シャローム!
今日でいよいよ、旧約聖書の通読が終わります。Day001から共に通読を続けて下さったみなさまに、神様の豊かな祝福がありますように。
さて、マラキはイエス様が来られるための橋渡しのようになっています。異邦人である私たちにとって重要なメッセージが最後に記されており、そこからキリストにつながります。
一方、ユダヤ人の使っている旧約聖書は私たちのものと同じ内容ですが、並び順が違います。彼らの最後は歴代誌第二です。王がいなくなり、めいめいが好き勝手な事をしている中でイエス様が来られます。
それでは、旧約聖書を締めくくるマラキ書から、今日も主の恵みを受け取っていきましょう。
今日の通読箇所:マラキ書 1章-4章
■アウトライン
●主に何をささげているか:1章
・わたしはあなたがたを愛している:1-5節
・日の出る所からその沈む所まで:6-14節
●契約を破る:2章
・レビと神との契約を保つため:1-4節
・いのちと平和の契約:5-9節
・ただひとりの父:10-12節
・神は人を一体に造られた:13-17節
●十分の一で主をためす:3章
・あなたがたは滅ぼし尽くされない:1-12節
・神に仕えるのはむなしいことだ:13-15節
・記憶の書:16-17節
●エリヤの霊:4章
・父の心を子に、子の心を父に:1-6節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【1章】主に何をささげているか
・わたしはあなたがたを愛している:1-5節
マラキ書はハガイやゼカリヤが預言したときから約100年ほどたって欠かれたものです。マラキとは「わたしの使者」という意味です。
主は冒頭から「わたしはあなた方を愛している」と語られます。しかし、残念ながらユダヤ人たちはこの神の愛を心から受け取れていませんでした。私たちが奉仕をする動機は何でしょうか。自分が良い気持ちになりたいからでしょうか。活躍したいからでしょうか。そうではなく、まず主が私たちを愛して下さるから、その愛に応えるのが奉仕であり、礼拝です。私たちがまずはじめにしなければならないこと、また、いつも立ち返らなければならないことは主のはじめの愛です。
この神の愛の告白に人々は「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と質問しています。そのことに対して、神は「あなたがたを選んだこと」と答えられます。私たちの行いによらず、神は一方的に私たちを愛して下さいました。そのことを象徴しているのがヤコブでした。彼は道徳的に見ると決して良い人とは言えないでしょうが、神の目にはそのように映っていませんでした。神はヤコブを祝福され、彼を通してイスラエルという国を誕生させました。
そのような選びの恵みをイスラエルの人たちは理解していませんでした。主は「エサウを憎み」と言われています。これは、エサウが嫌いだったわけではなく、「エサウよりもヤコブを選んだ」という強調のために使われている表現です。
・日の出る所からその沈む所まで:6-14節
神に仕える者にとって大切なのはその人の能力ではありません。神様との関係です。主との関係は聖書の中でも様々な形で出てきます。主人としもべ、また、親子の関係などがあります。子であれば父を敬い、しもべであれば主人を敬います。しかし、当時の人々にはそのようなものは見られませんでした。これは終わりの時代のしるしです。マタイ13:12には「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。」とあります。終わりの時代に向かって人々はどんどんと自己中心になっていきます。
7節にある「主の食卓」とは、主にささげられるいけにえのことです。このいけにえには傷があってはいけません。しかし、ここでは盲目のいけにえをささげているとあります。
たとえば、みなさんが心から尊敬する人に会う機会があったとします。その人にお土産を持っていくとき、家にある余っているものを持っていくでしょうか。そんなことをしたら失礼に当たります。尊敬し、敬う人にはそのように接します。彼らの行動の実を見るなら、神を敬っていないことがわかります。
そこで、主は「このままでは、ささげ物を受け入れることはできない」と言われます。主は欠陥のある動物を献げることがないよう、そこに火を付けないように戸を閉じるものがいないかと問われるほどです。
11節からを見ると、マラキは御国の幻を見せられています。アブラハムに与えられた約束はイスラエルの民だけではなく、全世界の民が祝福を受けるというものでした。ここで見せられている預言も日の上る所から、その沈む所、つまり全世界に対してのものです。
イエス様が地上で最後に言われたことは「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、それから、終わりの日が来ます。」(マタイ24:14)と言うことでした。
エルサレムから始まった福音の働きは御霊によって西へ、西へと伝えられ、今はアジアにまで及び、まもなくイスラエルまで届こうとしています。
