シャローム!
今日の通読の内容は盛りだくさんです。エルサレムは見るも無惨に破壊されます。粉々にされます。しかし、主はそこから回復されます。今まで辛く、苦しい内容でしたが、ここから回復の希望が満ちていきます。
そのように、主は私たちを粉々に砕かれることがあるでしょう。それは、私たちが主の願い通りに建てあげられるためです。砕かれる苦しさはいつまでも続く者ではありません。その後に必ず回復があります。主の回復を信じて今日もみことばに教えていただきましょう。
今日の通読箇所:エゼキエル書 31章-33章
■アウトライン
●よみに下るアッシリヤ:31章
・エデンの全ての木々はこれをうらやむ:1-9節
・その心がおごり高ぶったから:10-14節
・パロとすべての大群について:15-18節
●死後の世界:32章
・自分のいのちを思って身震いし続ける:1-10節
・悲しんで歌う哀歌:11-16節
・殺された者と割礼を受けてない者と共に横たわれ:17-21節
・刺し殺された者たちの間に置かれた:22-25節
・主が生ける者の地に恐怖を与えた:26-32節
●見張り人:33章
・角笛の音:1-9節
・悪の道から立ち返れ:10-11節
・必ず生きる:12-16節
・彼らの態度こそ公正ではない:17-20節
・私の口は開かれた:21-22節
・荒廃した地とする:23-29節
・口は恋し心は利得を追う:30-33節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【31章】よみに下るアッシリヤ
・エデンの全ての木々はこれをうらやむ:1-9節
ここはエジプトに対する預言ですが、アッシリヤを取り扱われています。エジプトはアッシリヤを助けることができませんでした。そして、エジプトもバビロンに滅ぼされます。結局エジプトはエルサレムもアッシリヤも助けることができませんでした。それなのに、プライドだけは高く持っていました。
ここでは、アッシリヤがレバノンの杉に例えられています。イザヤも同様の預言をしました。
なにより特徴的なのが、ここでエデンの木々が出てきていることです。一節には、アッシリヤの場所にエデンがあったのではないかという聖書学者もいます。エデンから流れ出た川は四つに分かれ、そのひとつがアシュルの東を流れていました。アシュルはアッシリヤのことです。しかし、本当のところはエデンの園はどこにあったかわかりません。エルサレムの神殿が建てられていた所と言う人もいます。ひとつ言えるのは、主のご臨在がある場所がエデンだと言うことです。
エデンの木々がうらやんだとありますが、アッシリヤの高ぶりはそれほどであったという表現です。
・その心がおごり高ぶったから:10-14節
このアッシリヤの高ぶりを主が倒されます。アッシリヤの良い物を求めて集まってきた諸国の人々も逃げていきます。倒されたアッシリヤの後にいろいろな人がやってきて住み着きました。そのことでアッシリヤは復興できなくなります。それを「枝が落ちた所に空のあらゆる鳥が住んでいる」と表現されています。主がこのようにされました。
そして、アッシリヤは倒されるだけではすまず、穴に下る者たちとともに地の深い所に送られます。
・パロとすべての大群について:15-18節
アッシリヤがよみに下る様子がここに書かれています。川がせきとめられて豊かな水がかわいています。野の全ての木もしおれます。力があったアッシリヤが無力になったことをこのように表現しています。その落ちる音を聞いて諸国の民が震えます。
アッシリヤがよみに落とされた時、先にアッシリヤによって利益を得た者たちが待ち構えていました。彼らはボスのようなアッシリヤが振ってきたので大喜びしています。
そして、このアッシリヤの姿がパロとすべての大群についてだと言っています。カルケミシュの戦いで敗れたとき、このような運命を歩むのだと言うことに気づくべきでした。しかし、高ぶりは周りを見えなくさせます。エジプトの王ホフラは過去の栄光にすがりつき、現状を見ようとしませんでした。そこで主はアッシリヤの例を見せられたのです。
私たちも気づかないだけでこのような事が起こっているかも知れません。神様は気づかないようなかすかな声で語られます。その小さな身声に敏感な耳が与えられますように。
【32章】死後の世界
・自分のいのちを思って身震いし続ける:1-10節
ここでは話が変わって、エジプトの王、パロ・ホフラをナイル川のわにとして触れています。
この時はバビロン捕囚が終わり、エルサレムが完全に滅ぼされたことがバビロンの捕囚の民に伝えられて二ヶ月が経ったときです。
