聖書通読クラブ Day 64

聖書通読クラブ Day 64【ヨシュア記4章~6章】

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シャローム!

世の中にはにわかに信じがたいことが起こります。聖書を読むと、そのようなことの連続でしょう。これらのことはおとぎ話やファンタジーのように語られることがあります。なぜそうなってしまうのでしょうか?人が自分の頭で理解できないことが書かれているから、そのようにしてしまったほうが都合がいいからです。
人は自分の頭で理解することしか受け入れません。では、私たちは聖書にかかれている事をどのように受け入れれば良いのでしょうか。それが信仰の領域です。聖霊様により頼む必要があります。
私もかつては聖書の数々の奇跡を信じることができませんでした。しかし、聖書を読み続け、祈り続け、礼拝を捧げ続ける中で主は私の考えを変えてくださり、聖書こそが唯一の心理だという事を教えてくださっています。

今日の通読箇所でも信じられないようなことが起こりますが、良い心を持って、みことばに教えられていきましょう。

今日の通読箇所:ヨシュア記4章~6章

■アウトライン

信じて踏み出す

●十二の記念の石:4章
  ・石を運ぶ12人のリーダー:1-6節
  ・元通りのヨルダン川:7-17節

●乳と蜜の流れる地での聖別:5章
  ・割礼と過越:1-12節
  ・主の群の将:13-15節

●エリコ陥落:6章
  ・神の戦い方:1-11節
  ・勝ちどきの声:12-21節
  ・ラハブの救い:22-27節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【4章】十二の記念の石

イスラエルの民の夢が実現しました。神様が約束された乳と蜜の流れる地に本当に踏み入れました。彼らの喜びはどれほどだったでしょうか?しかし、思い出してください。彼らの父祖たちはエジプトを出たとき、同じような喜びに引っ立ったのではないでしょうか。その後、どうなったのでしょうか。過去から学び、それを次世代に伝えることはとても重要なことです。

1節を見ると、主がヨシュアに語りかけられますが、どのタイミングでしょうか?みことばを見ると「ヨルダン川を渡り終わったとき」と書かれています。主は何を語られたのでしょうか?3節を見てみましょう。
ということは、このリーダーたちは渡り終えた後、もう一度川の乾いた所に行き、石を拾った事になります。5節を見ると「背負ってきなさい」と書かれています。ということは、小さな石ではないことがわかります。
その石の目的は何でしょうか?6-7節を見てみましょう。
子どもたちにこの奇跡を教えるためであることがわかります。そして、この石は永久にイスラエル人の記念となります。過越の祭りとよく似ていますね。このようにしてイスラエルの民は上手に子孫に主の偉大さ、民族の歴史を伝えていきます。
ここで取り違えて欲しくないことは、この石自体に力があるわけでは無いということです。映画のドラキュラで十字架を見せたらドラキュラが嫌がる、そういった魔除けのようなものではありません。あくまでも「ヨルダン川を主の好意により渡った」という事を思い出すきっかけとすることです。
十字架のアクセサリーや部屋の置物自体には何の力もありません。単なる金属や木です。それを見て、イエス様の十字架の偉大さを思い起こす心が大切です。

10節から、箱を担ぐ祭司の事が書かれています。時系列で見ると、この箇所はこの章の最初に来てもいいのではないかと思いますが、あえてここに書かれています。少し時を戻して、民が渡っている最中を見てみましょう。
民が渡り終えるまで、そこにずっとあったのは何でしょうか?主の箱、つまり主のご臨在ですね。
私たちも約束の地、永遠のいのちに入るまで、このように主があらゆるものをせき止めて、一人でも多く永遠のいのちに入れるように守ってくださっています。「きょう」という日に主を求め、必要な人に福音を伝えていきましょう。
また、12節では「ルベン、ガド、マナセの半部族」とわざわざ書かれています。彼らは先頭に立って戦いに行きました。自分たちの主張を聞いてもらった感謝の心でしょうか?とにかく、このような積極的な信仰の態度は主に喜ばれる者であることを信じます。

15-18節を見てみましょう。どのような命令指示系統を見ることができますか?
神様>ヨシュア>祭司という順番を見ることができるでしょうか?そして、神が仰せられた内容と、最後のメッセージを受け取った祭司の行動は違っていたでしょうか?一致していたでしょうか?
そして、どのタイミングで川はもとの所に返りましたか?これは偶然の自然現象でしょうか?それとも、神様のなされたことでしょうか?
19節、約束の地でのはじめての夜を過ごします。ギルガルという場所です。この地は、今後重要な軍事拠点になります。東西南北のうち、東側がヨルダン川なので敵が攻めてきづらい地形です。
この場所にヨシュアは川から持ってきた十二の石で祭壇を築きます。

