シャローム!
民数記も今日で終わりになります。民の数、いけにえの数、土地の割り当てなど、読み飛ばしそうになる一つひとつを共に通読できたことを感謝します。
それでは、今日も心を込めてみことばを味わっていきましょう。
今日の通読箇所:民数記34章~36章
■アウトライン
のがれの地
●相続地の境界線:34章
・東西南北の境界線:1-15節
・土地配分の責任者:16-29節
●逃れの町:35章
・レビ人の町:1-8節
・故意では無い殺人:9-29節
・贖い金の拒否:30-34節
●氏族間の婚姻:36章
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【34章】相続地の境界線
いよいよカナンの地が具体性を帯びてきます。長い期間がかかりました。世代も交代してしまいました。しかし、主の約束は必ず成就するという事をみることができます。
東西南北の境界線を通読しましょう。
16節からは土地を相続するのはイスラエルの民でしょうか?17節を見てみて下さい。
彼らを助け、実務を行うのが19-29節に書かれている各部族の族長です。
実は祭司エルアザルとヌンの子ヨシュア、エフネの子カレブ以外の名前はこの後は出てきません。しかし、ヨシュア記14:12を見ると、主の命令に従って彼らが任務を果たしたことがわかります。
【35章】逃れの町
イスラエルの部族は土地が割り当てられましたが、レビ族だけは相続地を持つことができませんでした。
しかし、彼らとて生きていかなければなりません。実際に住むところが必要になります。それでは、レビ族たちはどうしたのでしょうか?2-8節を読んでみましょう。
主はモーセにレビ族のために放牧地付きの土地を48カ所与えることを命じられました。イスラエルの部族の土地の一部にレビ族が住みます。その大きさは住まいが千キュビト、その周りにもう千キュビトを足して、縦横3千キュビトの正方形の土地でした。1キュビトは約44センチなので、1.32キロを一辺とする正方形でした。
9節からは逃れの町というものが出てきます。
これは出エジプト記21:13を受けての具体的な命令です。つまり、故意では無く、あやまって人を殺してしまった人がその町に逃れることができるように定められた町です。
この町は6つあり、ヨルダン川を挟んで東に三つ、西に三つありました。
15節にはこれは誰のための町だと書かれていますか?
16節からは殺人者に関する規定です。
以下の三つは故意の殺人とみなされます。
・鉄の器具で人を打って死なせた場合
・人を殺せるほどの石の道具で、人を打って死なせた場合
・人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせた場合
続いて、動機に関して書かれています。
・憎しみ
・悪意
・敵意
これらがあって、突く、投げつける、打つなどによって人を殺した場合です。これらも故意の殺人とみなされます。
これらの殺人者は必ず殺されなければなりません。血の復讐をする者は、この殺人者と出会ったときに殺してもいいことになっています。
私たちは実際には殺人をしたことがないでしょうが、1ヨハネ3:15節にはどのように書かれているでしょうか?「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」と書かれています。
私たちが故意に兄弟を憎むなら、それは殺人の罪です。
自分の心に手を当てて、隣人を憎んでいないかを点検しましょう。イエス様の十字架の赦しをうけとり、自分を赦し、隣人を赦せるよう切に祈りましょう。
22節からは、故意では無く人を殺した場合、過失致死の場合の取り扱いが書かれています。
故意か過失かということは現代でも判別が難しいですが、ここでは具体的に書かれています。
会衆は過失致死の容疑者を血の復讐の者から守り、のがれの町に返してやります。
25節を見てください。この容疑者が解放される場合があるのです。それはどう言うときでしょうか?
ここには「大祭司が死んだとき」と書かれています。
私たちは罪の故にとらわれていた者でした。しかし、永遠の大祭司であるイエス様が十字架で死なれた事により、私たちは解放されました。エペソ2:13-16を声をだして自分のたましいに対して宣言してみましょう。
26節からは、過失致死の容疑者が自分が逃げ込んだ逃れの町の境界の外に出て行ったらどうなるかが書かれています。どうなりますか?