12節からを見ると、いけにえをささげることに対して喜びが失われている場面があります。私たちも礼拝が義務になっていないでしょうか。奉仕に嫌気がさしていないでしょうか。喜びが失われているなら、自分の心を点検する必要があります。礼拝は私たちが持てる最高のものを捧げる時です。中途半端なものをささげていないでしょうか?ささげるよりも、何かを得たり奪い取ったりするため、何かを得るために礼拝に参加していないでしょうか。
【2章】契約を破る
・レビと神との契約を保つため:1-4節
冒頭では、主の命令に聞き従わないなら、のろいが送られるとあります。これは今まで繰り返し見てきたことになります。申命記28章を確認してみましょう。
指しの働きは、神の恵みを受け、それを人々に流し出すことです。のろいが来るとき、その流れが止まってしまいます。神との関係が断たれます。
この時代から、一見立派に礼拝をささげているように見えて、実はそうではないという宗教的な礼拝が見られていたようです。彼らはそれを心に留めてもいませんでした。
この後、新約聖書の通読に入っていきますが、そこでイエス様は彼らの指導者である律法学者、パリサイ人を責めます。それは本来、祝福を流し出す立場の彼らがそれをしていないからです。そのことを主は「顔に糞をまきちらす」というものすごい表現をしていますが、まさにそのような状態です。イエス様はそのことのゆえに、新約聖書の中であれほどに祭司や律法学者を責められます。
・いのちと平和の契約:5-9節
ここにあるのが本来の祭司の姿です。祭司の務めの第一の特長は「いのちと平和」です。そして第二は「わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた」とあるように、主を恐れる生き方を生き、それを教えることです。そして、三つ目は「真理の教え」です。自らがみことばの真理を追究し、それを人々に教えることです。四つ目は「平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み」ということです。弟子は師匠と共にいるときに、師匠を見ているので、師匠に似てくるでしょう。イエス様は弟子たちに特別な弟子訓練をしませんでした。イエス様の弟子訓練は弟子たちを側に置くことでした。神と共に歩むことは何でも無いように思えますが、実はとんでもないほどに素晴らしいことなのです。五つ目は「多くの者を罪から立ち返らせた」ということです。悔い改めは天の御国の入り口です。教会では何度語っても足りないほど大切なことです。教会のメッセージで人々を繁栄させることが主のみこころではありません。それなら、世の中の成功哲学を学ぶ方がよっぽどいいでしょう。そうではなく、教会は悔い改めを語らなければなりません。世の人々はそれができないからです。
そして第六は「知識を守ること」です。知識を得るだけでなく、それを守ることです。そのためには絶えずみことばを口ずさむ必要があります。毎日の通読を続けていきましょう。
しかし、8節を見ると、道から外れています。そして、多くの人を真理と永遠のいのちに導くのではなく、多くの人をつまずかせ、レビとの契約を損なわせています。この罪は重大な罪です。どうして指導者にこのような事が起こるのでしょうか。一つは自分が有名になりたいという誘惑からそのようになります。もう一つはその逆で、恐れから人の目を恐れ語るからです。その両方とも神の御前では正しくありません。善悪の知識の木の実ではなく、いのちの木の実が大切です。人を見るのではなく、主を見続ける必要があります。教師は格別きびしいさばきを受けます。(ヤコブ3:1)
・ただひとりの父:10-12節
ここからは、霊的な事で非常に深刻な出来事、異邦人との結婚について書かれています。
私たちの信仰では神が人を男と女に創造し、この二人を一心同体にすることが結婚です。この結果、いのちが生み出されていきます。これは神様のデザインされた形です。主は「ただひとりの神をもっているではないか」と言われています。神様と人との関係は個人的なものです。これを破棄するのは大きな傷を残します。
この、神との結びつきを抜きにして人が互いにつながろうとするとき、お互いに傷ついたりしてしまいます。まずは神とつながることです。
イエス様もヨハネ17章で父とひとつとなることができるようにと祈られています。ですから、神を裏切りたいという思いや分裂は神からのものではないことがわかります。
・神は人を一体に造られた:13-17節
ここにある悲鳴は離縁された妻たちの叫びでしょうか。若いときの妻を簡単に裏切った男たちのいけにえは、決して受け入れないと言われています。神が結び合わせたものを自ら断っているので、これは主への裏切り行為であります。
マルコ10:8-9にもこのようにあります。「ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはいけません。」とあります。マラキはこのことを「一つになった霊」として語っています。これは創世記からある主の願いです。神は人を創造したときに本当はエデンでずっと過ごしたかったはずです。しかし、人が神の戒めを破り、ヘビに聞き従った事で神との一つの状態は壊れてしまいました。それから主はあらゆる方法で人とひとつとなり、共に住む方法を与えてくださいました。ついにはご自分のひとり子を地上に送り、その方のいのちをささげることで人と一つになることを実現してくださいました。