【5章】乳と蜜の流れる地での聖別

神のなされた偉大な御業は、SNSなどのないこの時代でも驚くべき早さで広まっていきます。主は偉大なお方です。
この知らせを聞いたとき、エモリ人、カナン人のすべての王たちの心はどうなりましたか?1節を見てみましょう。これが主のなさることです。
戦いは軍事作戦や兵の数、強さ、武器の多さなどが大切ですが、それ以上に戦士の志気が大切です。それを引き出すのが将軍の役割です。
では、このタイミングを見るとどうでしょうか?神様の奇跡によって民族が短時間で一気に川を渡り、それを聞いた諸国の王は恐れています。敵に攻め入るのにこんなに最高のタイミングはありません。
ところが主がヨシュアに仰せられたのは「戦いに行け」ではありませんでした。2節には何と書かれていますか?なんと、このタイミングで割礼を施すように言われるのです。
包皮の皮を切り捨てるなら、その回復にも時間がかかります。それなら、川を渡る前に言って欲しかったというタイミングですが、これが主のなさることです。申命記で繰り返し見たように、自分が理解できなくとも主に聞き従うことが祝福です。
ヨシュアとイスラエルの民は主の仰せの通り割礼を施しました。その地名は「ギブアテ・ハアラロテ」です。なんと、その地名自体の意味が「包皮の丘」という名前でした。

4節からは割礼の理由が書かれています。読んで納得しますね。
割礼は包皮の皮を切り取ることです。皮があると鈍感になります。私たちは心の割礼を受ける必要があります。何によってでしょうか?イエス様の血潮によってです。
心の包皮が切り捨てられるなら、私たちの心は罪に敏感な心となり、主に対して繊細な心を持つことができるようになります。
古い人は過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなりました。
自分の願いよりも神様の仰せを優先し、実行したのをご覧になり、主は「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた」と仰せられ、この場所を「ギルガル」と呼ばれました。
こうして、約束の地に入り最初に行われたことは「待つ」ことでした。イスラエルの民の時間の流れは夕方が一日の始まりです。まず最初にすることが休むことです。多くの精神的な病は規則正しい睡眠によって改善する可能性があると言うことを聞いたことがあります。全力で生きるために、積極的に休みましょう。

10節からは過越のいけにえを献げます。乳と蜜の流れる地で最初に行われる礼拝です。
そして、そこで種なしパンと炒り麦を食べた翌日から、マナの降るのがやんだと書かれています。なんと、この時まで約40年の間、マナは降り続いていました。そして、イスラエルの民を生かしました。神様はなんと忠実なお方でしょうか。

13節からは主の群の将が登場します。あまりにも突然の出来事です。
それはヨシュアは「あなたは敵ですか?見方ですか?」と聞いたことからもわかります。
ヨシュアは主の群の将を見ました。ヤコブと格闘したあのお方です。これをこの地に来られる前のイエス様だという人もいます。
ヨシュアは主の群の将だとわかった途端、どうしたでしょうか?顔を地につけて伏し拝みました。これが礼拝です。本当に神様のご臨在に触れたなら、私たちは顔を上げることすらできないでしょう。このような体験をできることを切に願います。
ここで主の群の将はヨシュアにどうしろと言いましたか?これはモーセと似ていますね。
くつを脱ぐという事は奴隷になることを意味しています。主のしもべです。こんな光栄なことはありません。

【6章】エリコ陥落

この6章はヨシュア記の前半でのハイライトでしょう。
5章ですでにエリコの人たちの心がしなえ、勇気がなくなったと書かれていました。志気が完全に低下しています。チャンスです。
その上、2節のように主が約束してくださっています。この時点でイスラエルがすでに勝利をしています。しかし、実際の勝利を見るまではもう少しかかります。

3節からはエリコとの戦いの戦略が明らかにされていきます。それはどのようなものですか?科学的にも軍事的にもあらゆる最新の観点から見てこれは勝利できる確率の高い戦い方でしょうか?人間の目で見るならおろかにしか見えない戦い方です。しかし、これが主の方法です。御国の戦略です。
6節からは、今度はヨシュアが民に神の戦略を告げます。角笛を吹く7人に、主の箱をかつぐ7人の祭司が続きます。その前後を武装した者が進みます。神の民の勝利への行進です。
このとき、重要だったのは「口からことばを出さない」でした。これは結構つらいことです。ひと言も口から出してはいけません。高い城壁の上には最強のエリコ群がいます。いつ雨のような弓矢が降ってくるかわかりません。石を落とされるかもしれません。城門が開き、一斉に兵士が攻めてくるかもしれません。そのような中、ひたすらだまってエリコの町の周りを一周します。そのためにかかる時間は約30分と言われています。
神の仰せ、ヨシュアの命令にイスラエルの民はどのように反応しましたか?

