聖書通読クラブ Day 424

聖書通読クラブ Day 424【哀歌 3章-5章】

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シャローム!

エルサレムは崩壊します。今まで彼らの先祖たちが積み上げてきた様々なものが崩れ落ち、全てがなくなっています。私たちもここまでではないでしょうが、この2年弱、そのような事を経験したのではないでしょうか。それで、沢山の苦労をされた方もおられるかも知れません。
しかし、覚えておきましょう。主は私たちが憎くてそのような状況に置かれるのではありません。主の願う、新しい芽を芽吹かせるために全てを破壊されます。私たち信じる者は、主の恵みにより滅び失せないことを感謝します。
今日で哀歌の通読は終わります。荒廃の中にある一筋の希望を今日もみことばから受け取っていきましょう。

今日の通読箇所:哀歌 3章-5章

■アウトライン

●主の恵みにより滅び失せない:3章
  ・思い返し待ち望む:1-18節
  ・どん底:19-21節
  ・私たちが滅びなかったのは主の恵みによる:22-24節
  ・主の救いを黙って待つのは良い:25-39節
  ・主のみもとに立ち返ろう:40-45節
  ・目から涙が川のように流れる:46-54節
  ・深い穴から御名を呼ぶ:55-66節

●無慈悲な状況:4章
  ・荒野のだちょうのように無慈悲:1-12節
  ・預言者たちの罪、祭司の咎:13-20節
  ・エドムの娘、シオンの娘:21-22節

●あなたのみもとに帰らせてください:5章
  ・私たちの心が病んでいるのはこのためです:1-18節
  ・あなたのみもとに帰らせてください:19-22節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【3章】主の恵みにより滅び失せない

・思い返し待ち望む:1-18節
主がエルサレムに下している災いを、エレミヤは自分の体に受けているように書いています。
エレミヤは自分と同じほどにエルサレムを愛しました、そして、今のエルサレムの状態を監獄の中にいるようだと言っています。その中でむち打たれ、肉と皮がすり減り、骨を砕き、苦みと苦難で取り囲まれ、死んだ者のようになったと言っています。これが罪を犯した人の本来の姿です。
そして、主が自分に敵対し、助けを求めて叫んでも聞かれません。救いの無い状態です。そして、通り道を塞いでいます。何か物事が進まない原因のひとつは、ここからわかるように私たちの罪が原因かも知れません。
11節では自分を畑のようにたとえ、それを荒らされます。矢の的のようになります。そのような状態を見て、諸国の物笑いとなっています。これはイエス様の姿でもあります。主は自らこのような道を選び取ってくださいました。私たちの罪を背負った結果です。そして、十字架で贖いを完了してくださいました。
これはまた、イエス様の模範の姿でもあります。とりなしの祈りをするとき、このような姿勢で、隣人の痛みを自分の痛みとして祈るのです。
15節からは心が苦々しくなってきています。苦よもぎはものすごく苦く、精神をおかしくさせる成分が入っている草です。黙示録にもこれが出てきます。そして、「歯を小石で砕き」とあります。食べ物の中に誤って小石が混入し、それを食べて歯が欠けてしまったという状態です。

・どん底:19-21節
とりなす祈るとき、また、私たちが信仰生活を続けるとき、このような苦みを覚えることがあります。罪の大きさに打ちひしがれる時があります。しかし、どん底に大地があります。落ちる所まで落ちた者には回復が待っています。

・私たちが滅びなかったのは主の恵みによる:22-24節
私たちがいつも忘れてはならないことは、主は良いお方だということです。今、私たちは生かされています。大きな問題や痛み、苦しみを抱えているでしょう。それでも生きています。眠っていても、違うことをしていても、心臓は脈打ち、生命は維持されています。これは主の憐れみと恵みです。主の憐れみは尽きることなく、朝ごとにあたらしいのです。この希望があるからこそ、どのような状況、環境でも主を待ち望むことができます。

・主の救いを黙って待つのは良い:25-39節
主は良いお方だと信じること、そしてこのお方を待ち望むと言うことは私たちのたましいに安らぎを与えます。だから、ああだ、こうだと色々言い立てるのをやめて、黙って主の救いを待つのです。なぜなら主はいつも良いお方であり、私たちにいつも良くしてくださるお方だからです。
そして、若いときの事が書かれています。「若いときの苦労は買ってでもしなさい」ということばがあります。そのように、若いときに王くびきは良いものであると書かれています。これは十字架の道でもあります。もし、イエス様が「十字架の道は苦しいからいやだ」と言って逃げてしまったら、救いはありませんでした。
主は私たちの永遠に至るまでのご計画をすべてご存じです。それなので、いつ試練があり、どのように回復するかもご計画されています。自分に試練がやってきたなら、「主が私を認め、次のステージに導かれているのだ」と受け取りましょう。
31節にあるように、主はいつまでも見放してはおられないのです。悩みを受けても、主の豊かな恵みで憐れんでくださいます。主の送られる苦しみは単なる苦しみではありません。そこに主の深いご計画があります。ここを見ても、主はおられ、報いてくださる方だと言うことがわかります。
ですから、私たちは口のことばに気をつけたいと思います。39節にあるように、自分自身の罪のためにつぶやいてしまうからです。

