聖書通読クラブ Day 281

聖書通読クラブ Day 281【ゼカリヤ書 11章-14章】

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シャローム!

今日でゼカリヤ書の通読が終わります。まるで、クラシックコンサートのエンディングが盛大に盛り上がって終わるように、預言の内容もキリストを色濃く表し、世の終わりに関してもはっきりと語られています。この土台があって、イエス様が来られます。
そして、約二千年前に十字架にかかられたイエス様は再び来て下さいます。それはいつかはわかりませんが、必ず来られます。ですから、そのみことばの約束を握り、今日も主をあいする決断をしていきたいものです。それを主が来られるまで、共に続けていきましょう。
今日もみことばから教えられていきますように。

今日の通読箇所:ゼカリヤ書 11章-14章

■アウトライン

●行き過ぎた牧者たち:11章
  ・牧者たちの嘆き:1-3節
  ・ほふるための羊の群れを養え:4-6節
  ・値積もりされた尊い値:7-14節
  ・愚かな牧者の道具:15-17節

●悔い改めの霊:12章
  ・その日:1-6節
  ・ユダの天幕、エルサレムの住民:7-8節
  ・恵みと哀願の霊:9-14節

●御霊による聖め:13章
  ・罪と汚れをきよめる一つの泉:1-6節
  ・銀を練るように彼らを練る:7-9節

●主の王国:14章
  ・主が山に降り立つとき:1-5節
  ・昼も夜もない:6-8節
  ・ただ一つの御名:9-11節
  ・大恐慌:12-15節
  ・エルサレムに上らない者は雨が降らない:16-19節
  ・なべは万軍の主への聖なるものとなる:20-21節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【11章】行き過ぎた牧者たち

・牧者たちの嘆き:1-3節
この箇所は、イエス様の十字架の後、紀元70年頃に起こったユダヤ人を鎮圧するローマの姿です。
また、「レバノンの杉の木」はエルサレムにある「レバノンの森」という宮殿であると考えられます。ソロモンが建てさせたものです。そうなると、「牧者たちの嘆き」は牧者と共に、ユダヤ人の指導者がエルサレムの神殿の崩壊を嘆いている姿でもあります。
主が共におられたはずなのに、どうしてエルサレムは敗北して死俣野か。そのいきさつを「羊をほふる羊飼い」として主はたとえられています。

・ほふるための羊の群れを養え:4-6節
牧者の仕事は羊をやしなうことです。イエス様の基準だと、良い羊飼いは羊のために自分のいのちを捨てます。しかし、イスラエルの指導者はかえって民を虐げています。羊を売っているのはユダヤ人の指導者です。しかも「主はほむべきかな。私も富みますように。」と、図々しくも主の御名によって自分を肥やすことをしています。そして「王の手」と書かれているのはローマの皇帝の事でしょう。そのために、主はこの地の住民をローマの手に渡されます。

・値積もりされた尊い値:7-14節
ゼカリヤは群れを飼います。「羊の商人」とは、「羊の悩む者たち」という意味です。これは神を恐れる残されたユダヤ人を指しています。彼らは主に触れることで砕かれ、主のへりくだりを知り、それで自分に悩む者となります。そのまでゼカリヤは牧者を演じ、「慈愛」という杖と「結合」という杖を用意します。
8節で出てくる「三人の牧者」は誰かはわかりません。ある人はユダヤ人指導者、パリサイ派、サドカイ派の指導者と言い、また別の人は王、預言者、祭司を指していると言います。
イエス様は指導者に対してみことばの基準で厳しくさばかれまいた。彼らに対して何度も「忌まわしいものだ」と繰り返し、またエルサレムがローマによって滅ぼされ、神殿が破壊されることを預言して嘆かれました。その時言われたのが「ああ、エルサレム。エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。」(マタイ23:37)とは、ここの9節にある「死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は相手の肉を食べるのが良い。」ということばを引用されたことばです。イスラエルの指導者は良い牧者を拒んだことで、ローマによって破壊され、殺され、包囲されたエルサレムの中で互いに殺し合い、あまりの飢えで子どもを食べたりしました。
そして、ゼカリヤは慈愛の杖を折ります。これは神様が慈愛の目をもってイスラエルを見守るという計画が破棄されることです。
12節からの預言が成就したことは福音書を読めばすぐにわかります。イスカリオテのユダがこの値段でイエス様を売りました。しかし、イスカリオテのユダは後悔し、このお金を宮に返しますが、それは血の代価なので受け取れないと言われ、結局首をつって死にます。そこでこの代価で陶器師の土地を買いました。
ところで、どうしてこの「銀貨三十シェケル」という金額が出てきたのでしょうか。出エジプト21章を見ると、自分の家畜が人の奴隷をついたとき、その主人に銀貨三十シェケルをはらうことになっていました。イエス様の価値は奴隷と等しいと判断されたのです。
そして、ゼカリヤはもう一本の「結合」の杖を折ります。エズラからはじまったユダヤ教のハシディムと言われる人たち、いわゆる熱心党員が行き過ぎて分裂します。神の戒めをストイックなまでに守ろうとしていた彼らが率先して神の戒めを破っています。皮肉なものです。

