聖書通読クラブ Day 242

聖書通読クラブ Day 424【哀歌 1章-2章】

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シャローム!

哀歌はエレミヤ書の延長のような書簡です。エレミヤがエルサレムの破壊を見て、それを悲しみの歌としたものの集まりです。
哀歌の書簡のヘブライ語の意味は「ああ」というものです。そして、詩篇119のようにヘブライ語のアルファベットのあいうえお作文のようになっています。
エレミヤは何を嘆いているのでしょうか。エルサレムの人が犯した罪です。神に選ばれたものが罪を犯し、神の懲らしめを受ける悲しみが哀歌のテーマです。主に愛された者が、自分の罪故に受ける傷がどれ程深いか、みことばから見ていきましょう。

聖書通読クラブ Day 424

■アウトライン

●慰める者がいない:1章
  ・罪に罪を重ね汚らわしいものとなった:1-9節
  ・自分の宝を食物に変える:10-11節
  ・私をひどいめに会わされた:12-17節
  ・主の命令に逆らった:18-19節
  ・彼らにも報い返してください:20-22節

●主が敵のようになられる:2章
  ・もう律法はない:1-10節
  ・私の民の娘の傷:11-12節
  ・美の極みと言われた町:13-16節
  ・ぼんやりしてはならない:17-19節
  ・御怒りの日の虐殺:20-22節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【1章】慰める者がいない

・罪に罪を重ね汚らわしいものとなった:1-9節
エルサレムの崩壊の悲しみをやもめにたとえています。ダビデ王朝、そして栄華を極めたソロモン王朝の時代には、国々が謁見に来るほどの繁栄していましたが、それが今は見る影もありません。
やもめは頼りにしていた人がいなくなってしまった状態です。頼るもの無く、孤立するエルサレムの悲しみです。バビロンに対抗するために一緒に戦うことを約束したアモン、エドム、モアブなどの国々がいなくなってしまいました。
3節は異国の地で住むことの難しさが語れています。教会の中ではとても居心地が良いですが、職場に行くと難しくなる事に似ているでしょうか。しかし、本来ならその様な場所にこそ、福音を運んでいく必要があります。
4節では、祭りがなくなったことの嘆きが書かれています。礼拝が突如として取り上げられる悲しみを、私たちは少し理解できるのではないでしょうか。
5-7には、バビロンが頭になり、栄えることを悲しんでいます。その原因はユダの人々の罪です。彼らが頼りにしていた首長らもバビロンに捕らえられました。そして幼子までも捕らえられて行きます。
このようになってしまったエルサレムを見て、誰も慰める者がいなくなっています。

・自分の宝を食物に変える:10-11節
バビロンはエルサレムの宝に手を伸ばしました。神殿です。異邦の民が聖所に入ったのです。本来であれば、聖所は祭司しか入れません。
主との親密な交わりの場所に別人が入ってきています。その様子を、女性があまりにも飢えていて、自分の体を知らない男性に売っている様子にたとえています。

・私をひどいめに会わされた:12-17節
エレミヤは預言者であると共にとりなし手です。エルサレムの嘆きを自分のこととしてとらえ、「私」と語り始めています。その姿は、まるでイエス様が十字架に打ち付けられているときの苦しみのようにも見えます。
ユダの人々は首にくびきを付けられてバビロンに連れて行かれました。エレミヤはそれを罪のくびきと表現しています。正に、罪はそのように私たちを束縛し、死の道へと連れて行きます。
そして、自分の頼りにしているものが倒れ、自分が踏みにじられたと書かれています。それを酒ぶねで踏まれるぶどうにたとえています。
さらに、そのような状態になっても慰める者がいないことに嘆いています。

・主の命令に逆らった:18-19節
エレミヤは自分が罪で苦しんだことを述べ、すべての国々に語られます。主のさばきの正しさを叫んでいます。
もし、何か罪を犯した後裁判にかけられ、本当は犯罪を犯しているのに裁判で無罪になると言うケースがあります。法律上はその人の罪は赦されますが、少なくともその人の中では悔いあらためる機会が失われてしまった状態です。
罪を罪として認めること、主のさばきは正しいと認めることが正義です。

・彼らにも報い返してください:20-22節
主に対して逆らったことが、どれほど自分を苦しめるかをエレミヤは言っています。慰める者がいないからです。
そして、エレミヤは敵への復讐を祈ります。彼らの悪に主のさばきがあるように祈っています。復讐は神のしてくださることです。

【2章】主が敵のようになられる

・もう律法はない:1-10節
2章も「ああ」から始まっています。主はシオンをご自分の足台と呼ばれています。ご自身が立とうとされているその箇所を自ら壊されました。最初に壊されたのは要塞です。
また、バビロンがエルサレムを焼いたのですが、それは主が焼いたと言われています。
そして、主はユダに対して敵のように振る舞われます。敵ではなく、敵のようにです。なぜかというと彼らが悔いあらためないからです。
もうひとつ、例祭、つまり、礼拝に対しても同じ事をされます。これは本当に考えさせられることです。習慣的に、形だけ、宗教的に礼拝に集うことが礼拝ではありません。私たちは何のために礼拝に集うのでしょうか。よく祈って考えてみる必要があります。

・私の民の娘の傷:11-12節
エレミヤが最も心を痛めている場面です。主が最も怒られたことは、ユダの人々が宮で礼拝をしながら、一方で偶像礼拝をし、そこでできた子どもを火の中をくぐらせるという罪を犯し、幼子の血を流したことによります。これが決定だとなり、ユダに神の怒りが下ります。
そして今、彼らの子どもたちも死に絶えるようになっています。彼らの罪の刈り取りをしています。

・美の極みと言われた町:13-16節
ここでは預言者に対する糾弾です。彼らが自分勝手なこと、民の耳に心地良い神が言っていないことを語ることがいかに罪深いかを言っています。偽預言者は罪を見ないでもバビロンから救われるという偽預言をしました。教会でも罪を教えない教会は同じようになるでしょう。ヤハウェこそがまことの神だと言い続けていたユダの人々は、自分たちの罪のために滅ぼされています。それをみた諸国はあざけります。
私たちもキリスト者としての品格を持ち合わせているでしょうか。神にも人にも愛され、認められる実を結んでいるでしょうか。

・ぼんやりしてはならない:17-19節
主はご自身の手を下すことをなんとか避けたいと考えておられました。それで、何度も預言を語るのですが、人々は聞こうとしません。
もし、自分の罪を悟り、主に対して心から叫ぶなら、主は赦してくださるでしょう。みことばを通して心を探っていただき、御霊の助けで悔いあらためることができるのは祝福です。

・御怒りの日の虐殺:20-22節
この箇所では主への心からの訴えが見られます。幼子は死んでしまっただけでなく、あまりの飢えから自分の子どもを食べてしまったとあります。また、聖所で祭司や預言者が虐殺されます。
このような目を背けたくなるような光景がありますが、これが罪から来る報酬です。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. キリスト者としての品格を持てるように祈ります。
    聖霊様の助けによって悔い改めることができることを感謝します。

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