その祝福を主は男と女にも与えてくださいました。エペソ5章では、男はキリストで、女は教会だと書かれています。そのことを考えるなら、キリストと教会が離れてしまったらどうなるでしょうか?同じように、男と女が結び合わされたものが破棄されてしまったら主は悲しまれます。それゆえに、主は「離婚を憎む」と言われました。これは、離婚した人を憎むというのではありません。離婚するとそれだけ大きな被害が出て、人に不幸をもたらします。そのような意味で、祝福を逃してしまうから離婚を憎むと言われています。「暴力でその着物をおおう」とありますが、離婚はまさにこのような事です。「生涯、女性を守る」という約束をしながら、それを果たさないと言うことは、女性に対して暴力を振るうようなものです。そして、何より、本人同士の痛み以上に、そのことに対して主が心を痛めておられます。
17節を見ると、神が心を痛めているにもかかわらず、彼らは開き直っているように映ります。悪を行っているのに、主の心にかなっているといっています。
【3章】十分の一で主をためす
・あなたがたは滅ぼし尽くされない:1-12節
ここからは、このような腐敗した祭司に対して使者を送り、きよめが行われることが預言されています。
ここに二種類の使者を見ることができるでしょうか。一人は「彼はわたしの前に道を整える」という使者です。これはバプテスマのヨハネによって成就されます。また、もう一人の使者は「神殿に来る」という使者です。これはイエス様であり、宮清めを行われることで成就します。
2節は再臨の主が預言されています。「まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。」と書かれています。これは試練でありますが、その目的は滅ぼすためではなく、そのことによって彼らを聖め、神に従う者と造りかえるためです。
みことばによって罪を示されたら、すぐに悔い改める者は苦しみが少ないでしょうが、今まで旧約聖書で学んできたように、イスラエルの民のようにいつまでも悔い改めないなら、多くの苦しみを受けます。
3節を見ると、主は最後にレビ人を聖めてくださいます。まことの祭司の王国を治める祭司を整えてくださいます。ここで捧げられるものは「義のささげ物」です。これは「昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる」とあります。主が認めた神の器たちのことです。アベル、ノア、アブラハム、ダビデなど、主の心を喜ばせた器です。
5節からでは、主はさばきのために彼らに近づくとあります。主を恐れない者を容赦なく取り除かれます。
7節を見ましょう。彼らから祝福が逃げていく根本的な原因があります。主のおきてから離れ、それを守らなかった事です。
しかし、主はそのような彼らをお見捨てにはなられません。繰り返し、繰り返し、立ち返る事を励まされています。それなのに、彼らはどのようにして立ち返るのかと言っています。主と余りにも心が離れていて、どう悔い改めたら良いかわからなくなっています。彼らは悔い改めないのではありません。悔いたらためられないのです。そうならないように、日々主との関係を求めていきましょう。
8節からを見てください。非常に重要な事が書かれています。「あなたがたはわたしのものを盗んでいる」と言われます。盗みは罪ですが、主から盗んでいます。一体何を盗んでいるのでしょうか。それは十分の一と奉納物です。
この十分の一のささげ物に関しては、時に難しいことがあります。しかし、聖書にはこの十分の一のささげ物が主に喜ばれる事であり、祝福だと書かれています。この起源はアブラハムが主の使いに十分の一をささげたことにあります。その他、申命記14:22-29にも十分の一のささげ物の祝福が書かれています。
具体的には十分の一とは何でしょうか。みなさんが所属する教会に収入の十分の一を毎月献げるのです。これは時にとても難しいことかも知れません。しかし、聖書にはこれが祝福だと書かれています。
では、なぜ十分の一献金が難しいのかを考えてみましょう。それは、経済が自分のものだと勘違いしているからです。もちろん、自分で一生懸命勉強して、働いて得たお金ですので、自由に使うことができます。しかし、経済すら主のものです。働くことができるのも主の恵みです。もっと言うなら、生かされていること自体が主の恵みです。
もし、私たちが手放すことができないものがあるなら、それは主よりもそのものを信頼しているという事になります。
経済は元々主が与えてくださったものだと考えるなら、得た報酬の中から十分の一を主にお返しするのは当然ではないでしょうか?主は十分の九を献げ、残りの一割で生活しろと言われているのでありません。主が私たちに預けてくださったものの十分の九は自分のものにしてもいいのです。
