聖書通読クラブ Day 65

聖書通読クラブ Day 65【ヨシュア記4章~6章】

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シャローム!

次世代のリーダー、ヨシュアの初陣は大勝利で終わりました。私たちも仕事や勉強などで成果を上げたとき、とても喜びます。喜んで当然です。それだけ頑張ったのですから。大いに喜びましょう。しかし、それだけで終わってはいけません。また、その勝利をいつまでも握りしめていてはいけません。

今日の通読箇所からは、大勝利の後の心構えを学ぶことができるでしょう。私たちが一番気をつけなければならならないのは、実は戦う前ではなく、大勝利を経験した後かもしれません。

それでは、今日もみことばに教えられていきましょう。

今日の通読箇所:ヨシュア記4章~6章

■アウトライン

試される誠実さ

●それはアカン:7章
  ・アイとの戦い:1-9節
  ・暴かれる聖絶のもの:10-26節

●アイへの再攻:8章
  ・ヨシュアの戦略と兵の派遣:1-17節
  ・アイの陥落:18-29節
  ・律法の朗読:30-35節

●だます者誠実な者:9章
  ・計略的変装をするヒビ人:1-15節
  ・ヨシュアの誠実さ:16-27節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【7章】それはアカン

エリコの戦いで主はイスラエルに勝利を与えてくださいました。しかし、約束事がありました。徹底的な聖絶です。
しかし、勝利の後の気の緩みでしょうか。もしくはどうしても抑えきれなかった欲望からでしょうか。アカンという人があかんことをしてしまいます。聖絶のものをこっそり奪い取ってしまいました。
このたったひとりのそむきのゆえに、イスラエル全体に神の怒りが燃え上がりました。
自分の中にあるパン種のような小さな罪も、みことば光によって明らかにされ、悔い改めへと導かれたいものです。
2節から、ヨシュアはまた偵察を送ります。すると、彼らはどのように報告したでしょうか?3節を見てみましょう。
おそらく、彼らはあまりにもドラマチックなエリコの勝利の美酒に酔いしれていたのかもしれません。これらはすべて主がしてくださった事で、人々はそれに従っただけでした。ところがそれをあたかも自分の手柄のようにしてしまう弱さがあります。
私たちの人生でも、勝利を味わったようなとき、いつまでもその勝利にしがみついていませんか?それはすべて主がなしてくださったに過ぎません。

4節から、人々は神様に伺うことをせず、アイに上っていきました。その結果はどうなったと書かれていますか?36人ものいのちが失われてしまいました。
私も何度も経験があり、自分への戒めとしていますが「ま、いっか」と言って進めたプロジェクトは必ずと言っていいほどどこかで失敗します。たとえなれた仕事でも、いつも緊張感を持ち主により頼む信仰が必要だと思わされます。

6節から、ヨシュアの本心を垣間見れる部分です。乳と蜜の流れる地に入り、最初のプロジェクトは大成功しました。しかし、その後の大失態です。こんな後ろ向きなヨシュアの姿があったとは今まで気づきませんでした。だから神様は何度も「強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない、おののいてはならない」と言われていたのですね。
しかし、同時にヨシュアの正直さも見ることができます。私たちは時に自分の気持ちを隠しながら神様に祈るときがあります。神様はすべてをご存じであるというのに。
神様には何でも言っていいんです。何でも受け入れてくださる天のお父さんですから。正直な心を神に告白しましょう。それが祈りです。

10節、主の塩対応のように思えます。あたかも主が「ヨシュア、何やってるんだ?」と仰せられているようです。どうしてでしょうか?11-12節を見てみましょう。ヨシュアが涙して祈っている原因は民の中に聖絶のものを自分のものにしているということでした。「取り、盗み、偽って」とあります。偽りの父は悪魔です。つまり、自分の欲におびき寄せられて、自分の主人を主から悪魔にしてしまったと言うことになります。
それだけならまだしも、そうするなら12節最後には「わたしはもはやあなたがたとともにいない」と言われます。最も恐れるべき事です。どうすればこれを回避できるのでしょうか?13節が答えです。
主が「しょうがないな」と言われているようです。主の憐れみです。
戦いの勝ち負けでは無く、聖めか汚れかが大切です。

