シャローム!
みなさんは今まで生きてきて、何も問題にあたらなかったという経験をしていますか?生きていたら、大小様々な問題に遭遇します。そして、その問題を解決するのは面倒で労力がいることがあります。
しかし、いざ問題解決に取りかかってみると、意外にもあっさり解決してしまうことがあります。
出エジプト記は大きな目で見ると奴隷から解放され、救いを受け取り、その後どのように生きていくかが書かれている書簡です。
その中心人物、モーセも上のような体験をしています。今日の通読箇所で、モーセのいいわけに注目してみてください。何回も同じ言葉を繰り返して、神の使命から逃れようとします。
みなさんは問題に追いかけられ続ける人生を続けたいですか?それとも、主と共に勇気を出して問題解決に向かいたいですか?
今日もみことばから答えをいただいていきましょう。
今日の通読箇所:出エジプト記4章~6章
■アウトライン
作戦会議
●神との対話:4章
・モーセの権威のしるし:1-9節
・モーセのいいわけ:10-17節
・エジプトへの帰還:18-31節
●パロとの謁見:5章
・パロとの対話:1-9節
・パロの作戦:10-18節
・民の不満と訴え19-23節
●契約と救い:6章
・父祖たちの神:1-9節
・神の命令:10-13節
・アロンとモーセの系図:14-27節
・口べた:28-30節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【4章】神との対話
モーセは後にも先にもなかった、神様のお名前を直接上の口から聞くという体験をします。そして、これから起こることを告げられます。同胞のために殺人をするほどの正義感を持っていたモーセですが、こんどのミッションは事が大きすぎます。使命感と同時に不安もあったかもしれません。
1節「信頼せず」5節「信じるため」8節「信ぜず、信じる」9節「信ぜず」と、5回も繰り返されることばは「アーマン」という言葉です。そうです。「アーメン」の元となっている言葉です。これは、「単なる事実の承認を越えた、人格的な関係において長期的に継続して築かれた信頼」という意味があります。
これからイスラエルの民族に起こることは、神とモーセとの関係、モーセと民との関係が強固にされなければ実現しないことです。私たちはどうでしょうか?
2節、なぜか、私の大好きな1節です。あまりにも当たり前すぎるからです。主はモーセの手に持っているものを「あなたの手にあるそれは何か」と問われます。神様は杖をご存じなかったのでしょうか?
これはモーセに、「手にある物を認識させたかった」という神様のご計画でしょう。杖は権威を象徴します。モーセが持っている物をモーセの口を通して言わせます。「私の手には杖(権威)がある」と。
しかし、それは一度手放さなければなりません。それを投げると蛇になり、もう一度つかむと杖に戻りました。
ここに復活の信仰を見ることができます。権威を手放しましたが主の戒めに従って忠実に事を行うなら、主が権威を与えてくださいます。
主はこのところで「権威はあなたの手にあるが、それはわたしが与えた物だ」ということを教えられているのではないかと思います。
6節からは手がツァラアトになります。ここも復活の信仰があります。どういうことか考えてみましょう。
10節は、ある意味モーセに同情する箇所です。こういう経験は皆さんにもないですか?わかっていてもなかなか重い腰が上がらないこと。
夏休みの宿題とか、確定申告とかでしょうか?なにかにつけ言い訳をして逃れようとします。あまりにもそれがひどいと14節のようになります。気をつけましょう。
それでも神様は私たちを見捨てず、必ず脱出の道を備えてくださいます。モーセに与えられた助け手は誰だったでしょうか?
モーセは一度家に帰り、イテロに神からの事を告げます。もし、みなさんがイテロだったらと考えてみてください。いつもの日常生活を送っていたのに、突然婿が「神を見た。だから家族を連れてエジプトに帰る」と言い出したらどうしますか?「頭は大丈夫か?」と思うのではないでしょうか。しかし、イテロはどうしましたか?
さて、24節からは最大の山場です。私が最も理解できない聖書の箇所のひとつです。沢山の先生にこの箇所を質問してきましたが、誰も明確な答えをしてくれていませんし、どの書籍を読んでも納得できるものはありません。事を隠される神の誉れを覚えます。
多くの人は、モーセが割礼を受けていないので、この行為を行ったと言いますが、それは間違いです。なぜなら、モーセは幼少期に母の手で育てられたからです。
イスラエルの民は産まれて8日目に割礼を施していました。だから、モーセは割礼を受けています。
なぜ突然モーセに使命を与えた神がモーセを殺そうとしたか、なぜチッポラが突然このような行動を取り、「血の花婿!」と叫んだか、全くわかりません。ただ、主をほめたたえます。
【5章】パロとの謁見
ここではじめて、新しいパロとモーセ・アロンが対面します。闇と光のコントラストを見ることができます。
1節には、モーセとアロンはパロに出エジプトの理由を述べます。それはどういう物だったでしょうか?
