聖書通読クラブ Day 329

聖書通読クラブ Day 329【コリント人への手紙 第一 10章-12章】

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シャローム!

今日の通読箇所は、具体的かつ、私たちの信仰生活にとって、非常に重要な箇所となります。特に聖餐式、そして御霊の賜物について語られています。これらは初代教会で行われていたことです。しかし、長い歴史の中でこれらが少しずつ変化していった部分もあります。
様々な考えや教えを受けてきたかも知れませんが、今一度、みことばが何を言っているかと言う所に立ちたいと思います。自分の固定観念を一度捨て、聖書が何を言っているかを受け取っていきましょう。今日も知恵と啓示の御霊に導かれていきますように。

今日の通読箇所:コリント人への手紙 第一 10章-12章

■アウトライン

●偶像にささげられた肉:10章
  ・試練と脱出:1-13節
  ・偶像礼拝を避ける:14-22節
  ・神の栄光を現すために:23-33節

●パンと血:11章
  ・かぶりもの:1-16節
  ・主の聖餐:17-34節

●御霊の賜物:12章
  ・イエスは主です:1-3節
  ・同じ御霊:4-11節
  ・キリストのからだ:12-31節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【10章】偶像にささげられた肉

・試練と脱出:1-13節
パウロはここで父祖たち、つまり荒野で生活していた時代を語ります。彼らは何の下にあり、どこを通って行きましたか?それらはモーセのバプテスマだと書かれています。
また、彼らは何を食べ、何を飲んでいましたか?それは別々の物ですか?特に、彼らは何から飲みましたか?それは何を指していますか?それにも関わらず、大部分は神のみこころにかなわず、荒野で死にました。これらの事は私たちにとって何だと6節にありますか?
だから、パウロは偶像礼拝者になるなと言います。モーセが山に登っている間、アロンが金の子牛を作り、その周りで民は戯れていました。その様子が7節後半にあります。8節には、この事が姦淫だと書かれています。姦淫を行ったとき、一日に何人死にましたか?また、生き残った者も主を試みました。その結果どうなりましたか?
また、つぶやいた者もいます。彼らはどうなりましたか?
これらが起こったのは何のためでしょうか?私たちにとってどのような意味があるでしょうか?11節を見ましょう。
だから、今立っていると思っている者は倒れないようにしなければなりません。しかし、それは辛いことでもあります。ですから、13節のような慰めがあります。神は試練に対して、どのようにして下さいますか?今、みなさんが直面している試練もこれが当てはまります。神様の恵みに拠り頼みましょう。

・偶像礼拝を避ける:14-22節
パウロはこれらの教訓から、偶像礼拝を避けることを勧めています。そして、ここからは賢い人に話すように話すと言っています。より、深い内容が語れます。
祝福の杯、裂くパンは、それぞれ何に預かることですか?いのちのパンはひとつです。そして、私たちも神に造られた一つのからだです。ですから、私たちは同じ一つのパン、すなわちイエス・キリストのみことばを食べ続ける必要があります。
しかし、もう一つの食べ物が存在します。それが偶像にささげられた肉です。20節を見ると、偶像にささげられた肉は何にささげられていると書かれていますか?その結果、何と交わりますか?
私たちは一つの杯しかあずかることができません。もし、私たちが主のものでない方を選ぶのであれば、主のねたみを引き起こしてしまいます。そして、その行為は神よりも自分の方が強いという意味になります。

・神の栄光を現すために:23-33節
パウロはすべての事をしても良いと、自由を宣言しています。しかし、だからといってすべてが有益とは限らないと書かれています。そうならないために、どうすれば良いのでしょうか?24節を見てみましょう。これが隣人を愛することにつながります。
また、市場に打っている肉は、そこに並ぶまでにどのような課程を通ってきたかわかりません。それをいちいち調べなくて良いと語っています。なぜなら、26節にあるように、すべてのもの主のものだからです。
また、同様に信仰の無いものの言えに招かれた時、目の前に出された物は何でも食べるように書かれています。それをいちいち「これは偶像にささげられていませんか?どのように加工されましたか?」と聞くことは失礼にあたります。
しかし、そこにいる誰かが「これは偶像にささげた肉です」とあえて言うのであれば、何のために食べるなと書かれていますか?それは自分の良心ではなく、他の人の良心です。これを言った人は気をつかって、汚れた物を食べないようにあらかじめ言ってくれたのかも知れません。もしくは、わざわざ「これは偶像にささげられた肉です」と言われているのにそれを知っていて食べるなら、信仰の弱い者につまずきを与えるかも知れません。そのように、自分の良心ではなく他人の良心のために食べるべきではありません。
そのように、何をするにしても私たちが念頭に置いておきたいことは、どうすれば神の栄光を現すことができるかということです。隣人につまずきを与えてはいけません。その理由と、ここまでのまとめが33節です。朗読してみましょう。そして、これを実践してみましょう。