もっと細かい話をすると、給与明細の額の十分の一を献げるのか、税金を引いた後の金額で十分の一を献げるのか、それとも生活費などの必要をすべて差し引いた中からの十分の一を献げるのと、どれが正しいのでしょうか?みなさんならどれを選びますか?正解はすべて正解です。2コリント9:7には「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」とあります。それぞれの信仰に応じて献げましょう。
10節からを見てみましょう。主は非常にこの事に対して挑戦的にみえるようなことを語られています。「こうしてわたしをためしてみよ。」とあります。みことばには「神を試みてはならない」と書かれてあるにもかかわらず、主をためすことが赦されています。それは十分の一を献げることです。聖書の原則は与えるものが祝福されるというものです。「与えなさい。そうすれば自分も与えられます。」(ルカ6:38)私たちの父は気前のいいお方です。惜しみなく与えてくださるお方です。このお方が共にいてくださり、全ての不足を満たしてくださると言うことに信頼できるなら、私たちは大胆に神にささげ、人に施すことができます。そのようにして神の愛をあらわすこともできます。
・神に仕えるのはむなしいことだ:13-15節
これらの事を聞いても、なお心をかたくなにする人がいます。主のいましめを守ってもむなしいという不信に陥り、悪を行っても報いはないだろうとうそぶくものには次のようなことばが与えられます。
・記憶の書:16-17節
主はご自身を恐れる者に対しては、主が耳を傾け、その内容を聞かれます。主を恐れる者たちの事が記憶の書に書かれます。そしてそこに書かれている人々は主の宝となります。
私たちがこの地上での役目を終えたとき、主の御前でこの記憶の書が開かれ、読み上げられます。生きている間、どれほど主を愛したかが読み上げられます。主を愛するとは何でしょうか。「イエスは彼らに答えられた。『だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。』
そのように、主を恐れる者とそうでない者を主はふるい分けられます。
【4章】エリヤの霊
・父の心を子に、子の心を父に:1-6節
旧約聖書の最後の1章です。
その日が来ています。主の定めの日、終わりの日です。そのとき、「かまどのように燃えながら」と書かれています。主と火は密接な関わりがあります。火は光を作り出します。また、火によって汚れはきよめられます。
しかし、2節には、主の名を恐れる者は義の太陽が上り、その翼にはいやしがあると書かれています。主を恐れない者には主は焼き尽くす火ですが、主を恐れる者には義の太陽となります。そこにはいやしがあります。主に癒やされ、解放され、救いを受け取り、子牛のように跳ね回る喜びがあります。
そして、3節を見ると、主を恐れる者には勝利があります。このように、主を恐れる者には主が報いてくださいます。続いて、4節から旧約聖書の最後のメッセージが語られていきます。
「モーセの律法を記憶せよ」とあります。みことばを愛するがあまり、口ずさみ続けることで、みことばが心に深く刻まれていきます。そのような生き方です。
そして、主は大いなる恐ろしい日が来る前に、エリヤを遣わすとあります。これは新約聖書に登場するバプテスマのヨハネです。
そして6節、新約聖書につながる重要なみことばです。それが「父の心を子に向け、子の心を父に向ける」と言うことです。天の父と人との関係が回復するという預言です。彼らは一体どのようにしてその様なことが実現するのか理解できなかったでしょう。しかし、それは明日から通読していく新約聖書において、明らかにされていきます。
これにて、旧約聖書の通読は完了しました。みなさん、自分を少しほめてあげましょう。しかし、これは通過点であり、私たちはいのちの日の限り、みことばを読み続けていく喜びがあります。
明日からは新約聖書の通読が始まっていきますが、少しコラムのスタイルを変え、よりみことばを通読できるよう工夫していきたいと思います。
ここまで導いてくださった主に栄光がありますように!
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
今まで旧約聖書からは、裁き主なる神様しか見えていませんでしたが、神様のご計画は着々と進められ、その中に深い愛を少しづつ見る事ができるようになったように思います。更に主を知り、主を愛する事が出来ますように。その愛を流し出していく事が出来ますように。
アーメン!私も同じ事を感じました。
引き続き、新約聖書も進めていきましょう!
分かち合いに感謝します。旧約聖書の後半は途中で挫けそうになりましたが、たどりついて嬉しいです。主の業に期待したいと思います。
ところで、ナホム書が途中とんだように思いますが・・・・。見逃していたらすみません。
同様に、コラムを書いていて途中で何度も心が折れそうになりました。しかし、続ける事ができるのは主の恵みですね。
ナホム書は、途中サーバーの障害でアップできていないところがあります。
後ほど、記事を更新しておきます。
お知らせありがとうございます。