聖書通読クラブ Day 240

聖書通読クラブ Day 240【エレミヤ書 46章-48章】

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シャローム!

主のみこころは何かと悩むことがあります。それはすべてみことばに書かれているのですが、主は人を愛を持って創造されたのにそれを滅ぼすことを良しとされるときがあります。
今までの歴史の中でもそのような悲劇を繰り返してきました。未信者の人が理解できない部分であり、また、私も本当の意味では理解できていません。
しかし、その原因はあります。主は何度も何度も呼び掛けられているのに、それを聞こうともせず、聞いても従わなかった結果です。
聖書は人の理解を超えた神の奥義が書かれています。知恵と共に、聖霊様の助けを持ってみことばを朗読していきましょう。

今日の通読箇所:エレミヤ書 46章-48章

■アウトライン

●すべての人に語られる主:46章
・諸国の民について:1-12節
・エジプトの国を打つことについて:13-24節
・主のしもべヤコブについて:25-28節

●ペリシテ:47章
・ペリシテ人について:1-5節
・主の剣よ休まれ:6-7節

●モアブ:48章
・モアブについて:1-10節
・酒蔵の番人:11-13節
・モアブの角は切り落とされた:14-25節
・終わりの日に回復するモアブ:26-47節

■コラム

【46章】すべての人に語られる主

・諸国の民について:1-12節
今まではユダに対して語られていましたが、ここからは諸国の民に向けて語られています。アブラハムの祝福も、ノアの契約もイスラエルの民だけではなく、すべての民に与えられているものです。
バビロンがこの地域一帯を支配する事で、すべての人に神が神であることを知らせられました。
3節からを見ると、エジプトは自分たちの軍隊や武器を誇り、バビロンと戦おうとしています。しかし、主はそれらを無きものにされます。エジプトがバビロンに追われ、一気に撤退する様子がナイル川の反乱にたとえられています。ナイル川はエジプトの誇りですが、それも永遠には続きません。
11節からは癒やされないと言うことが書かれています。ギルアデは乳香が取れる所です。乳香は薬として用いられます。そのようなものを使っても癒やされないと書かれています。主が働いてくださらなければ、どんな最先端の医療を用いても癒やされません。逆に、主が働かれると医療や薬でもどうにもならないことが癒やされます。

・エジプトの国を打つことについて:13-24節
今まではエジプトがバビロンと戦うためにカルケミシュに戦いに行った場面でしたが、ここはバビロンがエジプトに攻め込んで来ている所です。
パロのことを雄牛と読んでいます。ネブカデネザルによって追われていますが、それは主のなされたことだと言うことが強調されています。外国人の兵士は自分の故郷に逃げて帰ります。
その中でも、とてもあわれに見えるのは「時期を逸して騒ぐもの」とあります。自分たちにはもう力は無いのに、空騒ぎしている様子です。そうして、エジプトの人々はバビロンに捕らえられます。ここで子牛と書かれていますがこれがパロです。力強い雄牛から子牛へと弱められています。そこに虻が群がるようにという表現でパロのことが描かれています。
蛇のようなかすかな声として、彼らの叫びは消えていきます。暴力を受けた女性のように、エジプトは滅びてしまいます。

・主のしもべヤコブについて:25-28節
ここに「ノ」という、おそらく聖書で最も短い地名が出てきます。このノとは、エジプトのテーベという場所です。エジプトの人々が礼拝していた主な神は太陽神のラーです。それと同じほどあがめられていたのがアモンという神です。これらの神々はエジプトの誇りでもありました。かつては主が直接この神々を礼拝するパロや祭司の集団、エジプトをさばかれました。しかし、今回は主はバビロンを用いてさばかれます。
エジプトは罪の象徴であり、この世の象徴です。神ではなく、エジプトに頼るならこのように裁かれます。しかし、さばかれた後には回復があります。「昔のように人が住むようになる」と語っておられます。そして、その後にイスラエルの民に語られます。エジプトがバビロンに滅ぼされたのを見て、イスラエルの民は恐れています。あのバビロンの恐怖を体験しているからです。恐れるイスラエルの民に対して主は二度も「わたしのしもべヤコブ」と語っておられます。主の愛を見ることができます。

