福音の二つ目の柱は罪です。
罪の定義
罪と聞くと、何を創造しますか?皆さんは自分が罪人だと思いますか?
「いやいや、自分は人を殺したこともないし、盗みもしたことないし。それなりにいい人として今まで生きてきたので、自分は罪なんか犯してないですよ。」と思うかもしれません。
確かに大きな罪は犯したことがないかもしれません。なぜそのようなことを思ってしまうかというと、罪の定義がしっかりしていないからでしょう。
聖書が示す罪とは何でしょうか。それは、一言で言うなら「的外れ」です。
創造の個所でもともに見てきましたが、人は神によって創造され、神のために存在しています。
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
コロサイ人への手紙 1章 16節
それでは、的外れとは何でしょうか。
それは、造られた私たちが、この人生を神様のためにではなく自分自身のために生きてしまうことです。一言でいうなら「自己中心」の生き方になります。
自己中心的な生き方
それでは、この罪の性質はいつ、私たちに入ってきたのでしょうか。教育の現場では、「人間は生まれながらにして純粋無垢な存在であり、悪い考えは成長の過程で入ってくる」と教えるそうです。本当にそうでしょうか?
生まれたばかりの赤ちゃんはとてもかわいい存在です。見ているだけで人を笑顔にさせる力があります。ところが、赤ちゃんは生まれてすぐ泣きます。
たとえば、赤ちゃんが生まれてすぐに「お母さま、私を生んでくださってありがとうございます。お疲れのところ、本当に申し訳ないのですが、私はおなかが減って仕方がないのです。ですから、あと、眠いのです。そして、狭いところから出てきたので体中が痛いのです。本当に申し訳ないのですが、ミルクを飲ませて寝かせていただくことはできませんでしょうか?」などと言ったりするでしょうか。
ちなみに、最近の研究によると、赤ちゃんが生まれてすぐに出す泣き声には三つの種類の意味があるそうです。それは「おなか減った」「痛い」「眠い」だそうです。
どれも自分が中心です。もちろん、それは自らの生命を維持させるための本能的なものかもしれませんが、中心は自分になります。ですから、人は生まれながらにして自分を中心にする性質を持っているということができます。
みことばにもそのことを見ることができます。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
詩編 51編 5節
ある人にとってはとても残念なことかもしれませんが、私たちは生まれながらにして罪の性質を持っていることを認めなければなりません。なぜなら、認めなければそれを取り去りたいと願うことすらできないからなのです。
罪は本当に恐ろしいものです。この世の中で神様の次に恐ろしいものが罪といってもいいかもしれません。静かなる毒のような罪の性質が気付かないうちに私たちの中に存在しているということを知るなら、それを一刻も早く取り去りたいと願うかもしれません。
これからしばらく、罪の恐ろしさを見ていけたらと願います。
今日のまとめ
人は生まれながらにして罪を持っている。その罪とは自己中心であり、的外れな生き方。