ここではエジプトに対して哀歌が歌われています。「諸国の民の若い獅子」はホフラの事です。主はホフラを川の中を暴れ回り、その水を濁すわにと言われています。自分をわきまえず、権力だけ持っていましたので周りに迷惑ばかりかけるような状態です。
このホフラはのたれ死にをします。この様子はまるで黙示録に書かれている終わりの時代のようです。獣がその死体を食べること、しかばねが山々に満ちること、空が真っ暗になることなどです。イエス様の十字架の時もそうでしたが、イエス様がさばき主とし戻って来られるときもこのような光景を見ることになります。
・悲しんで歌う哀歌:11-16節
主は川々を濁すわにをだまらせます。エジプトが働きかけていた諸国への働きはバビロンの介入で止まってしまいます。
このエジプトのように、自分をわきまえない者は口を制御することができないという特徴があります。心に満ちていることを口が話します。しかし、私たちには自制があるので何を口から出すかを選ぶことができます。何も考えないで、頭に浮かんだことをそのまま垂れ流すのは自制の無い者、獣のような本能で生きている者です。私たちは愛と配慮を持って、自制する心、すなわち御霊の実を豊かに実らせて、口からのことばに気をつけていきたいものです。「すべての勤労には利益がある。おしゃべりは欠損を招くだけだ。」(箴言14:23)
・殺された者と割礼を受けてない者と共に横たわれ:17-21節
エジプトに対する預言はこれが最後です。同時に、諸国に対する預言もこれで終わります。時期は先ほどの預言とほぼ同じ時期になります。先ほどの預言通り、実際にエジプトが地下の国に落とされた様子が書かれています。よみにおいてはすべての者が等しくなります。割礼を受けていない者、すなわち神を恐れない者というひとくくりの位になります。たとえ地上で有名人でも、お金持ちでも、どんな努力を重ねても、結局神様との契約の中に入れられないなら、このようになってしまいます。ひとりでも多くの人に福音を伝えていきましょう。
・刺し殺された者たちの間に置かれた:22-25節
墓の周りには様々な軍隊があります。その筆頭はアッシリヤです。彼らは人一倍残虐な者でしたが、その報いを受けています。墓の穴の奥の方にいるということは、先にここに入れられたからでしょうか。
ここにはエラムが居ました。現在のイランあたりにあった国ですが、バビロンのネブカデネザルに滅ぼされています。彼らが生きているとき、恐怖を引き起こしました。また、それゆえに剣で刺し殺されています。彼らも自分のしたことを刈り取っています。
・主が生ける者の地に恐怖を与えた:26-32節
メシェクとバルはトルコの北東、黒海の南部あたりにいた人々です。ゴグとマゴグの戦いにも連合国の一つとして登場します。彼らはかつて暴れ回っていましたが、「ずっと昔に倒れた勇士たちとともに横たわることはできない」とあるように、栄誉ある死に方はできませんでした。
29節にはエドムが出てきます。彼らもまたよみに下らされています。無残にも人々を殺したので、自分もそのようにされています。
そして、最後にパロが出てきます。あの大国、エジプトの王ですら、よみでは一般の人々と同じようになっています。この地上でさばかれていますが、なお、死後にさばきがあることがここでわかります。エジプトの人々は王をピラミッドに納め、死後に良い思いをしてもらうようにと弔いますが、実際はそうではありません。聖書に書かれていることが現実よりも現実です。
このように高ぶり続けること、つまり、神様からの呼びかけを拒み続けるとどのようになるかと言うことがわかります。これは未信者に向けられていると安心してはいけません。信じる私たちに向けられた神様からのメッセージです。「自分だけは大丈夫」と思ってはいけません。今この瞬間、主との関係がどうかを点検しましょう。
【33章】見張り人
・角笛の音:1-9節
ここでは見張り人の役割が書かれています。見張り人は聖書では祈る者の姿を現しています。その務めと責任はどのようなものでしょうか。ひとつは角笛を鳴らして警告を与えます。常に城壁から周りを見張り、敵が攻めてきたのを発見したなら即座に角笛を吹きます。それを聞かなければ、人々は剣に打たれてしまいます。そのことに対して見張り人の責任はありません。しかし、見張り人がその役割を怠り、角笛を吹かずに人々が殺されたなら、その責任は見張り人にあります。
ここから、祈りの重要性を学ぶことができます。単に「あれしてください。これをください」と自分の必要を祈るのが祈りではありません。祈りはみことばを見つめ、霊的状況を見張り、危険があるなら、サタンの攻撃があるならそれを見分けて警告し、神の家族で一致して祈ることをアナウンスする役目があります。みなさんにもその召しが与えられていることを感謝します。祈りはじめましょう!