血の復讐の者が容疑者を見つけたら殺してもいいことになっています。なぜなら、大祭司が死ぬまで容疑者は逃れの町にとどまっていなければならなかったからです。ヨハネの福音書10:1を見てみましょう。イエス様は私たちの救いの門です。
この殺人に関してはとても重い取り扱いになりますので、30節のような規定があります。
また、贖い金を受け取ってもいけません。
33-34節に注目してみましょう。血は土地を汚すとあります。創世記4:10-12を見てみましょう。この土地の贖いのためには、血を流させた者の血、すなわちいのちが必要です。いったい、この地上でどれだけの人が殺されたのでしょうか。この地は汚れたままなのでしょうか
ヘブル9:22に何と書かれているでしょうか。イエス様の血潮がこの地を、そして私たちを完全に聖めます。
あわせて、1ヨハネ1:8-10も読んでみましょう。
【36章】氏族間の婚姻
民数記の最後では、27章の規定の補足がなされています。当時のイスラエルでは男子だけが土地を相続することになっていましたが、ツェロフハデの娘たちの訴えで相続権に関する法律が定められました。
ヨセフ族のひとつ、マナセの子マキルの子ギルアデの氏族に属する諸家族のかしらは2節でこの事を確認しています。
3節、要するに、もし女相続人が他の部族に嫁げば、彼女自身が属していた部族の相続地の一部は嫁ぐ先のものとなるから、前の部族の相続地は減ってしまい、嫁ぐ先の土地が増えてしまうと言う問題です。しかし、ヨベルの年でリセットされます。
この解決はどこにあるのでしょうか?8-9節が答えです。これで相続地が他の部族に移ることが避けられます。
こうして、民数記はモーセ五書の最後の書、申命記へとバトンタッチされていきます。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
>ここには「大祭司が死んだとき」と書かれています。
私たちは罪の故にとらわれていた者でした。しかし、永遠の大祭司であるイエス様が十字架で死なれた事により、私たちは解放されました。
神様は、「あなたを救う」と言わんばかりに、聖書のそこら中に,
ご自分が定められたルールの中にも、緻密に福音をちりばめておられるのですね。
感謝いたします
民数記35章28節
その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。
これは、私たちの大祭司である主イエスが十字架での贖いの死を遂げたことによって、
罪人が神の祝福の回復にあずかれることを暗示されているのですね。
彼の死の故に、私たちの罪は赦され、自分の所有の地(神が用意されている祝福の地)に帰ることが出きるのですね。
私たちの希望は、まことの大祭司主イエスがおられる逃れの町に住むことによって、確かにされるのですね。
ヘブル
6:18 それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。
6:19 私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
6:20 イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。
これほどまでの愛をいただいているのですから
私も、神が私を赦してくださったように、私に罪を犯す人を赦すことができますように。
Ⅰヨハ
3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。
私たちが故意に兄弟を憎むなら、それは殺人の罪です。
>自分の心に手を当てて、隣人を憎んでいないかを点検しましょう。イエス様の十字架の赦しをうけとり、自分を赦し、隣人を赦せるよう切に祈りましょう。
アーメン
隣人を憎んでいるところが、一点もありませんように。
もしも、赦したはずなのに、深層心理の中にまだあるのなら、どうぞ教えてください。
自分にはできなくても、主にはできることを感謝いたします。
主の血潮によってすべて赦し、聖められますように。
民数記の通読感謝致します。今、私たちも荒野を旅し、約束の地に入ろうとしているのですね。主に信頼していれば数週間で終わった旅でした。カディシュ・バルネアでの不信仰から、主に対する信頼と従順を要求されている旅だと学ばされます。
でも、従う事は喜びで、邪魔をしている自己中心やプライドは、十字架に付けられれましたから、出来ます。何度失敗しても出来ます。聖霊様の助けによって、み言葉を行う者になりますように。