聖書通読クラブ Day 338

聖書通読クラブ Day 338【エペソ人への手紙 4章-6章】

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シャローム!

今日でエペソの通読が終わります。エペソ書はパウロの信仰が極まった書簡です。非常に深く、霊的な洞察が書かれています。その関係で、今日のコラムは少し長くなってしまいましたが、これでもこのエペソ書の恵みを語り尽くすことはできません。ぜひ、一人ひとりが知恵と啓示の御霊にみちびかれて、みことばから直接いのちのことばを受け取っていきましょう。

今日の通読箇所:エペソ人への手紙 4章-6章

■アウトライン

●神の聖霊を悲しませない:4章
  ・一つ:1-16節
  ・新しい人を着る:17-24節
  ・心の優しい人になる:25-32節

●御霊に満たされる:5章
  ・愛の内に歩む:1-2節
  ・光りの結ぶ実:3-21節
  ・妻たち夫たち:22-33節

●神の武具を身につける:6章
  ・子どもたち父たち:1-4節
  ・奴隷たち主人たち:5-9節
  ・神の武具:10-20節
  ・結びの挨拶:21-24節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【4章】神の聖霊を悲しませない

・一つ:1-16節
パウロは、ここでは自分のことを「主の囚人」と呼んでいます。彼はここで何を勧めていますか?私たちはひとりひとり違います。主がその様に造られました。ですから、召しも違います。自分の召しを見いだし、そこに歩むことができるのは幸いなことです。
そのような違った器が、どうすることが勧められていますか?2-3節を見ましょう。
また、3節から6節まで、「一つ」ということばが繰り返されます。何が一つなのか確認してみましょう。これが神のご性質であり、願いです。これは人間的な一致ではなく、私たちが熱烈に神を求めた結果、神が与えてくださる一致です。
この唯一の神が、私たち一人ひとりに違った賜物の量りに従って、恵みを与えてくださいました。そのために、神の御子が天から地に下ってきてくださり、そして再び上げられました。このお方が教会に5つの役職を与えてくださいました。それは何でしょうか?11節を見ましょう。これは「五役者(ごえきしゃ)」とも呼ばれます。現代では使徒と預言者はいないとおもいますが、それ以外は教会におられるのでは無いかと思います。この五役者を指に例えて覚えることができます。使徒は親指です。他の指と動きが違っていますが、力があります。親指があるから、物をつかめます。使徒とは時には孤独ですが、欠かせない存在です。預言者は人差し指です。神からのみことばを受け「あっちだ」と指し示すからです。伝道者は中指です。指の中で一番長いので、誰よりも先に出ていって福音を宣べ伝えます。牧者は薬指です。指の中で最も繊細な指と言われ、かつてはその繊細さを生かして薬を塗るのに最適な指とされていました。人々の心に寄り添い、敏感に感じ取り、神様の心を解き放ちます。教師は小指です。手全体のバランスを取ります。字を書くときも、小指を支点としてバランスを取ります。健全な教えが教会全体のバランスを保ちます。この五役者が教会に回復しますように。
また、主がこの五役者をお立てになった目的は何でしょうか?12-13節を見ましょう。そうです。私たちはここを目指すべきです。日本は社会全体が子どものままでいたいという風潮があります。しかし、私たちはキリスト者として、信仰の成熟、完全なおとなを目指しましょう。そうして、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。それがキリストの花嫁としての生き方です。
では、完全なおとなとは、具体的にはどのような状態でしょうか?14-15節を見てみましょう。人のした悪を思わず、愛を持って真理を語ることです。
一人ひとりがそれを目指して歩むなら、主が導いてくださり、16節に書かれていることが達成されます。

・新しい人を着る:17-24節
パウロは、おとなになるためにもう一つのことを言います。それが異邦人がむなしい心で歩んでいるよな歩みをするなということです。では、それは具体的にはどのような状態でしょうか?18-19節を見てみましょう。これらを行っているなら、私たちは主に願い、悔い改めましょう。
もし、信仰を持ってもなお、このような歩みを続けているのなら、21節にあるように、キリストに聞いておらず、教えられてもいないということになります。では、その教えとは何でしょうか?二つのことが書かれています。一つは古い人を脱ぎ捨てることです。どのような古い人でしょうか?もう一つは新しい人を着ることです。それは何を持って誰にかたどり造り出された者でしょうか?