「荒野で祭りをする」ということです。これだけ見ると、モーセとアロンはパロの前で緊張して、頭がおかしくなってしまったのではないかと思います。なぜなら、普通であれば「奴隷として苦しめられているからそこから解放してください」と言うはずです。
ここが大切です。主が出エジプトさせてくださる目的は荒野で祭りをするためです。言い換えるなら、主のみことばのあるところで礼拝を捧げるためです。
私たちもそのために救われました。人が造られ、最初に与えられた使命は何だったですか?この使命を忘れてはいけません。
結局、パロとイスラエルの最初の戦いはパロに軍配が上がったように見えます。
10節でイスラエルの民にされたことは何でしたか?また、同時に17節も見てください。これがサタンの戦略です。その戦略を見破ることができますか?ここで10-18節をよく見て、闇の力の戦力を読み取ってみてください。
答えは「忙しさ」です。現在の日本の長引くデフレ、またコロナ禍での営業自粛など、私たちが働きたくても働けない、同じ売り上げを上げたくても資材がないなど、多くの不利を被っています。
その中でも私たちに声が聞こえます。「もっと働け、もっと働け。そうでないとあなたは生きていけないぞ。さあ、睡眠を削ってでも、家族との時間を削ってでも働け。礼拝なんてしている暇ではない。生きていくために働け!」この声は本当でしょうか?何が一番大切なのでしょうか?この地上でのいのちと、永遠のいのち、どちらが大切でしょうか?神様はこのことを通してみなさんに何かを語りかけていないでしょうか?本当に大切なことです。人に与えられた本来の使命は何だったでしょうか?よく祈ってみてください。
【6章】契約と救い
パロとのファーストコンタクトは失敗のように見えました。目に見える現実が前よりももっと悪くなってしまいました。
私たちも経験したかもしれません。主を礼拝したいという思いが強くなれば強くなるほど、どんどん状況が悪くなっていくことを。
しかし、それは神様に愛されている証拠であり、正しいプロセスです。その中でも主を信頼できるかどうかを神はご覧になっています。ですから、目の前の状況に振り回されることなく、いつでも十字架を見上げて、主を信頼し続けましょう。
1節に「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる」と神は仰せられます。今起こっていることが理解できなくても、主に信頼し続ける、アーマンの信仰、忠実、真実なる方に信頼する生き方を実践しましょう。
6-7節は非常に重要なみことばです。ここに4つの動詞が出てきますが、それを書き出してみましょう。
(1)連れ出す
(2)救い出す
(3)贖う
(4)取る
これは過越の祭りの中でも語られます。詳しくはこちらのハガダに書かれています。
12節、なおもモーセは嫌がっています。いつものいいわけをします。「口べた」とは、「くちびるに割礼がない」という意味です。
14節からはまた系図が書かれています。系図の法則をここにも見ることができます。新しいことが始まっていきます。
28-30節、モーセは神の仰せに対してどう反応していますか?「またか!」と思うかもしれませんが、これは私の姿です。いつまでも主に従おうとしない私の肉の性質を十字架に前に持っていきます。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
昨日退院できました。悪いところは切除できたのですが、思ったより状態は悪く、関節の間が狭すぎてもう一つ期待していた縫合術はできませんでした。縫合術をして、環境をよくすると、人間の骨は生えてくるらしいのです。
今回、それは、かないませんでした。
でも主イエスの血潮によって、これから癒しという奇跡を見て、骨が生えてきてという証ができるとチャンスを作ってくださったと捉えるか、
たとえそうでなくても祝福され感謝のある人生を送れるという 証の為なのかわかりませんが、主は癒し主には変わりありません。
ここでも、教会でも本当に祈ってくださっています。
多くの祈りに支えられていることを力強く覚え心から感謝いたします。
さて、今日も分かち合いを挑戦します
モーセが、神の仰せの通りにしたのに、かえって状況が悪くなり、民の信頼を失って、心砕けそうになりつつも神に助けを求めた時の主の答えは、「私は主である」だったことに、
何か意味があるのか?主とはどういうことか?
もっと深い意味があるのか?と思いました。
6章1節で
神は私がしようとしていることが今に分かると言われ、
6章2節3節で、神はモーセに語り彼に仰せられた。「私は主である。
アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らに私を知らせなかった、と言われているけれど、
信仰の父祖たちは、すでに神を主と呼んでいたではないか?
今更、なぜ主と知らせた事が書いてあるのか?
このところを不思議に思ったのですが、
今までここまで読みとっていなかったことに気が付きました。
信仰の祖父アブラハムたちは、主が主であられること、
主の主権を知って認めていたのでした。
モーセの態度は、主の主権を本当の意味で知らず認めていない私自身に当てはまります。
まず神は祈りの答えとして方法などではなく、主がどのようなお方であるかをわきまえ知ることが問題を解決するポイントなのだと教えておられるのだと分かりました。
私よりはるか上の力が必要で、私自身には解決する想像ができないほどの大変な現実でも、神が創造者であり主権者であると体験的に知り、神のみ旨によって、主権をもって運ばれていくから、すべての主権者である神の約束であるから信頼しよう、信頼できない態度が自分に見られるなら、自分の中に神の主権を認めていない部分があるからなのだと、
まだ信頼できない部分のある私のことをご存じである神は、
「私は主である、約束を信じて立ち上がりなさい。」と何度もおっしゃってくださっているのだとわかりました。
信じようと思います。現実に振り回される弱い私ですが、できる限りのところで、一歩踏み出して、主と共に立ち上がっていこうと思わされました。