聖書通読クラブ Day 279

聖書通読クラブ Day 279【ゼカリヤ書 4章-6章】

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シャローム!

ゼカリヤは次々と幻を見せられますが、それはどれもイエス様、そして世の終わりの光景になっています。
このように、救い主の到来は旧約の時代からずっと語られていました。そして、時が満ちて本当に救い主、キリストがこの地に来て下さいました。同じように、終わりの時代の事も時が満ちると成就していきます。その時になって悔い改めるのではなく、今日という日にみことばを通して悔い改める生き方をしていきましょう。

今日の通読箇所:ゼカリヤ書 4章-6章

■アウトライン

●金の燭台:4章
  ・わたしの霊によって:1-14節

●巻き物とエパ枡:5章
  ・飛んでいる巻き物:1-4節
  ・出て行くエパ枡:5-10節

●主の訪れ:6章
  ・四台の戦車:1-8節
  ・ヨシュアの冠:9-15節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【4章】金の燭台

・わたしの霊によって:1-14節
ここでは、ゼルバベルに対する預言が語られています。ゼカリヤはここで燭台の幻を見ています。燭台は金でできており、暗い幕屋の中で唯一の光となります。
ところが、ここでは祭司たちの務めを必要としていないことです。本来であれば祭司が燈火用の油を常につぎ足していますが、二本のオリーブの木から管が出ており、燭台の七つの枝に絶えず油が供給されます。

4節で、ゼカリヤはこの幻は何かと尋ねます。すると、御使いが逆質問してきて「これが何か知らないのか」と言います。ゼカリヤは素直に「知りません」と答えます。この正直さが大切です。そこで、御使いはこのみことばを語ります。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」
ゼルバベルは、自分が神に用いられることに圧倒されているようです。しかし、それは自分の力を超えて、主が行ってくださるのです。正に、権力にも能力にもよらない、主の方法で事がなされていきます。

7節では「大いなる山」が出てきます。彼らが直面している大きな権力の問題です。しかし、主はそれらはゼルバベルの前で平地となるとあります。人がいくら時間と労力と経済をつぎ込んでも達成できないことを、主の御霊は一瞬で成し遂げさせてくださいます。これが主の恵みの働きです。
その上で、かしら石が運び出されます。かしら石とは、神殿の礎石で、一番大切な土台です。喜びながらかしら石を運び、神殿の建築が始まっていきます。これはヨシュアの前に置かれた石でもあります。救い主、キリストです。このお方が礎石となって、神の宮が建てあげられます。「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ2:20)

主はこのように、御霊の助けによって事を行ってくださいます。その時、主はすべてをご自身の手で行わず、神の器を一番良い方法で用いてくださいます。まるで、小さな子どもが料理の上に最後の仕上げの旗を立てただけで、周りの大人が「すごいね!」といってほめてくれるような様子です。子どもは大変な準備は何もしていないのですが、最後のほんの少しを行っただけで、あたかもすべてを成し遂げたかのようになります。主はゼルバベルに最初のかしら石を運ばせ、彼の手で宮を完成させてくださいますが、背後で働かれているのは主です。主はそのようにしてくださるお方です。
さて、ここでゼルバベルは下げ振りをもっています。下げ振りとは測量のための道具です。ゼルバベルはこれをもって喜んでいます。最後まであきらめないで建設を続けました。小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実です。主が召されたことを最後まで成し遂げる力が与えられますように。
また、「その日を小さな事としてさげすんだのか」とあります。これは、年配者がソロモン神殿と比較して、あまりの質素さに嘆いたことを指しています。人々は「こんなにも頑張ったのにこれだけしかできなかったのか」と失望しています。しかし、それは人の満足感にかかっています。私たちが注目するのは、主が喜ばれているかどうかです。毎週の礼拝での奉仕で、自分がうまくできたかどうかは良い礼拝をはかる基準ではありません。主がどれだけ喜ばれる礼拝をささげたかが大切です。