7節からを見ると、エゼキエルもこの見張り人として召されています。かつて主がエゼキエルにイスラエルの回復を告げるメッセージを託されるにあたって同じ命令が与えられていました。まだ悪い行いをしている者に対してことばを発しなければなりません。
しかし、また迫害を受けるかも知れないという懸念があります。また、「どうせ語っても前と同じように聞いてくれないのではないか」という懸念もありました。これらは神を見ているのではなく、人を見ているときに起こる懸念です。
しかし、主は「あなたは見張り人だ」ということをはっきりさせます。見張り人の役割は物事を発見し、見分け、警告するまでです。それを聞いた人の反応は見張り人にとって関係ないのです。
もう少しわかりやすく言うと、私たちは時が良くても悪くても福音を語り続ける必要があります。しかし、無理矢理人を救おうとしてはいけません。救いは主がなしてくださることです。私たちの責任は福音を語ることです。それを受け入れるかどうかはその人の問題であり、救われるのにも時があります。何度語っても福音が受け入れられないからとあきらめてはいけません。その次に語った福音によってひとりのたましいが永遠のいのちに導かれる可能性もあるのです。
たとえば、お医者さんも大けがをした人にありったけの知恵と技術と労力をつかって救おうとします。しかし、最善を尽くしてもいのちをすくえない患者さんに直面することもあるでしょう。しかし、だからといって救命措置をしなければ、いのちはどんどんと失われていってしまいます。ですから、福音を語り続けましょう。
・悪の道から立ち返れ:10-11節
主はこのことを以前にも語られましたが、その時と状況は違います。人々はバビロンに捕らえ移されています。そこで彼らは希望を失い、絶望しています。その人々に対する励ましです。
人は大きな罪を犯したとき、「こんな罪を犯したのだから、赦されるはずがない」と考えてしまい、罪の結果に失望します。また、「このような罪を犯したのだから、もう私は更生できないだろう」と考えてしまい、罪の力に圧倒されて絶望します。しかし、私たちには希望があります。主に立ち返るなら、どんな罪も赦されます。これが福音です。
・必ず生きる:12-16節
ここには、はっきりと正しい人でも罪を犯すとき、自分の正しさによって生きることはできないと書かれています。1ヨハネ1:9には「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。救いは神からのものです。人の努力では救いには到達できません。神からの一方的な恵みによって私たちは救いにあずかることができます。
たとえ律法を完全に守ることができても(そんなことは不可能でしょうか)たった一つの罪を犯すなら、全ての罪を犯したことと等しいのです。そうであれば、一体誰が救われるのでしょうか。本来なら、救いに値する者など一人もいません。永遠の滅びを受けて当然なのが私たちです。しかし、神は深い憐れみを持って私たちを救ってくださるのです。なんと感謝な事なのでしょうか。
・彼らの態度こそ公正ではない:17-20節
聖書は一見、矛盾が多いように見えるものです。イエス様のたとえで、ぶどう園のたとえがあります。朝一番から働いた者と、仕事が終わる直前に来た者の賃金は同じです。神のためにと律法を熱心に守っていた者が「おまえの父はサタンだ」と言われたり、極悪人の強盗が一番にパラダイスに行ったりします。
その様な事を「主の態度は公正でない」と言う人がいます。それでは、その人に聞きたいです。「あなたの基準と、神の基準、どちらが正しいと思いますか?」と。
しかし、実際に私たちは信仰生活の中で他人のした事に対しては厳しくさばき、罪に定めます。一方、自分に関しては「こんなに正しいことをした」と主張し、罪を認めず悔い改めないという性質があります。神に変わって自分がさばき主となってしまっている状況です。