14節、ついに犯人が絞られていきます。まず部族ごとに進み出て、次に家族が、そして男が進み出ます。その犯人が見つかったとき、どうなるでしょうか。
結果、誰が取られたでしょうか。アカンです。この人の名前の意味は「悩ます者」です。ヘブライ語でも日本語でも似たような意味ですね。
19節、ヨシュアはアカンに何をしたのか問いただします。ヨシュアの呼びかけは何と言っていますか?「わが子よ」と言っています。悪いことをして、民に災いをもたらしたものにこのように言うことができるでしょうか?アカンはこの愛を感じて、自分はあかんことをしてしまったと言って罪を正直に告白できたのかもしれません。
21節、アカンの心があらわれます。「欲しくなって」と書かれています。ヤコブの手紙1:14を読んでみましょう。
22節、使いたちはアカンの告白の通りのものを天幕で見つけます。物的証拠もあり、万事休すです。
アカンはアコルの谷に連れて行かれ、殺されます。その時に神は怒るのをやめられました。
「アコルの谷」とは「災いをもたらす」という意味で、アカンと類義語になります。
徹底的な聖絶、神様はその事で怒りをやめられました。私たちの内なる人をみことばの光によって照らし、この事を明らかにさせていただきましょう。

【8章】アイへの再攻

主の忌み嫌われるものを取り除いたとき、主は再びチャンスを与えてくださいます。1節を見てみましょう。36人を失ったアイに再び出て行くことを告げられます。しかし、今度は主が勝利を約束してくださっています。この時点で勝負ありです。
2節、今度は主は不思議なことを言われます。エリコは戦利品を取ることを禁止されましたが、アイでは戦利品を取ることを許可されます。また、戦い方も指示されます。それはどういうものでしょうか?
町のうしろに伏兵を置くと言うことです。私なら、「また、6日町をまわって、7日目に7回まわって角笛吹いてときの声をあげる、あれをやりましょうよ!」と言いたくなりますが、そうではありません。主の戦いは毎回毎回異なります。ですから、どんな小さな事でも主に伺う必要があります。そして、それに従うのです。

3節から、ヨシュアは実際に神様の仰せをかみ砕き、それを行動できるように指示します。ちょっとずるい作戦のように思えますが、これが今回の神様の戦い方です。おびき寄せ作戦です。

18節、まるでモーセの杖のようです。ヨシュアが主の仰せに従って、主のタイミングで槍をアイに向けて持ち上げます。するとどうなったでしょうか。アイの戦士たちはヨシュアめがけて町を出ています。ぬけがらのようになった町に潜んでいたヨシュアの伏兵が入り、町に火を放ちます。アイの人々はヨシュアの人生に挟み撃ちにあった形になります。
26節、ヨシュアの差し伸ばされた槍はアイの人々が聖絶されるまで引っ込められることはありませんでした。
おそらく、アロンとフルがモーセの手を支えた間、ヨシュアが地上で戦い勝利を得たことを覚えていたのでしょうか。これはヨシュアの祈りかもしれません。

ここでも主の御声に聞き従った結果、勝利がもたらされました。今度はヨシュアはどうしたでしょうか?30節をみてみましょう。
第一のものを第一とすることはとても重要です。申命記で命じられていたことを実際に行いました。
半分をゲリジム山、半分をエバル山に置き、ヨシュアはことごとく律法を語りました。それに対して、ゲリジム山の前に立った民は祝福の律法に対して「アーメン」と言い、エバル山にたった民はのろいの律法に対して「アーメン」と言いました。
「呪いの側に置かれた民はかわいそう」と思うかもしれませんが、これも祝福です。なぜなら、私たちの罪が明らかにされるからです。罪に対して鈍感であったら悔い改める機会がありません。それは悲しいことです。ですから、呪いに対しても「アーメン」と認める聖霊様の助けが必要です。

【9章】だます者誠実な者

戦いは、一つ勝てばまた強いものが挑戦してきます。今回はちょっと手強そうな敵です。1-2節を見てみましょう。どのような敵でしょうか?
詩編2:1-3を見てみましょう。神の民にはいつもこのような事が起こります。イエス様の時代もヘロデとピラトはあまり仲が良くなかったのですが、イエス様を十字架にかけるということで一つになりました。
「ペンは剣よりも強し」ということばがありますが、時には武器よりも強いものが存在します。ここでは「変装」という作戦を使いました。稚拙な作戦に思えますが、みごとに成功します。ヨシュアたちはこの変装作戦にまんまとだまされることになります。
ギブオンの人たちが使った作戦は巧妙でした。律法を知った上で、その律法をうまくつかってヨシュアたちをだましました。本当に悪い人たちです。この時ギブオンの人たちが使った律法は申命記20:10-18です。

14節、ヨシュアと長老たちはまた同じ間違いを犯してしまいます。神様に伺うことをしなかったのです。
最初にアイに攻めに行ったときも、神様に聞かないで行きました。今回も彼らのあまりにもうまい演技にだまされ、彼等を信じてしまいました。
私たちもこのようなことを行ってしまうことがあるでしょう。「かわいそうだから」というだけの理由で、神様に祈らないで行動するなら、後で大変なことになるかもしれません。
いつ、なにを、どのようにすればいいか。まず神様に祈る習慣をつけましょう。
ヨシュアは目に見えるものだけを頼りに判断してしまったため、だまされて彼等と盟約を結んでしまいました。
ギブオンの人たちがしたことをみて、2コリント11:14を見てみましょう。どう感じますか?

