シャローム!
長いと思っていたエレミヤ書の通読も今日で終わります。エレミヤ書に欠かすことのできないのはバビロンです。バビロンは悪ですが、主はそれをご自身のしもべと呼び、彼らを用いてもっと悪い、神を知りながら神に従わないユダをさばかれます。
しかし、最後には主はバビロンをもさばかれます。主に用いられている期間、主に立ち返り悔いあらためるなら救われたでしょうが、彼らはその機会を生かすことができませんでした。
私たちは単にイエス様を信じているから大丈夫と思ってしまってはいけません。毎日の神様との生きた関係が大切です。
そのためにも、毎日みことばの朗読と祈りを続けていきましょう。
今日の通読箇所:エレミヤ書 49章〜52章
■アウトライン
●周辺諸国への預言:49章
・四方からの恐怖:1-6節
・一瞬にして追い出す:7-22節
・ダマスコについて:23-27節
・ケダルとハツァルの王国について:28-33節
・エラムの繁栄を元通りにする:34-39節
●バビロンへのさばき:50章
・カルデヤ人の国への預言:1-10節
・彼女は主に罪を犯した:11-16節
・咎も罪も見つけられない:17-20節
・刑罰の時が来た:21-27節
・主が町に火を付ける:28-32節
・彼らを贖う万軍の主:33-46節
●出バビロン:51章
・破壊する者の霊を奮い立たせる:1-2節
・それぞれ自分のいのちを救え:3-8節
・天に達するバビロンの罪:9-10節
・主の御思い:11-19節
・あなたを使って:20-24節
・破壊の山:25-26節
・バビロンへのご計画を成し遂げる主:27-32節
・私の地はカルデヤの住民に注がれよ:33-35節
・バビロンの城壁は倒れた:36-44節
・行け、立ち止まるな:45-51節
・破滅の響き:52-58節
・最後のエレミヤのことば;59-64節
●成就する神のことば:52章
・囲まれるエルサレム:1-11節
・破壊されるエルサレム:12-27節
・捕囚の民の数:28-34節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【49章】周辺諸国への預言
・四方からの恐怖:1-6節
アモン人について書かれています。ロトによってアモンとモアブが生まれました。彼らは現在のヨルダンの首都、アンマンの辺りに国を持っていました。アッシリヤがもともといたガド族を捕らえ移したのでそこに住み着いていましたが、バビロンに滅ぼされます。その後、帰還したイスラエルの民がここに住みます。
彼らもまた、自分たちの力に拠り頼んでいました。谷や水の地の恵み、また財宝を誇りとしていました。主はそれらを取り除かれます。
しかし、そのようなアモン人にも残された者がいます。彼らはやがてコミュニティーを作り、それがイエス様の時代ではデカポリスと呼ばれる所となりました。あの、悪霊から解放される場面はデカポリスでの出来事です。
・一瞬にして追い出す:7-22節
続いてはエドムについてです。エドムはヤコブの兄のエサウの子孫です。場所は死海の南辺りです。「テマン」という町がありますが、エサウの子孫の一人で、ヨブ記に出てきた友人もテマン人エリファズでした。彼はヨブを人の知恵で何とかしようとしていました。そのように知恵が豊かな民族だったようです。
しかし、その知恵もバビロンの前出は役に立ちません。もし、私たちが人間の知恵に頼るなら、このようになるかもしれません。
しかし同時に、主の憐れみを見ることができます。ここでも残された民を興されます。主が彼らを守られます。
エドムは神のさばきを免れる事ができると考えていましたが、主はそんなことはないとはっきり断言されます。
イスラエルとそれほど関係のない民族でさえ、神の怒りの杯を飲まなければならないのに、ヤコブの兄であるエサウの子孫は神のさばきから免れることはできず、神のさばきをうけます。
そして、エドムが首都としていたボツラが廃墟となりますが、なんと黙示録に書かれているのを見ると、ここが最後にイスラエルの人々の逃れの地となっています。
エドムの回りには山々があり、岩に囲まれています。自然の要害のようになっている地形です。だから、自分たちは守られると思っています。その高ぶりを砕くために、主はバビロンを用いてエドムを滅ぼされます。
その後も彼らは追われ、イドマヤ人と呼ばれるようになります。イエス様の時代のヘロデ王はイドマヤ人です。彼らは国々の小さな者、さげすまれる者となりました。
上の二つのモアブ人、アモン人には残された者がおり、帰ってくるという約束がありましたがエドムにはありません。永遠の廃墟となります。悔いあらためることのできない高ぶりがその原因です。
・ダマスコについて:23-27節
