シャローム!
さあ、今日からいよいよ出エジプト記が始まります。今まで一緒に読んできた創世記の歴史の上にこの書簡があります。ここで神様は私たちに何を教えてくださるのでしょうか。
出エジプトのメイントピックはその書簡名からも分かる通り、エジプトを脱出することです。兄弟の裏切りによりエジプトに売られたヨセフが神の好意で大臣となり、飢饉の時に家族を呼び寄せ、彼らがゴシェンの地で増え広がりました。
一見、とても優遇された環境で快適に過ごしていたのに、イスラエルの民は苦しみを覚えます。どうしてでしょうか?
今日もみことばに語っていただきましょう。
今日の通読箇所:出エジプト記1章~3章
■アウトライン
イスラエルの圧迫とモーセの誕生
●新しい民、新しい王:1章
・世代交代:1-7節
・新しい王の政治:8-14節
・助産婦:15-22節
●モーセの誕生:2章
・モーセの誕生と王女:1-10節
・おとなになったモーセ:11-15節
・ミデヤンの地、結婚、子どもたち:16-22節
・イスラエルの叫び:23-25節
●モーセの召命:3章
・神の現れ:1-12節
・神の御名と意味:13-22節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【1章】新しい民、新しい王
1-7節では、創世記から出エジプト記への橋渡しのような事が書かれています。ここで改めて12人の名前が出てくるのは、彼らからまた新しい事が始められていくという事です。
7節を見てください。創世記で語られた神様の約束が実現しています。その約束は今もなお実現し続けています。
出エジプト記の前半で頻繁に登場するパロは、ヨセフの時代のパロと別人です。8節を見てみてください。彼はどのような王でしたか?良い王様でしょうか?悪い王様でしょうか?もう、あの頃の平和なエジプトの姿はこの時代にはありませんでした。
9-10節を見て、新しいエジプトの王パロはイスラエルを恐れていますか?恐れていないですか?
また、その理由は何でしょうか?
12節は、イスラエルの民の力によるのでしょうか?それとも、神の好意によるのでしょうか?考えてみてください。
15節からは助産婦たちの話が出てきます。「産み台」とありますが、これは原語では「二つの石」と言う意味があります。不思議に思って調べてみると、当時は産婦が二つの石の上に座って分娩をしていたそうです。また、ふたつの石は男性の睾丸をも意味するとのことでした。
15節からは「男の子」が強調されます。長子の権利を奪う事がはじめからサタンの狙いです。ここでもその策略を見ることができます。
16節で王が助産婦にした命令はどんなものでしたか?次の節では、彼女たちはこの命令に従いましたか?
どうして彼女たちはそうしたのだと思いますか?
21節にヒントがありますので、考えてみましょう。
【2章】モーセの誕生
ここからは出エジプト記の主人公、モーセの誕生のエピソードです。1節を見ると、モーセは12部族のどの家系ですか?また、モーセの容姿はどのようなものだったでしょうか?
1章の背景を知って、2章3節を読むなら、モーセに施したこの一見不可解な行為も理解できるのではないでしょうか?
この箇所を読むとき、モーセの入れられたかごが、まるでノアの箱船のように思えましたが、みなさんはどうでしょうか?
そして、この行動に出た父と母の決心はどれほどだったでしょうか。一か八かの行動ですが、これもまた神様が両親に志を与えて、御旨を実行されたのでしょう。
6節、パロの娘はモーセに気づきます。2節に書かれているモーセの容姿も影響したのではないかかと思います。
7-9節では、モーセの姉のミリアムのナイスフォローです!女は創世記で「助け手」と書かれています。「エゼル」という単語ですが、それは「男がどうしようもないから、仕方なく助ける」という意味ではありません。エゼルとは神様が人を救済するときに用いられる動詞です。女は時に神に成り代わって人類を救済することがあります。この箇所もそうでしょうし、聖書にはその場面がたくさん出てきます。
今の時代、女は教会です。教会がその使命を全うすることができますように。
9-10節は神様の特別な配慮でしょう。この後、モーセはエジプトで帝王教育を受けます。しかし、その前に家庭で親からユダヤ的な思考、習慣、文化をたたき込んだでしょう。
10節を見ると「その子が大きくなったとき」とあるので、具体的な年齢はわかりませんが、ある程度の年齢まで、実の母親から愛情をたっぷり受けて育ったことが想像できます。
しかも、その間の賃金も支払ってもらえるという考えられないほどの好意です。
モーセの両親には復活の親交があったのでしょう。アブラハムがイサクを捧げたように、モーセを川に流しました。しかし、両親は神が必ずモーセを救ってくださると信じていたのでしょう。
その事が「モーセ」と言う名前にも象徴されています。モーセという名前はどういう意味ですか?
11節からは、モーセの過ちが書かれています。ヘブル人でありながらエジプトで帝王教育を受けていたモーセは、同胞のヘブル人がいじめられているのを見て、いても立ってもいられなくなりました。
その心は素晴らしいものですが、やり方が間違っていました。箴言19:2には「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。」とあります。このことを自分にあてはめてよく考えてみましょう。
結局、このことが原因でモーセはエジプトにいることができなくなって、ミデヤンの地にひとり逃亡します。モーセの心は躍っていたでしょうか?それとも不安でいっぱいだったでしょうか?考えてみてください。
16節からは、井戸で羊の世話をする女性に出会います。そして結婚し、子どもをもうけます。ひとときの幸せを味わっていたのかもしれません。
ちなみに、モーセの妻「チッポラ」は「小鳥」また「すずめ」という意味だそうです。チュンチュン!