さて、11節からはまたゼカリヤの質問が続きます。燭台に供給される油は御霊の働きであることがわかりました。しかし、今度はその背後にある二本のオリーブに関してわからなくなりました。このように、わからないことを質問することは素晴らしいことです。
御使いはこの二本のオリーブは主の前に立つ二人の証人だと言います。これは大祭司ヨシュアとゼルバベルを指しています。この油注がれた二人が一つになる、つまり、王である祭司が油注がれた者、すなわちキリストとなります。この二人はこの後来られるイエス様を啓示しています。
また同時に、黙示録11で出てくる二人の証人のことも啓示しています。彼らもまた、人手によらない、神の霊によって働きをなします。

【5章】巻き物とエパ枡

・飛んでいる巻き物:1-4節
二本のオリーブと金の燭台の幻を見た後、今度は飛んでいる巻き物が出てきます。巻き物というと、私たちは忍者のもっているようなものを想像するかも知れませんが、これは当時の書物の形です。二本の真に長い羊皮紙が巻き付けられていました。もちろん、神の律法もこのような形で記録されていました。私たちがもっている聖書のような、いわゆる本の形になったのはごく最近の事です。
ここでは、巻き物が開かれています。みことばは封じられず、開かれています。これは今でもそうですが、特に終わりの時代に顕著になることです。みことばが開かれるので、誰も隠れることができません。すべてが明らかにされていきます。
この広げられた巻き物の大きさはどれほどでしょうか。二十キュビトと十キュビトです。比率で言うと2:1の比率です。これは幕屋の聖所を上から見た時の聖所の比率と同じです。正にこの聖所の中に燭台と巻き物を象徴するパンが置かれていました。
3節では、これは全地に出て行く呪いだと言われています。みことばは私たちに永遠のいのちをもたらしますが、同時にさばきをもたらすものです。神の義の基準でさばかれます。それゆえに、ここに書かれているような盗む者、偽って誓う者などは取り除かれていきます。これは全世界のイスラエルの民、また異邦人に向けられたことであり、私たちの内なる人に向けられたことばでもあります。
みことばが開かれ、それでもなお悔い改めない者には、出エジプトの時に主の霊が初子を殺したように、盗人や偽って誓う者の家に主の霊が入り、その家の真中で家を梁と共に断ち滅ぼします。
ですから、私たちはすぐに悔い改める生き方をしましょう。そのためには御霊の助けが必要です。みことばによって自分の罪の性質が明らかにされたのであれば、イエス様の血潮によってきよめていただきましょう。

・出て行くエパ枡:5-10節
続いてはエパ枡が出て行きます。エパとは量をはかる単位で、1エパは約23リットルになります。このエパ枡は「全地にある彼らの罪」と書かれています。これは全世界で行われている不正のビジネスを意味しています。律法では不正は禁じられています。
このエパ枡の蓋が開けられますが、中にはひとりの女性が座っていました。これは姦淫の女性です。ユダの人々はバビロン捕囚以前からバビロンが発祥の天の女王を拝んでいました。
創世記のヘビに始まり、ニムロデが建築した町、バベルの塔、エジプト、バビロン、すべて同じ霊性が働いています。それは今もなお働いており、黙示録ではそれが大淫婦として登場します。
御使いはエパ枡の女を見ると「これは罪悪だ」といって彼女を閉じ込め、鉛の重しをかぶせます。
そして目を上げると、ふたりの女性が出てきます。翼を持ち、風をはらんでいました。風は霊を意味します。これは一見、美しい天使に見えますが、聖書をよく見ると天使、御使いに関しては男性名詞が遣われています。しかし、ここは女性です。つまり、これは異教の中から出てきた天使っぽいものだということです。「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(2コリント11:14)
この天使が神からの者ではないもう一つの証拠は、彼女たちがこのエパ枡を天ではなく、「地と天の間」に持ち上げたからです。神の御国は天から地にもたらされます。しかし、ここでは地上にあるものを天に持ち上げようとしています。これが宗教の霊性です。人から出たものをまるで神からかのようにしてしまうことです。天と地の間を支配しているのは誰でしょうか。「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2:2)この二人の女性はエパ枡をサタンの領域に持っていきました。それからこのエパ枡はシヌアルの地に運ばれます。そこはバベルの塔が建てられた場所です。そこに神殿が建てられます。宗教と富が混ぜ合わされている大淫婦バビロンの完成です。
私たちはいつもこの富と戦わなければなりません。富自体は素晴らしいものです。しかし、1テモテ6:10には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」とあります。つまり、私たちの心がどこにあるかが問題です。富に仕えるか、神に仕えるか、どちらかしか選べません。しかし、実は神に従うなら、富も必要なものすべては後からついてきます。どちらを選び、従うかはみなさんにかかっています。

