シャローム!
今日の箇所は、罪に関して、また恵みに関しての箇所が多く出てきます。罪は恐ろしいものです。なぜなら、肉体の死ばかりでなく、永遠の死へと私たちを導くからです。これは、人の力で取り除くことはできません。一度死ななければどうにもならないものです。
しかし、神は驚くべき方法をとってくださいました。罪のない神の御子を人のからだをもって地上に送り、このお方に全人類の罪を背負わせ、身代わりに死なれました。それだけではなく、死から復活され、今も生きておられます。
この事を信じる者は、この復活にあずかることができます。これがどれほど偉大なことであり、素晴らしいことであるかを直接みことばから受け取っていきましょう。今日も知恵と啓示の御霊を歓迎し、通読していきましょう。
今日の通読箇所:ローマ人への手紙 4章-6章
■アウトライン
●信仰による義:4章
・肉の父祖アブラハムの場合:1-25節
●律法と恵み:5章
・希望は失望に終わらない:1-11節
・恵みによる支配:12-21節
●罪の報酬、恵みの賜物:6章
・キリストと共に死に、共によみがえる:1-11節
・自分自身を神にささげる:12-14節
・罪の報酬、神の賜物:15-23節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【4章】信仰による義
・肉の父祖アブラハムの場合:1-25節
ここでは、イスラエルの信仰の父祖、アブラハムが取り上げられています。彼は信仰の父とも言われています。もし、彼が行いで義と認められたら、その功績はアブラハムにあります。ところが、聖書は何と言っているでしょうか?3節を見ましょう。
働いた者には報酬として賃金が支払われます。それは恵みではありません。5節が恵みです。何が義とみなされますか?
続いてはダビデの引用があります。これは割礼についてです。アブラハムは割礼を受ける前に義とみなされたのか、割礼を受けた後に義とみなされたのかという論点です。どちらだと思いますか?11節を見てみましょう。彼は無割礼の時も信仰を持っていました。そうして、全ての者の信仰の父となります。
アブラハムには創世記12章で「あなたの子孫は星のように増える」と神様からの約束を受け取りました。それは律法ではなく、信仰の義によったものです。もし律法による者が相続人だったらどうでしょうか?14節を見ましょう。
また、律法は怒りを招くと16節にあります。しかし、同時に律法があるので違反が明らかにされます。スポーツもルールがあるから成立します。何がルール化が明確でないなら、スムーズな運営はできません。今までの話を16節でまとめています。読んでみましょう。
アブラハムはいつ、望みを抱いて信じましたか?これが私たちが最も信仰を働かせるタイミングです。彼は信仰を持っただけでなく、持ち続けました。たとえ、自分たちの体が衰え、子どもを産み出すことができないと知っていても、それを超える神の御声に従いました。ここに彼の素晴らしさがあります。多くの人は問題がやってくると弱気になりますが、アブラハムの信仰は弱りませんでした。アブラハムの信仰はますます強くなっています。これはアブラハムだけではありません。24節を見ましょう。なんと、信じる私たちも信仰を義とみなされるとあります。
イエス様は罪のために死に渡され、義と認められるためによみがえってくださいました。これがイエス様が私たちのためになしてくださったことです。
【5章】律法と恵み
・希望は失望に終わらない:1-11節
私たちは信仰によって義と認められています。そのような私たちは誰によって神との平和を持っていますか?このお方は私たちが今立たされているこの恵みに信仰によって導いてくださいました。
私たちは患難に直面すると嫌がったり、避けたりしたくなります。しかし、患難さえも喜んでいると書かれています。その理由はなにでしょうか?3-5節を見て、患難はどこに至るかを確認しましょう。この「希望」は主が再び戻ってこられるという希望につながります。
6節からは、イエス様に焦点が当てられます。イエス様はどのように私たちに愛を示してくださいましたか?8節を見てみましょう。また、9節には私たちは何によって義と認められたと書かれていますか?先ほどは信仰でしたが、ここでは少し違う表現がされています。血はいのちです。イエス様のいのちによって、私たちは義と認められます。