・心の優しい人になる:25-32節
キリストのからだの一部として、また私たちが成長するためにする具体的な行動は25節にもあります。何を捨て、何を語る必要がありますか?
また、26節を見ましょう。キリスト者は柔和で全く怒らない者でしょうか?もちろん、それが理想ですが、ダビデも詩篇の中で何度も怒っています。しかし、26節を見ると、聖書は怒ることを許容しています。しかし、条件があります。怒っても、なにをしてはならないとありますか?また、いつまで憤っていてはならないとありますか?もし、私たちが怒りを抱いたまま睡眠を取るなら、その怒りが脳の深い記憶の領域に刻まれてしまいます。私たちが悔い改めたとき、イエス様はあえて私たちの過去の過ちを忘れてくださったように、人のした悪を思わない信仰を建てあげていきましょう。
もし、26節のようなことを放置しているとどうなるでしょうか?27節を見ましょう。みことばに従わないことは、悪魔に機会を与えていることになります。また、28節、ザアカイがしたように、人々から盗む癖がある者、また神様から盗む者は自分の手で正しい仕事をして稼ぎなさいとあります。それは何のために働くのですか?自分のためですか?私たちは今の仕事を一生懸命成し遂げ、これを実践していきましょう。
29節は私たちが最も気をつけなければならないことです。口のことばです。何を口から出してはならないと書かれていますか?もし、口から出すのであれば、いつ、何を話し、聞く人にどうする必要がありますか?前者は自分の心が満足するでしょう。しかし、後者は隣人と神様が満足します。どちらが良いでしょうか?
ここから30節につながります。口のことばを改めないなら、誰が悲しまれますか?また、何を捨て去る必要がありますか?そのことで、隣人に対してどのように接することができるでしょうか?とても高い基準ですが、ここを目指していきましょう。

【5章】御霊に満たされる

・愛の内に歩む:1-2節
私たちは神に愛されています。ですから、何らしく、どのような者となる必要がありますか?子どもは親に似ます。私たちの父が天の父なら、そのお方に似ていくのです。
また、何の内に歩む必要がありますか?イエス様はヨハネ15章で、ぶどうの木のたとえを話してくださいました。また、17章の後半ではひとつになることを祈られました。このお方にとどまり、このお方が歩まれたように私たちも歩みましょう。

・光りの結ぶ実:3-21節
私たちの間の口のことばが、ここにも書かれています。三つの事を口にすることがいけないと書かれています。それは何ですか?
また、友人とジョークを言うことは楽しいのですが、行き過ぎてはいけません。4節に書かれている三つのことは「いけないこと」と規定されています。私たちはこれを普段の生活から意識し、私たちの内から締め出して行きたいと願います。これらの事の代わりに、私たちにできることがあります。それは何でしょうか?そうです。感謝です。
5節では、三つの性質が書かれています。聖書はこれを「偶像礼拝者」と呼んでいます。これらは神を中心としていたら起こらないことです。どれも、自分を中心にしているから起こることです。こういう人はどうなると5節の後半にありますか?
何を聞き、何を口から出すかは非常に重要です。私たちはむなしいことばにだまされないようにしましょう。実は、こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。不従順とは、みことばに従わない者です。その様な者は暗やみを歩く者です。しかし、私たちは今は主にあってどうなっていますか?光りの結ぶ実は何ですか?
11節では、実を結ばない暗やみのわざにどうしてはならないと書かれていますか?むしろ、それをどうする必要がありますか?隠すのはサタンの性質です。コソコソ行うことは神の子のすることではありません。彼らがひそかに行っていたことは、口に出すのも恥ずかしいことでしたが、それが明るみに引き出されたら、何によって明らかにされますか?これは自然現象でもよくわかると思います。キャンプに行って真っ暗な中では何も見えませんが、わずかな光りでも差し込むなら道や回りの様子がわかります。明らかにされたものはみな光りです。そのために私たちは目を覚ます必要があります。最も強い光であるキリストが私たちを照らしてくださいます。
また、16節には、今はどのような時代だと書かれていますか?そのために、機会を十分に生かして用いる必要があります。愚かにならず、主のみこころが何かを絶えず悟らせていただきましょう。
18節、酒に酔ってはならないとあります。そこには何がありますか?酔っ払うと自制を失います。自制は御霊の実のひとつです。その代わりに私たちは何に満たされる必要がありますか?これを求め続けましょう。
また、19節には三つの賛美が書かれています。詩はみことば、賛美は主をほめたたえる行為、また霊の歌とは、そこから与えられる主からのインスピレーションで歌われる即興的な賛美です。これを持って互いに語ることが大切です。また、主に向かってはどうしなさいと書かれていますか?
人にしてもらった良いことに対して、ことばや形でお返しすることを感謝と言います。これが神に向かうなら賛美になります。私たちは、どのような事をイエス様の名によって父に感謝する必要がありますか?それに例外はありません。ですから、すべてが感謝です。
そのような生き方をどのようにすれば実現できるのでしょうか?それが21節です。主を恐れること、これが知識のはじめであり、知恵のはじめです。