【47章】ペリシテ

・ペリシテ人について:1-5節
ここではペリシテに対して預言されています。「パロがまだガザをうたないうち」とあるので、おそらくパロネコがカルケミシュに行く途中でペリシテ人と戦ったのではないかと思われます。
そして、悲惨なことにこの後、ペリシテ人はエジプトからもバビロンからも攻められ、破壊されます。
みことばにも北から来る水が書かれています。バビロンの事です。すべての住民が例外なく破壊されます。住民たちが泣きわめきます。アナク人の残りの者とありますが、指が六本ずつある巨人です。

・主の剣よ休まれ:6-7節
バビロンの剣を、主はご自分の剣とされています。バビロンが剣でここの人々を倒すことを主の御心とされているということです。
もちろん、戦いや人のいのちを奪うことは歓迎されることではありません。しかし、これが主のみこころです。私たちの考えより主のご計画の方がはるかに上にあります。自分の知性だけで神様を理解しようとすることを放棄しなければならないときがあります。この箇所はそのうちの一つかも知れません。

【48章】モアブ

・モアブについて:1-10節
ここはモアブに対する預言です。モアブは死海の東側に位置します。ここに沢山の町が出てきますが、その町は北から南に位置する国です。追われて次第に南下するモアブ人の様子がわかります。
彼らがさばかれた理由は何でしょうか。7節に書かれています。「自分の作った物や財宝に拠り頼んだ」というのがその理由です。かつて彼らは豊かでした。その中で神のことばを聞きませんでした。彼らの神はケモシュという神でした。ケモシュは快楽の神です。彼らはその様な神を拝んでいました。
それで主のことばがあります。「主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。」と言われています。かつて主はサムエルを通して、サウルに「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と言われました。

・酒蔵の番人:11-13節
モアブは若いときから安らかであったと書かれています。つまり、なにもなかったのです。主は黙示録で熱いか冷たいかであって欲しいと言われています。また、主は愛するからこそ試練を送られます。何もないというのは、ある意味かわいそうなことかも知れません。
モアブはケモシュのために恥を見るとかかれています。この偶像礼拝故に捕らえ移されてしまいます。

・モアブの角は切り落とされた:14-25節
どうしてモアブは安心していたのでしょうか。自分には財宝があり、作物もあり、戦いの勇士がいると思っていたからです。しかし、その勇士たちも虐殺されます。その上、王権がなくなってしまいます。「力ある枝、美しい笏」は王権の事を意味します。
ディボンはアルノン川の北の大きな町です。アロエルはアルノン警告の北の町です。平地の町々に対して、あらゆる町が滅ぼされることが預言されています。そして、角と腕、すなわちモアブの力が砕かれてしまいます。

・終わりの日に回復するモアブ:26-47節
ここで主が取り扱われているのはモアブの高慢です。「酔わせよ」と書かれているのは、主のさばきの杯です。神の怒りをそのように表現しています。イエス様もゲツセマネで祈られたとき、この表現を使われていました。
かつてモアブはイスラエルを笑いものにしていましたが、今度は自分たちがそのような立場になっています。彼らは高ぶってイスラエルを見ていました。自分は大丈夫だという誤った自信です。
主はエレミヤによって泣きわめいています。モアブがその様になっている姿を見て、モアブの民も泣きますが、それ以上に苦しい思いをされているのは主ご自身です。
32節からはシブマとヤゼルが出てきます。ぶどうや果樹が盛んな地域だったようです。しかし、果樹園がなくなり、喜び楽しみもなくなります。主が下さる喜びでない喜びは、このように消え去ってしまいます。
35節からを見ると、モアブの高き所、偶像礼拝に対して神様はさばかれます。かつてエリヤの戦いの時、バアルの預言者たちは自分の体を傷つけていました。同じように自分を傷つけています。
36節では笛のように鳴るという表現が出てきます。これはエレミヤを通して主が嘆いておられる表現です。主は誰一人滅びていくことを歓迎されません。彼らの滅びる姿を見て嘆いておられるのです。
40節から少し話が変わります。彼とはネブカデネザルとのことです。彼が翼を広げてモアブを一気に滅ぼします。そして、モアブはわずかな人が残りますが、民ではなくなってしまいます。そしてかれらはどのようにしても神のさばきから免れる事はできないようになっています。
45節からは、バビロンに捕らえ移された後、わずかな人が戻ってくるという慰めが書かれています。終わりの日の希望があります。救いに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

1件のコメント

  1. 私とともにいてくださる主に感謝します。
    愛しているから試練を与える主に感謝します。

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