12節、1日1周。約30分。これを6日間続けること。これが彼らに課せられた使命でした。戦いたいけど戦えないというフラストレーションもあったでしょう。
エリコの人たちもここまですると、彼らを気持ち悪がったでしょう。大勢の民が全くしゃべらず、角笛だけ吹き鳴らし、町を一周回っては帰って行く。ぞっとするような光景です。
人と話すときも、相手があまりにも無表情でしゃべらなければ、その人に対して恐怖を覚えます。無言の圧力です。

ついにこの時が来ます。15節。七日目にだけ特別に七回まわり、「ときの声をあげよ!」との声を上げたら叫ぶという戦略が伝えられます。同時に二つの約束が告げられます。
 ・町のすべてを聖絶すること
 ・遊女ラハブと家族は生かしておくこと
さあ、一体どうなるでしょうか?

20節、なんと角笛とときの声だけで城壁が崩れました。ある人はこのときの角笛とときの声の周波数が城壁を壊したと言っているのを聞いたことがあります。それなら、同じ状況でこの事を再現して欲しいと思いました。これは神様がなされたことです。主が仰せられたことをヨシュアとその民は疑わず、忠実に行ったのです。その報いです。
この「くずれ落ちた」というのは「その場に落ちた」と言う意味です。ですから、まるで城壁が門のように神の手によって開かれたと見てもいいでしょう。そのままイスラエルの民はエリコの町に攻め入ることができました。
そして、町のすべてを聖絶します。ここから何が学べるでしょうか。これは人を殺しなさいという教えではありません。私たちの内なる人の問題です。私たちの心の底にある神に属さないものを剣、すなわちみことばで聖絶します。

22節から、再びラハブが出てきます。あの斥候にラハブとその家族を救うように命じます。彼らはラハブに会っているし、その場所も知っていました。この緊急の中、すぐにその家がわかるように赤いひもを結ばせていたのですぐにわかったでしょう。約束通り、ラハブに真実を尽くしました。

ラハブは遊女でした。しかし、新約聖書ではその信仰がたたえられ、なんと救い主の系図にも名前が入れられています。驚くべき事です。

26節、ヨシュアは「エリコの町の再建を企てる者は、主の前に呪われよ」と宣言します。企てるだけで呪われます。
この約500年後、1列王記16:34でアハブの時代にベテル人ヒエルがエリコを再建しようとしたとき、子どもを失ったと書かれています。
また、ルカ10:30では、ある人がエリコに行こうとして強盗に襲われました。ここから何が学べるでしょうか。祈ってみましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 今日、リハビリの時に、担当の理学療法士に、今朝読みたてのヨシュア記から神様の戦い方について、コラムをパクッてですが、少し話ができました。
    ヨルダン川を渡る奇跡やエリコの城壁が崩れた時の戦い方を語りながら、神様って、こんな奇跡を起こしてでも後の私たちに御心を教えてくださっているのだなと・・自分自身も再度受け取りました。
    アウトプットって大切ですね。

    ただ黙って6周・・・黙ってのところが迫ってきました。そうですね、口から出る言葉が聖なる戦いには邪魔になるのですね。ピンチの時、口を開くと不信仰や、愚痴や裁きが出てしまう。
    ただ黙して、主が言われたことを正確にこなすことができたら、
    ヨシュアを尊敬して民が指示に従ったように、主イエスに従いたいと思いました。
    ヨシュアは原語でイエホシュア=イエシュア=イエス
    主イエスのことを表しているのですね。
    イエシュアに信頼して、尊敬してイエシュアの勇気と信仰と情熱に導かれて奇跡を経験し、ありえない方法でヨルダン川を渡って、聖霊のバプテスマを受けて満足して終わりではなく、その後も、
    「あなたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたに与えている。」と言われた主のみ言葉を信じて、
    主が与えておられる土地を、一歩一歩、足で踏んでいきたい、克服していきたいなと思いました。
    自分の現実を見ると、大きな壁があって、気落ちしそうで、無理なような気はします。
    しかし、人ぼっちで戦うのではなく、知恵に満ちた方が共に戦ってくださる。
    リーダーイエシュアが導いてくださるから希望があります。
    今は、啓示が開かれた恵まれた時代なのだなと思います。
    主イエスから目を離すと、この時代もペテロの例にもれず溺れてしまう現実があります。
    でも、もうじき来られる主イエスを、目を覚まして、油を携えて、叫ぶ者の声になって待っていたいです。
    どう叫ぶのかは、分かりませんが、祈ることはできるので、
    イエシュアの合図とともに、大胆にときの声をあげられるように今は、黙して主のみ言葉を蓄え歩んでいこうと思いました。

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