・妻たち夫たち:22-33節
ここからは、様々な人に向けてパウロがメッセージを語ります。まずは妻たちです。妻の生き方はどのようなものでしょうか?22節を見ましょう。現代では、このような考え方は古いと感じるかもしれません。しかし、それはあなたの意見です。これは聖書が言っていることです。自分の意見と聖書の言っていること、どちらが正しいでしょうか?どうして妻はこのようにする必要があるのでしょうか?24節を見ましょう。
また、夫に関しては25節からです。夫は妻をどうする必要がありますか?妻に対して、また、夫に対して、どうしてわざわざこのような事を言っているかというと、多くの人は自然にこの事ができないからです。もし、これができるのであれば、家庭の中で争いは起こらないはずです。神様が建てられた秩序がこれであり、それに従うからです。
そして、26節からはキリストが教会にして下さった事が書かれています。何により、何の洗いを持って教会をきよめて聖なるものとされましたか?つまり、みことばは水です。この事を通して、教会をしみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、主の御前に立たせるために、このようにして下さいます。同じように、夫は自分のからだのように妻をいたわり、愛する必要があります。自分のからだが痛めば、なんとかしたいと思うでしょう。同じように、妻が傷つき、苦しむなら夫も同じ所に立ち、共に歩む必要があります。これは聖書が言う夫の務めです。わたしたちは、キリストのからだの部分です。
パウロはここでも奥義を話します。しかも、偉大な奥義と言っています。それは何でしょうか?人が妻と結ばれて一体となるということです。更に、これはキリストと教会を指して言っていると言っています。それを加味して、もう一度22節から読み返し、男をキリスト、妻を教会とあてはめて読み返してみましょう。
そして、パウロはそれはそうとして、おのおの自分の妻を自分と同様に愛すことを再度命令しています。また、妻は夫を敬うことを勧めています。これを(たとえいやでも)実行しましょう。妻は夫をもっとほめてあげて下さい。靴下を洗濯機に持っていっただけでもほめてあげてください。食器を洗って、それが不完全であったとしてもほめてあげてください。何のほめる理由も見つからないときは、存在時代をほめてください。たったそれだけのことで夫は輝きます。だまされたと思って実践してみて下さい。
また、夫は妻を必要以上に愛してみましょう。どのようにしてでしょうか?忍耐をもって、ただひたすらに話しを聞くのです。スマホをうつ伏せにして、妻の目を見て、適度にうなづき、話しを聞くのです。絶対に途中で自分から話し出してはいけません。ただ聞くだけです。それだけで、驚くほど家庭の中は円満になるはずです。この事を実践して、神様が願われる「非常に良い」家庭を目指しましょう。

【6章】神の武具を身につける

・子どもたち父たち:1-4節
ここでは子どもたちに対するすすめです。主にあってどうしなさいと書かれていますか?これは年齢は関係ありません。みことばにははっきりと「これが正しいこと」と書かれています。ところが2節を見ると、疑問符が浮かばないでしょうか?「あなたの父と母を敬え」というのは確かに十戒の一つですが、十戒の第一の戒めは「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」(出エジプト20:3)のはずです。それがどうして父母を敬うことが第一の戒めなのでしょうか?十戒は二枚の板に刻まれました。一方は神を愛することに関して、そしてもう一方は隣人を愛する戒めと見ることもできます。その隣人を愛するという人に対する戒めの第一が「父母を敬え」なのです。そして、この戒めが神への戒めと人への戒めをつなぐものとなります。それほど重要な事なのです。
人はどのような場合でも、地上に存在するなら必ず両親がいます。たとえ愛することが難しくとも、顔も見たことを無くとも、必ず両親が存在します。この戒めに従うなら、どのような報いがあるのでしょうか?3節を見ましょう。
また、父たちにはどのようなすすめがあるでしょうか?「子どもをおこらせてはいけない」とは、いらだたせてはならないと言う意味です。たとえば、一度注意して子どもが言うことを聞かなければ、何度もねちねち指摘し続けるような事です。子どもでも人格があります。ひとりの人間として、親であってもある意味尊厳を持って接する必要があります。親は自分の感情を子どもにぶつけるのではなく、愛を持って接する必要があります。主の教育と訓戒によって育てる事が大切です。それはみことば教育です。家庭で、親が子どもにみことばを教えるのです。これ以上の教育はありません。

・奴隷たち主人たち:5-9節
続いては奴隷たちに向けられています。日本に於いて、今の時代は奴隷はないかも知れませんが、もしかしたら会社に勤務している人にあたるかもしれません。奴隷にはどのように言われていますか?5-7節を見ましょう。学校で、会社で、このように仕えるなら、上司を喜ばせる以上に、神様を喜ばせる生き方ができるでしょう。8節にそのことが約束されています。
また、主人に対してはどのように言われているでしょうか。9節を見ましょう。主は人を差別されるでしょうか?もしみなさんが人を雇用する立場なら、このような視点を持って会社を経営してみましょう。