23節、エジプトの王は死にました。
その時のイスラエル人の様子はどうでしたか?その叫びはどうなりましたか?私たちも同じような状況で神に向かって叫ぶなら、神はその叫びを聞き、御手を伸ばして私たちを救ってくださいます。神に向かって叫びましょう。
その叫びが長年忘れ去られていたアブラハム、イサク、ヤコブに与えられた契約を思い起こさせることになりました。
しかし、そもそもどうしてヨセフによって好意と尊敬をもたれていたイスラエルの民がこのようになってしまったのでしょうか?みなさんも考えてみてください。
これは私の考えですが、快適な生活、優遇される立場、与えられる仕事、守られている場所…。彼らから飢え乾きを奪い、現状に満足して、仕事と収入の事に心を奪われ、神を忘れて生ぬるい生活をしていたのではないかと思います。
神様は時には多生強引な手を使ってでも私たちを神の元へと引き戻してくださる良いお方です。
【3章】モーセの召命
出エジプト記の前半のハイライトです。この箇所だけで一冊の本が書けそうなほど大切な部分です。
モーセは神の山ホレブで燃え尽きない柴を目撃します。普段であったらあり得ない光景です。私が同じ状況だったら、二度見どころか、十度見くらいしてしまうかもしれません。そのように、神様は必要なときにはとてもわかりやすく現れてくださいます。
4節では神がモーセを名指しで呼ばれます。呼ばれたらそちらに言ってしまいそうになるものですが、神様は「ここに近づくな」と言われます。やはりモーセは動機は正しいのですが、やり方が間違っていました。
4節を見るとモーセはどのように燃える柴に近づいていますか?モーセは神の方法ではなく、自分の欲望で行動する性質があったのかもしれません。
ヨハネの福音書10:1には何と書かれているでしょうか?「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」
モーセはもう少し、神様から取り扱いを受ける必要がありました。しかし、その試練を乗り越えたとき、神様から大きな使命を与えられます。
5節の靴を脱ぐ行動はこの場所が特別な場所であることを表しています。裸足は奴隷の象徴です。ですから、「私はあなたのしもべです」と言う意味があり、間接的に神を高くし、敬う行動につながります。すなわち礼拝ですね。
6節では神様がご自分を紹介されます。その時、モーセの取った行動はどういうものですか?これをしないと死んでしまうのが常でした。
7-10節で、神からモーセの生涯を通して成し遂げる使命が与えられます。そのためにモーセはエジプトで帝王教育を受け、ミデヤンの地で忍耐を学びました。
それに対して、モーセはどのように答えましたか?これは私の想像ですが、あまりにも高いレベルの教育を受けていたモーセは様々なシミュレーションをして「無理!」と答えたのではないかと思います。
神からの命令は考えて納得して行う者ではありません。すぐに従うのです。ある意味愚かな行動に見えますが、神は愚かな者にご自身を表してくださるお方です。
14節は非常に重要な箇所です。神様ご自身がお名前をはっきりと告げられます。「わたしは、『わたしはある』という者である」。日本語で見ると、ちょっとふざけてるのかと思ってしまいますが、ヘブライ語で見ると、これは「ヤハウェー」というお名前になります。
ヘブライ語で「ヨッド」「ヘー」「ヴァーヴ」「ヘー」という聖四文字といわれる神のお名前です。
ヘブライ語は象形文字なので、その意味をこの名前に当てはめると、「ヨッド=手」「ヘー=見る」「ヴァーヴ=釘」「ヘー=見る」つまり、「手を見なさい、釘を見なさい」というのが神様のお名前です。
これが何を指しているかわかりますか?主は本当に素晴らしいお方です。
15節に「これが永遠に、代々にわたってわたしの名だ」と語られているとおり、現代のユダヤ人もこのお名前を恐れています。あまりにも恐れすぎるため、この四つの文字を書くことも、口に出すこともしません。
少しやり過ぎにも感じますが、異邦人である私たちはそれほどまでに神を恐れる彼らを見習う部分もあるでしょう。
この後、神様は彼らの苦難をすべて知っておられること、そして本当に具体的な指示をくださいます。そして、これから起こることも詳細に語ってくださいます。
現代において、神様は何を通して私たちに語りかけてくださいますか?夢ですか?燃える柴の中からですか?「主は言われる!」といって祈る預言者ですか?時にはそういうこともあるかもしれませんが、それらはほぼすべてが偽りであったり思い込みです。
神様は唯一、みことば中から語られるお方です。モーセに語ってくださったように、いや、それ以上の具体的な語りかけを主は今も私たちにみことばを通してしてくださいます。
生ける神、聖霊様が私たちの内に住み、絶えず取りなし、みことばを教えてくださるからです。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
以下のところにアクセスして、ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
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