【6章】主の訪れ

・四台の戦車:1-8節
ゼカリヤは今度は四台の戦車の幻を見ます。山は普通の山ではなく、青銅の山です。青銅は聖書では裁きを意味します。ここから戦車が出て行っているので、神のさばきを執行するために戦いに出る戦車です。まるで黙示録6章の姿のようです。白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめている馬です。白い馬はキリストの姿をした反キリストです。赤い馬は戦いによる火、またはながされる血です。黒い馬は飢餓です。そして青ざめた馬は剣、飢饉、死病などによって人々が死んでいく姿です。先ほど山が出てきましたが、二つの山はオリーブ山とモリヤの山でしょう。その谷間は南北に走っています。そこを黒い馬と白い馬が北に、まだら毛の馬が南に行きます。今まで北と南から責められたいたイスラエルは主の軍隊が南北に出て行きます。
赤い馬はどこにいったかわかりませんが、「この強い馬」がそうかもしれません。
そして、北の地に行ったものによって、神の怒りが静まります。バビロンに対する怒りをもって、主はご自分の怒りを静められました。黙示録においても、バビロンに対する裁きをもってイエス様が再臨されることが書かれています。
神が怒りを静めるというのは、「わたしの霊を休める」と言う意味です。主はヘブル4章で安息について言及されています。ここでの安息は天に入ることを意味しています。その時まで、主は休むことなく働かれています。私たちも休むのは天に導かれてからにしましょう。それまでは主のためにいのちの限り、主の召しを全うしていきましょう。

・ヨシュアの冠:9-15節
ゼカリヤは三人の人からささげ物を受け取るように言われます。ヘルダイは「力ある者、健全な者」と言う意味です。トビヤは「主は慈しみ深い」と言う意味です。エダヤは「主は知りたもう」と言う意味です。それからヨシヤの家に行きます。ヨシヤは「主の寵愛」という意味です。まるで、イエス様がお生まれになったときの三人の博士のようです。
そして、ゼカリヤはささげ物で冠を作ります。それをヨシュアに被らせます。ここで違和感を覚えないでしょうか。王冠が被せられるのは王だけです。ヨシュアは大祭司です。
もし、主から与えられた権能を超えて何かを行うとその報いがあります。サウルは預言者サムエルを待てないで自分でいけにえをささげてしまいました。ウジヤ王は神殿の内庭に入っていけにえをささげようとしたとき、ツァラアトにかかりました。このような越権行為を主が命じられました。これはこの後来られるイエス様を啓示している行為です。
祭司でありながら王であるという人物が聖書全体で出てきますが、それがメルキゼデクです。彼はシャレムの王ですが、いと高き神の祭司でもあります。詩篇110:4を見ると、「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である」と、メシヤがメルキゼデクであると指し示しています。
12節を見ると、また、若枝が出てきます。イエス様です。13節以降を見ると、明らかにイエス様であることがわかると思います。
このような素晴らしい約束にはひとつ条件があります。15節にあるように、「もし、私たちが主の御声に本当に聞き従うなら」です。主の声に聞き従いましょう。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

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