22節から、ヨシュアの人格が伺い知れます。だまされても彼等を殺すことをしませんでした。なぜなら、「誓った誓いは果たせ」とあるからです。(伝道者5:4)
ヨシュアは祈り、考え、できる最大限の事をギブオンの人たちにしました。彼等を奴隷とし、それだけでなく、神の家でたきぎを割る者、水を汲む者としました。
ヨシュアのギブオンに対する憐れみです。おそらく、ヨシュアはギブオンの民を神の家の近くに置くことで、彼等が悔い改め、自分たちが生まれ育ってきた中で当たり前に行っていた偶像礼拝をやめさせ、民族ごと主に立ち返ることを期待していたのでは無いかと思います。
私たちもこのような目が必要です。どんなにだめに見える人でも、それはあなたの見る目です。神様はそのようにはご覧になっていないはずです。すべての人の中に主は輝く宝石を置いてくださっていると思います。それを発見し、磨くかどうかは本人次第でしょう。
自分だけで無く、周りの人の中にまだ磨かれていない宝石の原石を見つけ、それを磨ける助けをできるなら、それは素晴らしいリーダーの働きとなるでしょう。そして、宝石を発見してもらった人は自分の才能とたまものに気づき、成長していくでしょう。
そのように、実際ギブオンの民はこの後ヨシュアに助けを求め、その事で一気に王を倒します。ソロモンの神殿の時にはギブオンに主の幕屋がありました。バビロンから帰還した民とギブオンの人は共に立ってエルサレムの城を再建します。
だまされても、損をしたように思えても主に対して誠実に歩むなら、主は報いてくださると信じます。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. >実際ギブオンの民はこの後ヨシュアに助けを求め、その事で一気に王を倒します。ソロモンの神殿の時にはギブオンに主の幕屋がありました。バビロンから帰還した民とギブオンの人は共に立ってエルサレムの城を再建します。
    だまされても、損をしたように思えても主に対して誠実に歩むなら、主は報いてくださると信じます。

    素晴らしいですね
    彼らの子孫が後のネテニびとで、神殿に奉仕する人となったのですね。
    嘘をついて命乞いをする、手段を選ばない方法は悪いけれど、ギブオン人の救いを求める熱心さを見習いたいと思いました。

    こうまでして救いを求める彼らをを憐れんだヨシュアにイエシュアを思い、ギブオン人に自分を重ねます。

    手段を選ばない方法は悪だと、ふと私が思ったことに対して、
    創世記の、主が善悪の木を取って食べてはならないと言われたことを思い出しました。
    「善悪の木を取って食べてはならない」とは、善も悪も罪だということ、善悪を自分で判断して神の業であるはずの裁きをすることで、自分で善を行おうとすること自体が罪だということだと以前学んで、神のみ言葉の深さに目が開かれ感動しました。

    また・・・聖書の教えとは、ちょっと違うかもしれませんが・・・
    昔、父から、「織田信長のように、裏切り者は片っ端から切り落とすのではなく、徳川家康のように、情けをかけることで、その人が恩を感じ裏切らない味方を得ることになる、だから家康に習え」と教えてくれたことを思い出しました。


    84:10 まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。

    主の聖所に仕えるレビ人に仕える者となって、主を慕い求めるようになったのですね。

    エズ
    8:20 および、ダビデとその高官たちにより、レビ人に奉仕するよう任命されていた宮のしもべたちのうちから、二百二十人の宮のしもべたちを連れて来た。これらの者はみな、指名された者であった。

    心から主に仕える者と変えられていったから、ダビデによって、彼らは選ばれて神殿の高い地位に任命されたのですね。

    ネヘ
    10:28 このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌い手、宮のしもべたち、また、諸国の民と関係を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、

    主の聖なる神殿に奉仕する者たちになったのですね。

    やり方はよくないですが、ヤコブが横取りしてまで長子の権利を得たように、異邦人で神殿に奉仕することができるようになるとは、大逆転だと思いました。

    救いを求めた民は、憐れまれるべき存在で、その熱心な求めによって、神の祝福の摂理の中に入れられました。

    求め、心から主を慕って従う者には等しく、ヨシュアによって=イエシュアによって、異邦人をも救う神様のご計画を感謝いたします。

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