【11章】パンと血

・かぶりもの:1-16節
私たちの目標はイエス様です。しかし、そこにまで到達するには遠すぎる目標かも知れません。そこで、パウロは自分を見習いなさいと言っています。
2節では、パウロはコリントを称賛しています。何について称賛していますか?しかし、その中から知って欲しいことがあるというのです。それは何ですか?これは神が定めた秩序です。現代では、男女の平等が謳われており、このような考えは今の時代にそぐわないかも知れません。しかし、神の定めはこの通りです。
そして、ここから話題はかぶり物に関して語られていきます。男性、女性はそれぞれどうすることが勧められていますか?
中東地域の女性は髪を隠します。それは、男性が女性の美しい髪を見て、情欲を抱くことを防ぐ目的があるそうです。私たちにはピンと来ないかも知れませんが、彼らにとって女性が髪を隠さないで外を歩くのは、まるで下着で外を歩いているように映るようです。ですから、かぶり物をせずに歩いている女性は遊女が多かったようです。
ところが、一部の上流階級の女性は自由や権利を主張する意味でかぶり物を付けない人もいました。また、信者の女性もかぶり物を外して礼拝し、祈ったり預言をしたりしていました。もし、未信者がその様な姿を見たらどうでしょうか?私たちの感覚に置き換えるなら、「私は自由だから、下着姿で礼拝をささげましょう!」と言い、集まっているのを未信者が見たらどう思うでしょうか?強い違和感を覚え、つまずきとなってしまうでしょう。
ここでパウロは、神の秩序に従うことを提案します。もう一度3節を見てみましょう。これは女性が劣っていると言っているのではありません。神の目には男性も女性も同じ尊い器です。同じ尊厳ですが、秩序のためにこのような形を主は取られました。12節にあるように、どちらが欠けてもどちらも存在できません。すべては神から出ているのです。
また、13節からは、神の秩序と共に、自然に考えても恥ずかしいことではないかと言っています。今の時代「男性は髪が短く、女性は髪が長いというのは偏見ではないか」と訴える人たちもいるかもしれません。また、ファッションでそのようにしているかもしれません。それはそれで良いと思いますが、神のみことばはこのように言っていると言うことだけは知っておきましょう。そして、それぞれが判断すれば良いと思います。ポイントは、何が主の栄光を現すことかということです。
また、だからといって全ての教会の礼拝で女性がかぶり物を付ける必要があるかと言えば、そうでもないと思います。それはそれぞれの教会の牧師先生の指示に従って下さい。それが祝福となると信じます。

・主の聖餐:17-34節
ここからは、先ほどと逆に叱責が書かれています。その理由はなにでしょうか?17節後半を見てみましょう。具体的には「分裂」です。しかし、パウロは分裂をはなから否定していません。分裂によって何が起こると書かれていますか?19節を見てみましょう。
コリントの教会では、聖餐式に集まるとき、空腹でやってきて、そこで思う存分飲み食いしていた人がいました。パウロは、聖餐式はそのような場所ではないと戒めています。聖餐式は自分の腹を満たすためのものではありません。それはどのような物でしょうか?23節からを見てみましょう。
24節にはパンは何だと書かれていますか?また、25節には杯は何だと書かれていますか?これは聖餐式の時に読まれるみことばでしょう。聖餐式のルールは、それぞれの所属教会の牧師先生の指示を仰いで下さい。しかし、個人的には聖餐は家庭でも、小さな集まりでもできるのではないかと思っています。初代教会の時代、そのようにしていたからです。しかし、これは本当に教会によって様々な考え方がありますので、所属教会の牧師先生に聞いてみましょう。
とにかく、このパンと杯にあずかるとき、何を告げ知らせると27節にあるでしょうか?つまり、主の十字架です。ですから、ふさわしくないままで聖餐にあずかるなら、自分自身ではなく、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ではどうすれば良いのでしょうか?聖餐にあずかるときは、自分を吟味し、そのうえで聖餐にあずかるといいでしょう。
もし、わきまえないで飲み食いするならどうなると29節にありますか?聖餐式は自分の腹を満たす集まりではなく、主の十字架を覚える時です。もし、空腹ならその前に家で腹を満たしてから、聖餐に参加しましょう。

