祈りましょう。
6節、これです。このことが私の人生にも大切です。「私は罪を犯しました」。無理矢理これを告白するのではありません。天ではまことの預言者であられるイエス様が父の右の座で今もとりなし祈ってくださっています。私たちの内においては、聖霊様が24時間、ふかいうめきをもって私たちのために取りなしてくださっています。私たちがみことばに向かい、このお方に心を向けるなら、主は私たちに罪を認めさせてくださいます。そして、正しい方向へと導いてくださいます。これが悔い改めです。

ところが、ペリシテ人にイスラエルがミツパで集まっていることがばれてしまいます。それで攻められようとしています。相手は強い民族です。イスラエルの民はどうするのでしょうか。
8節からを見ると、勝利の方程式を見ることができます。主に祈り、いけにえを献げます。礼拝です。その結果どうなるでしょうか。
10節、これです。忘れていた感覚です。主が戦ってくださいます。大きな難しいところは神様がしてくださいます。そして、最後の簡単な事だけをイスラエルの人にまかせてくださいます。まるで、サッカーの試合でゴール前にぽつんと立っていたら、ボールがやってきて、足に当たってそのままゴールに入ったような感じです。主がすべて整えてくださいます。

12節から、エベン・エゼルは「助けの石」という場所です。「ここまで主が守ってくださった」という境界です。この場所はかつて神の箱を持ってきましたが、4万人が打たれたところです。主は打たれ、傷ついた所を回復してくださるお方です。

【8章】王

イスラエルに良い兆しが見えます。しかし、ここで暗雲が立ちこめます。回復の道のりは険しいものです。しかし、その先には永遠に続く喜びがあります。十字架の道です。

ここでは、サムエルの息子とたちのことが書かれています。今も昔も、信仰継承は大きな課題です。
サムエルの息子たちは良い息子でしたか?悪い息子でしたか?3節を見てみましょう。
4節、そこでリーダーは集まり話し合います。出た結果は5節、王を求めることでした。
これは一見素晴らしいことのように見えます。ところが、最善の求めではなかったのではないかと思います。彼らがここで求めるものは主であり、また、預言者でしょう。
6節、サムエルはどう反応したでしょうか。「気に入らなかった」と書いています。おそらく、預言者でなく王を求めたことに失望したのではないでしょうか。同時に、預言者の働きを低く見ていると言うことを悟り、自分の人生を否定されているように感じたのかもしれません。預言者は自分の郷里では歓迎されません。(ルカ4:24)
しかし、サムエルの行動は素晴らしいです。主に祈ります。私たちはこれができるのです。祈りを聴いてくださる優しいお方が折られます。そして、最善の方法で御手を伸ばし、私たちを助け、永遠のいのちへと導いてくださいます。
7節、主は「彼らに好きなようにさせよ」と仰せられます。これは、駄々っ子に何を言っても通じない時の親の決断のようにも思えます。8節には神様の本音のようなことばが書かれています。主が私を見られるとき、このように言われないことを願います。

もしイスラエルに王が与えられるのであれば、民は多くの責任を王に委ねることができ、ある意味楽になります。しかし、その代償があります。イスラエルの人々は人によって支配されることがいやで主をもとめたのではないでしょうか。
今回はイスラエルの民からの支配者を求めていますが、根本は同じです。このリスクを知った上でなお、王を求めるのかと主は提示してくださっています。主は良いお方です。
19節から、イスラエルの民はうなじがこわいと言われています。強情で自分の考えを変えようとしないという意味です。ここでも、主の最善ではなく、自分の考えを優先しています。ここから学びましょう。
そして、彼らの本音が見え隠れします。20節を見てみましょう。「ほかのすべての国民のようになり」と書かれています。つまり、イスラエルの人々は主を見て、主の願いを実現したいと思っていたのではなく、実は周りの国を見て、そのようになりたいと憧れていたのでした。主は心の動機を見られます。

【9章】サウル

ついに、イスラエルに最初の王が登場しようとしています。サウルです。2節から、彼がどのような人物だったかを読み取ってみましょう。「ベニヤミン人」と書かれていますが、士師記の最後でベニヤミン人が消滅しかけた事を読みました。集団で暴行し、その罪を悔い改めなかったあのひどい事件です。
主は王はユダから出てくると仰せられているのに、ここではベニヤミン人です。しかし、これも主の御手の内にあることです。人々のしつこい願いによってベストのプランではないベターのプランが実行されました。

3節からは、ろば探しの旅に出かけます。ろばは謙遜の象徴です。サウルの晩年を思うとき、最初に謙遜を探す旅をするとは、主の深いご計画のように思えます。
サウルは神の人について全く知らなかったように思えます。しかし、連れの者は知っており、彼の導きによって神の人、サムエルに出会えます。
この時、サウルは信仰はなかったかもしれませんが、人格は整っていたように思えます。なぜなら、「神の人に何かもっていかなければならない」と言う、尊敬の心があったからです。これを失わないで欲しかったですね。