10-11にあるように、イエス様は和解の主です。サタンは分裂させます。しかし、主はひとつにされます。そのために必要なのは和解です。本当の和解はイエス様によってでしかもたらされません。
・恵みによる支配:12-21節
私たちに罪が入ったのはアダムとエバの神への不従順がきっかけでした。このひとりの人によって死がもたらされました。最初の人が罪を犯したので、それに続く、後に生まれる者はすべて罪を持ったまま生まれてきます。しかし、この罪が罪として人にはっきりと示されたのは律法によってです。では、アダム以降、モーセの律法が与えられるまで罪はなかったのでしょうか?いいえ。存在していました。その証拠に彼らは死んでいます。それを明らかにしたのが律法です。
一方、15節からは恵みについて書かれています。アダムというひとりの違反によって全人類に罪が及びました。しかし、ひとりの人、イエス様の恵みの賜物は多くの人に満ちあふれます。
また、さばきはたった一つの違反でも罪に定められますが、恵みは多くの違反をもってしても義と認められます。まとめとして17-19を呼んでみましょう。
律法が入ってきた理由はなにでしょうか?それによって違反が増し加わるためです。律法は罪を隅々まで指摘します。しかし、律法によって明らかにされた罪を赦し、恵みを満ちあふれさせてくださるのがイエス様です。
21節によると、罪は何によって支配しますか?一方、恵みはどうですか?そして、恵みは何を得させますか?
【6章】罪の報酬、恵みの賜物
・キリストと共に死に、共によみがえる:1-11節
恵みが増し加わる事は喜びです。そこでこのような考えが出てくるかも知れません。「恵みをもっと体験するために、もっと悪いことをしてやろう」というものです。それに対して、パウロは絶対にそんなことはないと否定します。これはユダヤ教のラビ(教師)の論じ方です。極端な例を出し、「そうではなくこうだ」と答えを出していきます。
私たちはすでに罪に対して死んだ者です。ですから、罪の中に生きることはもうできないのです。イエス様を信じたと言うことは、イエス様につく死のバプテスマを受けたと言うことです。そのことで私たちもイエス様と共に葬られました。そして、キリストと共に復活し、いのちにあって新しい歩みをしています。私たちは一度死んだのです。死ななければ復活にあずかれないからです。5節を見てみましょう。
私たちは今まで罪の奴隷でした。しかし、私たちのいのちの代わりに罪なき神の御子のいのちがささげられ、私たちのいのちはイエス様によって買い取られました。私たちはイエス様を信じることによって所有権が移動したのです。信じる私たちを今、所有しているのはイエス様です。8-11節を読んでみましょう。
・自分自身を神にささげる:12-14節
このような考えられないことが起こっているので、この体を罪の支配に委ねてはいけません。具体的に言うと情欲に従うことです。これは自制のない者の実のひとつです。獣と同じです。
私たちの手足は何にささげられてはいけませんか?むしろ何にささげられるべきですか?イエス様を信じる私たちはもはや律法の下にはいません。恵みの下にあります。これがどれほど感謝な事かを、祈りの中で思い巡らしてみましょう。
・罪の報酬、神の賜物:15-23節
この章の冒頭のように、私たちは恵みの下にあるから、何でも罪を犯していいのでしょうか?絶対にそんなことはありません。律法があって恵みがあります。私たちは何に服従しているかをその実によって見分けることができます。罪の奴隷となれば死に至ります。しかし、従順の奴隷となると義に至ります。
私たちは感謝なことに、どうなっていますか?17-18節を見てみましょう。
これまでのまとめとして、23節を読んでみましょう。罪から来る報酬は何ですか?しかし、神の下さる賜物は何ですか?この事を知っているなら、何がなくとも感謝の心があふれ出すはずです。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。