ダマスコに対する神のさばきの宣告です。ダマスコはシリヤです。ここにもバビロンが襲ってきます。それゆえにダマスコが恐怖で弱り果てています。
ベン・ハダテとは神々の息子という意味ですが、そのような力強い町も火で焼き尽くされます。彼らはまことの神に出会う機会がありましたが、別の神をあがめていました。非常に残念です。
・ケダルとハツァルの王国について:28-33節
ケダルはイシュマエルの息子の名前です。アラビア人の遊牧民です。バビロンが彼らを攻めたとき「その天幕と羊の群れは奪われる」とあるとおりです。
ケダル人はモアブ人と同様何も無く安心して暮らしていました。モアブは財産に頼り、ケダルは回りとの関係を断って孤独に暮らしていました。他の民族との深い関わりを避けて遊牧生活をしていました。自分たちだけ助かりたいという欲望がありました。
私たちも一人の方が楽でしょう。しかし、みことばには「人はひとりでいるのは良くない」と書かれており、「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。」(伝道者4:9)と書かれています。人との関係は大変なことがありますが、それで私たちの人格は研がれていきます。
・エラムの繁栄を元通りにする:34-39節
最後はエラムへの預言です。現在のイラン辺りにあった国です。エラムはペルシャの中心となったこともある都市です。また、弓で有名だったようです。しかし、その誇りとする力を主は砕かれます。
しかし、主はエラムの繁栄を元通りにして下さると約束されています。このように、バビロン捕囚はユダに対してなされたものでありましたが、周辺諸国も影響を受けました。彼らはヤハウェなる神を知る機会がありましたが、それよりも自分の好むものを優先しました。私たちは何に頼っているでしょうか。主はあらゆる方法で主以外に頼っているものをことごとく壊されます。そして、そこにはヤハウェなる主だけが残ります。
【50章】バビロンへのさばき
・カルデヤ人の国への預言:1-10節
先ほどは五つの国がさばかれましたが、ここではバビロンがさばかれます。彼らの信じていた神々が砕かれます。そして、バビロンは荒れ果てていきます。しかも、非常に速いスピードで滅ぼされます。彼らの半分ほどはバビロンが倒された事さえ気づかないほどの早さでした。まるで、映画のタイタニック号が岩にぶつかっても、人々が楽しそうにしているような光景です。しかし、そのおかげで無駄な血を流さなくても良くなりました。戦いは長引けばそれだけ犠牲者も多くでます。
この光景はバビロンだけで無く、黙示録に出てくる大バビロンにも通じる預言です。
4節からを見ると、ユダだけでなく、北イスラエルもシオンに戻ってくることが預言されています。7節を見ると、バビロンの心の内が書かれています。「私たちには罪が無い。彼らが、正しい牧場である主、彼らの先祖の望みであった主に、罪を犯したためだ」と書かれています。主は確かにバビロンを用いられましたが、彼らのしていることを正しいとは思っておられません。ですから、このようにさばかれています。
この事は私たちの理解を超えることです。人の善悪の基準ではわからない神の基準でしょう。
・彼女は主に罪を犯した:11-16節
イスラエルの地にバビロンが来て、そこをあたかも自分のものであるかのように振る舞っていることに対する神のさばきです。
バビロンが滅んだときには、そこを耕していた人が自分の国に逃げ去ります。そして、バビロンの都も滅びます。
主はバビロンに対して「わたしの相続地を略奪するもの」と呼ばれています。彼らはイスラエルの民から土地を奪ったのでは無く、神から土地を奪ったのです。
そしてもう一つ、神がなされる領域に踏み入っては鳴らないと言うことを教えられます。その一つがさばきです。さばきは人のすることでは無く、唯一の神のみがさばき主です。ですから、神に変わって私たちがさばくのであれば、私たちは自分が神になっているのだと言うことを知りましょう。
また、復讐も主がされることです。自分の手で復讐するなら、私たちは罪を犯してしまいますが、主にさばきをお任せし、主が復讐して下るのなら、私たちに罪は残りません。また、主の復讐の方が人の復讐よりも何倍も恐ろしいはずです。どちらが有効か、よく考えてみましょう。
・咎も罪も見つけられない:17-20節
北イスラエルは先にアッシリヤによって捕らえ移されました。そしてその後、ユダがバビロンによって捕らえ移されました。徹底的に連れ去れた様子を「獅子が骨までしゃぶる」と表現しています。しかし、主はそれを回復して下さいます。
そして、ついには、イスラエルの咎が見つけられず、ユダの罪も見つけることができないまでに回復した姿があります。神の御子、イエスキリストの贖いの故に、終わりの時代にこのみことばが成就します。主の赦しは偉大です。私たちも赦された者です。であれば、私たちも自分自身を赦し、隣人を赦しましょう。