【12章】御霊の賜物

・イエスは主です:1-3節
ここからは、御霊の賜物について語られます。パウロは、ぜひ、次の事を知っていただきたいと言っています。それは何でしょうか?2節には以前の私たちの姿が書かれています。しかし、救いに入れられた今はどうでしょうか?神の御霊によって語る者は何と言わず、聖霊によるのでなければ何と言うことができないと書かれていますか?
これから様々な賜物が出てきますが、これが最も偉大な賜物です。救いの賜物です。イエス様を信じたとき、私たちの内に御霊が来て下さいました。このお方が内におられるという確かな証拠は、私たちが「イエス様は私の主です」と言えるかどうかです。これは自分の力ではなく、御霊の働きによる賜物です。私たちはこのような偉大な永遠のいのちという賜物をいただいているのですから、それだけでも感謝するに十分です。

・同じ御霊:4-11節
賜物や奉仕は様々ですが、その源である主は同じ主です。その主がおのおのの必要に応じて、賜物を送ってくださいます。それは何のためでしょうか?7節を見てみましょう。
8-10節には賜物の種類が具体的にあげられています。いくつあるでしょうか?簡単にそれぞれの賜物の特長を書いておきます。

・知恵のことば:みことばから問題を解決する知恵(未来の事)
・知識のことば:情報、歴史、過去の出来事を伝え確認する力
・信仰:特別な信仰(人々の信仰を奮い立たせる力)
・いやし:肉体的、精神的な超自然的な回復
・奇跡を行う:超自然的な現象を体験する力(例:水の上を歩く)
・預言:神のみことばから、人々を建てあげることばを発する力
・霊の見分け:みことばによって神か、悪霊か、人からかを見分ける力
・異言:人にはわからないことばで祈る力
・異言の解き明かし:異言で祈る人のことばを読み取り、人に伝える力

これらはすべて同一の御霊がさせてくださることです。ですから、人によっては9つ全ての賜物が与えられているかもしれませんし、ある人は一つかも知れません。しかし、その量によってその人が評価されるのではありません。主はみこころのままにそれらを分け与えてくださるのです。

・キリストのからだ:12-31節
この賜物を、パウロは体に例えます。私たちは単細胞生物ではありません。様々な複雑な臓器や器官が集まり、今生かされています。キリストもそれと同じだと言っています。神様のデザインはなんと素晴らしいのでしょうか。人種は関係なく、信じる者は同じ御霊によってバプテスマを受け、同じ御霊を飲んでいます。
私たちの体を考えたらよくわかります。私たちの足が「手じゃないといやだ」と言って離れていくでしょうか?耳が「目でないから、いやだ」と言って離れていくでしょうか?いくら傾聴力を高めたいために、全身耳にしても、それは意味がありません。私たちのからだの器官は必要な機能がひつような場所に置かれています。神の完璧なデザインです。そこには何一つ無駄がありません。私の友人の外科医が、以前、手術を終えてすぐに教会の礼拝に来ていました。その人は私に「人間の体を手術するたび、神様は本当にすごいなと思うんだよ。こんなに沢山の臓器がこんな小さな所に効率よく配置されてるなんて、偶然なんかじゃない。神様は本当に素晴らしいお方なんだよ」と語ってくれたことを思い出します。そうです。信じる者はみな、キリストのからだに属する者です。何一つ無駄はありません。
しかも、神は弱く見える器官を大切にして下さっています。髪型やメイクは気にしますが、腸の美しさを誇る人がいるでしょうか?ところが、メイクしなくても死にませんが、腸の調子が悪いと死んでしまいます。このように、主は全体を見て調和を保って射手下さっているのです。
体の一部分が苦しめば、全身が同様に苦しみます。そのように、私たち信じる者はひとつのからだですから、共に担いあいって、とりなしあって、キリストのからだの成長と完成を目指していきましょう。
そのために、28節にあるように、五役者という職を定めています。これは神の国の秩序を守るためです。どのような役割があるでしょうか?28節を見てみましょう。これらは主のみこころのままに、おのおの分け与えられているものです。ですから、お互いを尊重し、尊敬しましょう。そこに一致があります。
また、パウロはさらにさまる道を示すと言っています。それは何でしょうか?明日の通読に続きます。


(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

2件のコメント

  1. [ふさわしくないままで聖餐にあずかるなら、主のからだと血に対して罪を犯すのである。もし、わきまえないで飲み食いするなら自分にさばき招く。」と。

    悔い改めてから聖餐に預かる必要があり、それは救いに関わる事だと思っていましたが、パウロは隣人への愛、正しい聖餐式の意味を教えているのですね。この時代の背景を知り、パウロが全体を通して何を語っているのか、それが今の私達にどう教えているのか、通読の大切さを噛みしめています。

    本当に悔い改めが出来ているだろうかとドキドキしながら頂くのではなく、主の十字架と復活を覚え、感謝して主を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、パンとぶどう酒を頂きます。

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