・愚かな牧者の道具:15-17節
良い牧者の後に出てくるのは悪い牧者、反キリストです。ユダヤ人はまことの救い主であるキリストを受け入れず、偽物のキリストを受け入れてしまいます。「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。(ヨハネ5:43)とあります。真理を受け入れないなら、人はその代わりに偽りの真理を受け入れます。私たちも瞬間、瞬間、その選択を迫られているようです。

【12章】悔い改めの霊

・その日:1-6節
宣告がなされます。天地を創造された主が語られます。その内容はイスラエルにとどまらず、全世界に関わることになります。
主はエルサレムによって全ての国をさばくようにされます。「よろめかす杯」とは、神の怒りを意味しています。そして、そのさばきは国々にとって重い石となります。各国がイスラエルの問題についてなんとか自分たちの力で動かそうとしますが、それをしようとしたら、ひどく傷を受けます。
また、4節からは「馬を驚かせ、乗り手を狂わせ、盲目にする」とあります。これは申命記28章にある呪いの形です。主はこの呪いをイスラエルの敵に対して実行されます。敵の目は見えなくなりますが、ユダの家の目は開かれていきます。そのことで主を恐れるようになります。

・ユダの天幕、エルサレムの住民:7-8節
ユダの天幕とはエルサレム以外にいるユダヤ人の事です。彼らに勝利を与えられ、そして最後にエルサレムの住民を強められます。その理由はエルサレムが世界の注目の的であり、最後に完成されるからです。そして、主はエルサレムの住民をかばってくださいます。そして、回復があります。

・恵みと哀願の霊:9-14節
イスラエルの人々は受肉されたメシヤ、キリストを拒みました。イエス様はご自分のために来られたのに、彼らは受け入れませんでした。しかし、二度目にイエス様が来られるとき、自分の先祖がメシヤを突き刺したと知り、激しく悔い改めます。そのために御霊が注がれます。恵みと哀願の霊です。
ゼカリヤはまだ受肉されたイエス様を見ていないにもかかわらず「自分たちが突き刺したもの、わたしを仰ぎ見」と言っています。彼らもこの本当の意味が理解できなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様の十字架の死と葬りと復活により、この事が明らかになります。
そして、多くの氏族が嘆きます。イスラエルから始まった真の悔い改めは国家的な悔い改めとして全国に拡大していきます。そして、イエス様をお迎えする準備をしていきます。

【13章】御霊による聖め

・罪と汚れをきよめる一つの泉:1-6節
主の御霊が注がれ、彼らの心が変えられ、罪と汚れがきよめられていきます。泉とありますが、これはユダヤ人にとっていのちを意味することです。この御霊を受ける者は腹の底から生ける水の川が流れ出ます。そして、すべてが生きるようになります。
その日、今までキリストを拒んでいたイスラエルの人々は本当のメシヤがキリストであると知ります。そして、自分たちが信じていたものが偽物のメシヤだと知ります。マタイ24:24には「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」とあります。
それで、偽預言者だということがわかると、親は自分の子であっても偽預言者を殺します。イエス様がマタイ10:37で言われた「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言うのも納得できます。
それらの偽預言者は、外から突然やってくるのではなく、教会の中から出てきます。そして、多くの人の愛は冷たくなります。ところが、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
そのように、新しく生まれ変わったユダヤ人が偽預言者を殺そうとしています。その時、にせ預言者は自分たちを守ろうと嘘に嘘を重ねます。それを「欺くための毛衣」と呼んでいます。また、ある人は預言者かと問われれば、「ただの農夫だ。耕しているだけだ」とごまかします。また、ある者は傷を「愛人の家で打たれた傷です」と言いますが、実際は偶像礼拝のために傷ついた傷です。

・銀を練るように彼らを練る:7-9節
ここで主は「わたしの牧者」「わたしの仲間」と呼んでいます。私の仲間とは「神と同等の者」イエス様は「わたしと父は一つです」と言われました。
しかし、ここで主は「剣よ…責めよ」と言われます。キリストを殺すことが書かれています。ユダヤ人がイエス様を殺したのでしょうか。ローマ兵がイエス様を殺したのでしょうか。私たちの罪がイエス様を殺したのでしょうか。全てそうですが、本当のところは次のみことばにあります。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。」(ヨハネ10:18)
そして、ゆだや人がキリストを拒んだゆえに、羊は全世界に散っていってしまい、今に至ります。
イスラエルは苦難の歴史を歩みます。しかし、それは彼らが通されなければならない試練でした。しかし、そのことを通して彼らは救いを受け取ることができます。