エデンの園にあったのはいのちの木と善悪を知る知識の木です。後者の木は悪だけでなく善も含まれています。自分がどれだけ正しいことをしたのかという考えは自己中心につながります。自分の正しさを主張するよりも、神がどれほど素晴らしいお方かを言い表すことが大切です。主が願われていることは、私たちがどれほどみことばに対して従順であるかということです。自分の立派さを主張するために行う悔い改めはただのパフォーマンスです。神の心を喜ばせる真の悔い改めをしていきましょう。
・私の口は開かれた:21-22節
エルサレムが陥落して4ヶ月半ほどたっています。ここで、ずっと黙っていたエゼキエルの口が開かれます。24章で、エルサレムに対する預言を語り終えた後、主から口を封じるように言われました。そのことが実現したのです。
今度は、エルサレムのさばきではなく、回復を宣言していく時代に入ります。エゼキエルは知らせを受け取る前に、神の霊によって悟って口を開いていました。そして、エルサレムからの使者のメッセージは確認となりました。知識のことばによってエゼキエルは行動しています。
これから回復が語られていきますが、破壊がなければ回復がありません。私たちも罪という破壊された状態から、イエス様の十字架の恵みによって救いへと入れられました。そこに回復があります。
また、信じた後もみことばによって何度も砕かれます。その後に主の復活と回復を経験します。それが十字架の道でもあります。
・荒廃した地とする:23-29節
ここでは、エルサレムの破壊後に残っているわずかな住民に対して語られています。彼らの中には聖地信仰がありました。アブラハムに約束された地に住むことが祝福であるという信仰です。
よって、バビロン捕囚によって捕らえ移された者は罪人であり、エルサレムに残された者は聖い者だという考えがありました。
それは本当でしょうか?主はその逆を言われています。バビロンに捕らえ移されることは主のみこころです。その異教の地において主を見いだすことを願っておられました。
ここから何がわかるでしょうか。主はいつも悔い改めを願っておられるということです。主は私たちが悔い改めるのであれば、あらゆる方法をとられます。しかし、その主の恵みもいつまでも続く者ではありません。今日という日に主に立ち返りましょう。
・口は恋し心は利得を追う:30-33節
ここでは、バビロンのケバルのユダヤ人への預言です。彼らにはエゼキエルは身振り手振りで預言しました。それは実際に起こりました。しかし、ここではことばで預言しています。彼らは興味本位でしょうか。「次にエゼキエルが何を語るか聞いてみよう」と言っています。
確かに聞くことは大切です。彼らは今まで聞こうともしませんでした。そう考えたら成長があるでしょう。しかし、聞くだけでは片手落ちです。聞いたら実行しなければなりません。それで初めて聞いたと言うことになります。みことばに聞き従うことが祝福です。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
主の深い憐れみに感謝します。
福音を語り続けることができるように、今日主との生きた関係がもてるように祈ります。
よくわかる解説を感謝します。
み言葉を読めば読むほど、主の日が近いことを思います。聖い恐れを持って地上の日々を大切に歩むことが出来ますように。
善悪の木の実を食べて、自分が神になって裁くことがないように助けてください、どうしようもなく許せない心、裁く心が湧いて出てきた時は、十字架の主イエスを見上げます。
「私は決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ」主よ私の為のみ言葉と受け取り感謝します、立ち返ります。
今、互いに許せない苦しい心を持った真面目な義人であるクリスチャンを憐れんでください。霊の目と耳が開かれ主の愛の祝福の偉大さを悟ることが出来ますように。主にあって、許し合い愛し合う力を与えてください。