・刑罰の時が来た:21-27節
ここには二つの町の名前が出てきます。メラタイムとペコデです。メラタイムとは二重の反逆、ペコデとは罰という意味です。バビロンの反逆に対して神がさばかれます、
24節には「おまえが主に争いをしかけた」と書かれています。私たちも神にこのように立ち向かってしまうことは無いでしょうか。神と争って勝ち目はあるでしょうか。なんとか勝ったヤコブももものつがいを外されてしまいました。主に対しては逆らうのでは無く、従うのです。
・主が町に火を付ける:28-32節
バビロンは今まで周辺諸国を倒していきましたが、ここではメディヤ人たちが弓でバビロンに入り込み、バビロンの戦士たちが倒れています。ここでも主は高ぶりを責めておられます。神の嫌われるものの筆頭はこの高ぶりです。
・彼らを贖う万軍の主:33-46節
イスラエルの民とユダの民は虐げられ、解放されません。それゆえ、主の力を持って彼らを贖い出されます。出エジプトの時と同じようです。
神の民をそのようにしたので、その場所に日照りをおこされ、廃墟とされます。考えてみてください。かつてはソドムとゴモラも非常に緑豊かな湿地帯でした。しかし、そこが主によって滅ぼされました。この地上のどこにも安全な場所はありません。ただ主に身を寄せるものだけが主のシャロームを得ます。
41節からは、敵が北から来ることが書かれています。イスラエルの地形は北から敵が来るような形になっています。そして、ここに書かれていることを見ると、かつて主がバビロンを用いてエルサレムを滅ぼされる事を宣言された時に使われた表現です。また、エドムに対して語れたのと同じ表現も見ることができます。つまり、自分の行ったことに対する刈り取りがあると言うことを学ぶことができます。私たちは他人をはかるはかりで自分もはかられます。
【51章】出バビロン
・破壊する者の霊を奮い立たせる:1-2節
イスラエルの人々はまだバビロンの中にいます。しかし、主はメディヤ人の霊を奮い立たせてバビロンを攻めるようにされます。それはイスラエルの人々が標的ではありませんでした。
・それぞれ自分のいのちを救え:3-8節
イスラエルの人々は神の一方的な憐れみによって贖われます。
私たちも本来はさばかれ、神の怒りが下る存在でしたが、イエス様のながされた尊い御血潮によって贖われました。
彼らに対して、バビロンを滅ぼすから逃げなさいと言われています。まるで主がソドムを滅ぼされるときのようです。
・天に達するバビロンの罪:9-10節
主はそれでもバビロンをいやそうとされました。しかし、いやされませんでした。彼らの罪が天にまで達し、大空に上ったからです。正に、バベルの塔の時のようです。
主は終わりの時、正しく歩むものとそうで無い者をはっきりとわけられます。主は正しく歩むものに良いものを拒まれないお方です。
・主の御思い:11-19節
ここでは、バビロンが主の宮を荒らしたことに対するさばきが書かれています。彼らは本来、神を礼拝するために作られた器具を盗み出し、自分たちの楽しみのために用いました。また、彼らの神々の宮に保管しました。これは大きな罪です。
そのために主は、偶像のむなしさ、力の無さを示すためにご自身の御業を語られます。私たちは実際には偶像を作ることは無いでしょうが、いつも偶像を作っています。それは私たちの心の中、思いの中でです。ヤコブの分け前はそんなものではないのです。主の御名、すべてに勝る麗しい御名が私たちへの分け前です。
・あなたを使って:20-24節
イザヤ書の中ではユダヤ人をバビロンから解放するためにペルシャのクロス王が用いられると預言されていました。ここの「あなた」はこのクロス王だと思われます。
バビロンにとどめを刺すために、このクロス王が用いられます。主のために生きる者は、主が敵に対して報復されます。
・破壊の山:25-26節
全地を破壊する破壊の山はバビロンです。主が彼らを攻められます。永遠に荒れ果てるまでさばかれます。主の報復は恐ろしいものであります。
・バビロンへのご計画を成し遂げる主:27-32節
このところで、主はメディヤ・ペルシャを用いてバビロンを攻めると言うことを強く命じられています。あの強いバビロンがおじ惑っています。
・私の地はカルデヤの住民に注がれよ:33-35節
シオンに住む者たちが、ネブカデネザルがエルサレムに対してしたことに対して復讐を願っています。そして、主はその願を聞かれ、実行されます。
・バビロンの城壁は倒れた:36-44節