【14章】主の王国

・主が山に降り立つとき:1-5節
ここでは、時代が少し戻り、主が来られる前のエルサレムです。黙示録に出てくるハルマゲドンの戦いでエルサレムの半分は破壊されます。しかし、主は残された民を用いて、主のご介入があり、助かります。
3節、主が戻って来られます。そして、国々と戦われます。
主はボツラに向かわれ、その後エルサレムに戦いを移され、主が全世界の軍隊を滅ぼされ、最後にオリーブ山に降り立たれます。その時、大地震があり、辺りが地殻変動をおこします。
オリーブ山は霊的に非常に重要な山です。エゼキエルでは、神の栄光が去って行くとき、オリーブ山から去って行きました。しかし、イエス様はオリーブ山からエルサレムに入場され、十字架にかかってくださいました。復活されたイエス様は弟子たちに現れましたが、その後、オリーブ山から天に帰られます。使徒の1:11には「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」とあります。
オリーブ山は南北に走る山です。主がオリーブ山に立たれた時、山は分かれて東西に裂けます。周りの地域は低くなり、エルサレムだけが高くなる地殻変動が起きます。そして、エルサレムの住人は新しくできた谷を通ってエルサレムから逃げていきます。そして、新しくできたエルサレムに戻ってきます。
そして、注目すべきは、主が来られるとき、「すべての聖徒たちも主とともに来る」と書かれていることです。キリストに従う者はイエス様が迎えに来られたとき、空中に引き上げられ、この時主と一緒に戻ってきます。

・昼も夜もない:6-8節
ここからは千年王国の姿が見えます。そこでは光も、寒さも、霜もなくなります。ただ一つの日となります。これは天地創造の第一日とおなじで「エハッド」ということばが使われています。主とまったくひとつになる日です。
その日には、エルサレムから湧き水が流れ出ます。いのちの水です。主とひとつとなるとき、このようになります。

・ただ一つの御名:9-11節
主は地のすべての王となられます。今はまだ、すべての人がキリストに服従していませんが、この時になるとすべての人がキリストに従います。そして、イスラエルの人々が望んでいた真の平和が訪れます。立ち戻って考えてみると、この時代はバビロンからの帰還後、神殿が建築されていた時代です。その時の彼らとここに書かれている姿は余りにもかけ離れています。しかし、ここに希望があります。主が必ずそのようになると言われたことが彼らの励みとなって、希望となって彼らを生かしました。

・大恐慌:12-15節
再び国がエルサレムを攻めてくる場面です。主が彼らと戦われますが、まだ足で立っている内に腐っています。そして、大恐慌を起こさせ、互いになぐりかかるようになります。

・エルサレムに上らない者は雨が降らない:16-19節
千年王国には大きな患難を通り抜けた人々がいます。生き残った者はみな主を礼拝します。そして、仮庵の祭りを祝います。喜びの祭り、完成の祭りです。
千年王国では天国に非常に近い状態ですが、ごくわずかに罪の性質が残っているのかも知れません。祭りの時に上って来ない者が居るからです。千年王国の時代では、悪魔は底知れぬ所に縛られているので、今よりも誘惑が極端に少ないことが予想されますが、それでも人の心は陰険なので、罪の性質がでてきてしまうのでしょう。

・なべは万軍の主への聖なるものとなる:20-21節
主とひとつとなるとき、悲しみ、苦しみは過ぎ去り、涙は拭われ、影もなくなります。そして、聖なるもの、俗なるものの区別がなくなり、すべてが聖くされます。
戦争に使われる馬に祭司のターバンに付けられる「主への聖なるもの」という記章が付けられます。また、外庭で使われる鍋が内庭の祭壇の鉢のようになります。
そして、商人がいなくなります。イエス様も宮清めをされたとき、神殿で商売するものを追い出されました。安息にも商売は禁止されています。
今はその時に向けた予行演習のようなものです。私たちは得てして、今は今の生活を続け、イエス様が迎えに来られるときに悔い改め、天国に言ったら完全な生活をしようと考えるかも知れません。しかし、天国は今の生活の延長線上にあります。御国に導かれる前から、あたかも御国にいるかのように生活することができます。みことばからその約束ときぼうを受け取り、主が来られるその日まで、みことばを愛し続けていきましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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