・神の武具:10-20節
パウロはこの手紙を終えようとしています。そこで、「終わりに言います」と言っていますが、どうされなさいと書かれていますか?どうしてそのことが必要なのでしょうか?11節を見ましょう。悪魔には策略があります。しかも、悪魔は巧妙です。これに立ち向かうために必要なのが神の武具です。武具は戦いのためにあります。では、私たちの戦いはどこにあるでしょうか?12節を見ましょう。4つの事が書かれています。これはどこを調べても出てこないのですが、私が祈りの中で受け取った啓示です。間違っているかも知れませんが、とても興味深いことを分かち合います。それは、ここに書かれている四つの事は福音書に対応していると言うことです。主権はマタイの福音書です。王としてのイエス様をテーマに書かれているからです。力はマルコ福音書です。マルコは牛に例えられます。牛は力強い動物です。また、この暗やみの支配者たちはルカの福音書です。ルカではイエス様の人の子としての側面が強調されています。このお方が暗やみの支配者を打ち倒します。そして天にいるもろもろの悪霊はヨハネの福音書です。ヨハネの福音書は、わしがシンボルです。ヨハネの福音書は他の福音書と違い、少し時間が経って書かれました。聖霊様とキリストの神性が強調されています。それは空から地を見下ろすようです。このように、四つの福音書で、血肉ではない者と戦うことができます。
さあ、ここから神の武具を身につけていきます。しっかりと立ちましょう。まずは腰に何を巻きますか?真理はみことばです。腰は中心を意味します。私たちの中心をみことばで覆っていただきましょう。
次は胸に正義の胸当てを付けます。イエス様が正義です。このお方を胸に抱きます。足には何をはきますか?私たちの歩みがいつも福音、神の道を歩くことができます。これらすべてのものの上に何を取りますか?それによって何を防げますか?これはサタンがしむけた人々からの間違った否定的なことばも含まれます。信仰の大盾はそれからも守ってくれます。頭には何を被りますか?私たちはイエス様によって救われたという確信を頭に置く必要があります。その上で何を受け取りますか?これは唯一の武器です。神のことばは剣です。その他の武具は自ら身につけますが、この武器だけは受け取ります。実はこの後、もう一つ隠れた神の武具があります。それが18節です。それが祈りです。どんな時にも何によって祈る必要がありますか?そのためには絶えず目を覚ましていなければなりません。
しかし、私たちは油断するとサタンの武具を身につけてしまいます。まず、サタンは人に傷を付けます。その方法は、誰かのことばをサタンが一度キャッチし、そのことばが弾丸になるかどうかを素早く判断します。少しでも仕えるようでしたら、それを弾丸の形に変え、ことばをうける人の心の状態をスキャンし、一番弱い所を見つけます。そこにことばが変形した弾丸を撃ち込むと傷ができます。
そこからサタンの武具が着せられていきます。傷によって生まれた得たいの知れない恐怖により、絶えず人間関係に対する恐れを持って福音と反対方向に歩いて行きます。
次は傷を包み、保護するための自己憐憫の防弾チョッキを来ます。これはただ自分の思いだけに集中させ、天から注がれる祝福やしるしがあっても感じることができなくなります。三つ目は、劣等感と防衛本能を克服するために、あえて傲慢のヘルメットをかぶります。これは神のみことばを跳ね返してしまいます。傲慢のヘルメットにはオプションで非真理のゴーグルがついてきます。みことばを読むとき、自分の欲望を満たす所だけがハイライトされ、それ以外は何も見えず、曲解されてしまいます。それなのに、自分は聖書をちゃんと読んでいると思ってしまいます。それらが全てそろうと、判断のピストルが与えられます。銃弾には人を非難し、罪に定める機能があります。そのピストルによって人を傷つけ、またその傷つけられ他人がサタンの武具を身につけ、ピストルを持ち他の人に弾丸を放つという負の連鎖が起こります。恐ろしいことです。この悪循環を止めるのは誰でしょうか?神の武具を身につけた大能の力によって強められたキリスト者です。
もし可能であるなら、とりなしや霊的な戦いの前に、このみことばを朗読し、神の武具を身につけてから祈り始めると良いでしょう。

・結びの挨拶:21-24節
パウロはテキコを遣わして、パウロの様子を伝えさせます。それによってエペソの人も励ましを受けることができるのです。テキコは主にある兄弟であり、忠実な奉仕者です。
そして最後に、パウロは祝福を祈ります。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛を持って愛するすべての人の上に、恵みがありますように。


(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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