黙示録でも、また詩篇でも聖徒たちが正しいさばきを願っています。私たちはどうしても自分の手で復讐したくなります。そうするなら、すっきりするからです。しかし、それは神の願われる方法ではありません。仕返ししたくなったときは、祈るのです。その悔しさを祈りにぶつけます。時には涙することもあるでしょう。叫ぶときもあるでしょう。その様な祈りをも、主は受け入れてくださいます。ですから、さばきを主にお委ねしましょう。
・行け、立ち止まるな:45-51節
主はバビロンにいるイスラエルの人々に、バビロンにいてはならないと命じられます。バビロンに長く留まり過ぎるなら、彼らの風習が入って来てしまいますし、この後起こるバビロンの破壊に巻き込まれてしまいます。
荒野で主が雲の柱、火の柱として導かれたときのように、自分の都合ではなく、主のご都合に合わせて自分を行動させなければなりません。50節には「エルサレムを心に思い浮かべよ」とあります。そうです。私たちもいつも天の故郷、天のエルサレムにあこがれています。
・破滅の響き:52-58節
バビロンは破壊されます。人々はそれに疲れ果てます。安息と正反対の状況です。いままでの自分の働きがすべて無駄になるような感覚でしょうか。この地上に価値を置きすぎるなら、それが壊れたときこのような状態になります。詩篇11:3には「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」とあります。
私たちは何に価値を置いているでしょうか?
・最後のエレミヤのことば;59-64節
ユダの最後の王、ゼデキヤの治世の第四年の出来事です。この時、エレミヤは偽預言者ハナヌヤと対決しています。ハナヌヤは二年で主がバビロンの王を打って、エルサレムに帰れると言いました。しかし、その偽りのために彼は神に打たれました。
エレミヤはそうではなく、バビロンが攻めてくると言っていました。そして、バビロンに服従するようにと言っていました。
何が主の御心なのでしょうか。私たちの価値観だけではそのことはわかりません。ですから、どんなときにも知恵と啓示の御霊に助けていただき、みことばを基準とすることが大切です。
【52章】成就する神のことば
・囲まれるエルサレム:1-11節
51節の終わりには「ここまでが、エレミヤのことばである」と書かれています。ですから、おそらくこの52章は後に編纂した者が書き加えた箇所ではないかと推測されます。
列王記第二の最後の方と同じような内容です。エレミヤはこれらのことが実際に起こる前にこの預言を書きました。それが果たして本当にその通りに起こったのです。
おそらく、この箇所は後にバビロンから戻ってみことばを回復したエズラによって書き加えられたのかもしれません。
まずはゼデキヤのことが書かれています。何度も何度もエレミヤを通して主のことばが語られたにもかかわらず、従いませんでした。
彼はバビロンに背き、途中で捕まえられ捕らえ移されます。主のことばどおりになりました。
・破壊されるエルサレム:12-27節
ほとんどの人が連れ去れ、家々は焼き払われました。この事もエレミヤは前もって伝えていました。
全部で三回にわたって行われた捕囚で高い地位から低い地位の人まで、また金から青銅に至るまでが持ち去られました。27章の預言の通りです。
・捕囚の民の数:28-34節
最後に捕囚の人数が書かれています。これは列王記第二24章にある人数とずれています。どうしてその様な事が起こったのでしょうか。
おそらく、ここの人数は第二回目の捕囚のときに数えられた任ずでは無いかと思われます。
そして、31節からはエホヤキンのことが書かれています。彼はネブカデネザルの息子、エビル・メロダクから好意を受けています。ダニエル書にこの事が出てきますが、彼の父、ネブカデネザルが7年間理性を失った間、自分こそ王であると高ぶりました。父の理性が戻ってきたとき、彼は罰として牢獄に入れられますが、そこにエホヤキンがいます。
エホヤキンは悪い王でした。しかし、2列24:12に「ユダの王エホヤキンは、その母や、家来たち、高官たち、宦官たちといっしょにバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は彼を捕虜にした。」とあります。
彼は確かに悪い王でしたが、神のことばに従いました。ですから回復があったのです。最初にイエス様とパラダイスに行ったのは義人でしょうか?いいえ。凶悪な犯罪者でした。イエス様を信じ、従う者には救いと永遠のいのちがあります。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
主の赦しに感謝します。
自分を赦し、隣人を赦し、さばきを主に委ねられるように祈ります。
エレミヤは主を信頼し従っていても、苦難の連続でした。イエス様も同じですね。
神様の思いに忠実に歩まれた信仰の姿に、少しでも近づく事が出来ますように。