11節からは水くみの女性に予見者の居所を聞きます。おそらく、かっこいいサウルを見て女性は積極的に教えてくれたのではないかと思ってしまいました。事細かく神の人の事を教えてくれています。

15節からは、神様のご計画に無駄はないことを知ることができます。主はあらかじめろばの件、サウルの件をサムエルに語られていました。私たちの普段の生活の中の些細なことであっても、そこに主のご介入があります。一番哀れなのは、その主のご介入に気づけない者です。すべての事に感謝する生き方を目指しましょう。
サムエルはサウルと出会い、ろばの事まで告げます。神の人の存在を知らなかったサウルの驚きはどれほどだったでしょうか。
21節を見ると、突然の出来事に慌てるサウルの姿を見ることができます。

22節から、単なる訪ね人であったサウルがもう主賓のような扱いを受けています。いきなり王様です。
食事の後、サムエルはサウルと屋上で語ります。神の人の面接でしょうか。
神様の御手が動かれるとき、突然このような事が起こるかもしれません。しかし、今回は人の思惑が混じっているように感じます。
突然の昇進は、ときにひずみを生じることがあります。急に成長するときに、どこかかがもろくなってしまうことがあります。
成長には時間がかかります。私たちもあせることなく、主にお湯種して霊的な成長をさせていただ来ましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

4件のコメント

  1. シャローム!(^○^)

    コラムを読んで、なるほど!・・・と沢山思いました。この人生で、神の目に正しい人、良い人として、また、神の心にかなう者として歩むことは、人間にとってとても難しい事なのだと感じました。私自身、罪有る者として、とても感じます。

    なのに生かされている・・・恵みであると同時に、コラムにもあるように、人間がキチンと生きれるためには、誰かの祈りが必要なのだと感じました。

    もちろん、私にも必要だと、いえ、私こそ、切実に必要なのだと感じました。

    実は、最近、元気ではないんです。(霊と魂が・・・💦)皆さん、何か良いみことばがあれば、ぜひ分かち合いをお願いしたいです。今日も、皆さんに豊かな恵みが、祝福がありますように。
    シャローム!!

  2. ここまで主が助けてくださり感謝します。
    心から悔い改めたいと思いました。

    個人的には詩篇91のみことばが好きです。

    1. シェアをありがとう☆彡

      詩編91.読んでみました。(*^^*)☆

      本当に良いみことばですね!(^○^)

      特に、『彼らはその両手にあなたをのせ
       あなたの足が石に打ち当たらないようにする。あなたは 獅子とコブラを踏みつけ
       若獅子と蛇を踏みにじる。』の部分が、
      印象に残りました☆彡感謝します!(*^^*)

      シャローム!

       

  3. >リバイバルの本質は、みことばがみことばとしてその人の内に回復することです。まで無関係のように思っていたみことばを慕い求めるようになることです。みことばを読むときに心をえぐられ、心からの悔い改めが沸き起こって、罪の奴隷から解放されることです

    アーメン

    み言葉を読むごとに、新しく教えられ、回復していくことを感謝します。
    み言葉を読めば読むほど、み言葉に飢え乾きを覚えることを感謝します。
    み言葉を読むとき、私は、功なく小さくされ、主イエスが大きくなることを感謝します。一つひとつ、一歩一歩主の十字架の血潮により、心から悔い改め、解放されていることを感謝します。
    今の気持ちを忘れないでいられますように。
    主の御座の前に立つ時まで信仰の創始者であり、完成者であられる主イエスから目を離さないでいられますように。

    リバイバルの時に、新しく賛美が溢れますね。
    これは、結果なのか、本質なのか、両方のような?
    教会で賛美している時だけでなく、日々の生活でも感謝と賛美の生活でありますように。

    今日の礼拝で誰かの気配を感じてハッとして、じっと見つめると、見えなくなる方がおられました。
    見えなくなってしまうので、人間ではない方が、礼拝を見守っておられたのだと思います。
    み使いなのか、聖霊様なのか、主イエスなのか?
    主イエスは偏在される方なので、一斉に持たれる全世界の聖日礼拝を
    微笑みながら見守っておられていたことと思います。
    コロナで教会に出席できない方も、そのご家庭での礼拝を見守ってくださっていたと思います。
    お仕事で礼拝に出席できなかった方の側にも、主は来られ心で主を見上げた瞬間にその姿を記録されていると思います。
    イエス様、いつも私たちを愛の眼差しで見守ってくださって、ありがとうございます。

    聖書を読むとき、朗読するとき、賛美をするとき、祈るとき、一人ではないと言いますか・・・
    もちろん、神様はいつも一緒なのですが、そうなのですが・・・
    ビデオを撮られているような、誰かに見られているような感覚があります。
    私たちの霊と真をもった礼拝を一つ残らず記憶?記録?してくださっている神様に、感謝します。

かんしゃ へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です