・主のみもとに立ち返ろう:40-45節
上の事に応答している姿がここにあります。「私たちの道を尋ね調べて、旬のみもとに立ち返ろう」とあります。これこそが悔い改めの本質です。みことばを読み、聖霊様によってその中から自分の中の罪が教えられます。それを認め、主に告白するなら、私たちの罪の性質は十字架によって取り去られ、天の父のところへと帰ることができます。そうして、手も心も天におられる神に向かってあげられます。
42節からは、罪を具体的に告白しています。まず、自分のそむきを認めています。これを認めることが大切です。これを認められないから、主は赦しを与えてくださいませんでした。しかし、これを悟る事ができるのも、また聖霊様の助け無くしてはできないことです。
主に向かって罪を告白する時間を設けてみましょう。誰にも言わなくても大丈夫です。しかし、一人になって主に親しく語り帰るように、小さな声でも良いので告白してみて下さい。祈るときには奥まった部屋に入り、そこにいる父に向かって祈ることが大切だとイエス様も教えてくださっています。この事を通して、私たちは束縛から解放され、真理が与える自由の中を生きることができます。

・目から涙が川のように流れる:46-54節
エレミヤはバビロンが攻めてきて、エルサレムを破壊する姿を見て阿弥陀をながして嘆いています。しかし、その悲しみは永遠には続きません。終わりがあります。その時は「主が天から見おろして、顧みてくださる時まで」です。
エレミヤは祈りの中で民を抱いた悔い改めから自分自身への祈りへと導かれています。エレミヤ人もこの混乱の中で激しい迫害に遭いました。その間、エレミヤは主に救いを祈っていました。

・深い穴から御名を呼ぶ:55-66節
エレミヤは信仰の人ですが、感情もありました。ですから、自分を迫害した者に対して復讐を祈っています。しかし、それは彼らに対する仕返しではなく、彼らが神からのさばきを受けて悔いあらためることができるようにとの動機です。また、自分の手で復讐しないようにしていることにも注目しましょう。

【4章】無慈悲な状況

・荒野のだちょうのように無慈悲:1-12節
1章ではエルサレムが陥落する姿、2章でエルサレムを自分の事として抱いて祈り、3章で絶望の中で主の恵みを知ることが語られていました。ここからは改めてエルサレムの荒廃の悲惨さを、かつての繁栄と対比しながら嘆いています。
1節は詩的な表現です。夕日で照らされるエルサレムは黄金に輝いていますが、かつてのソロモンの時代の栄華はそこにはありません。神殿の中で輝いていたものはすべてバビロンに持っていかれてしまいました。
3節からはだちょうが出てきます。調べてみると、だちょうは珍しい生き物で、母性がゼロだそうです。また、更に奇妙なことに、砂漠の中で卵を産むとき、一つの卵が羽化使用とすとき、すぐそのとなりにもう一つの卵を産むそうです。生まれたひなが最初に卵を食べるためだそうです。ちょうどその様子がエルサレムの状態にそっくりです。
また、裕福な者も退避の中から何か食べるものがないかと探しています。
6節には驚くことが書かれています。罪の象徴のように思われているソドムの罪よりこの時の罪の方が大きいと語っています。
ソドムは火と硫黄のさばきをうけました。それなら一瞬でいのちが果てます。しかし、今回は敵に囲まれ、恐怖を抱かされ、食料も無くなり、時間をかけて苦しめられています。それが彼らの罪の刈り取りです。
そして、ナジル人が出てきますが、これはたとえとしてかかれています。実際、ナジル人の肌は雪のように白かったわけでは無いと思います。覚えているでしょうか。モーセが神と顔と顔を合わせて出会ったとき、モーセの顔は光りました。主に向くなら覆いは取りのけられ、雪のように白くなります。そのような霊的状況をこのように書いています。ところが、余りにもひどい飢餓で肌が黒くなってしまっています。
この時の悲惨さは、どれほどひどかったのでしょうか。母が自分の子を煮て食べるほどの飢餓状態です。普通の親であれば、自分が死んででも子どもを生かそうと考えるはずですが、その様なモラルも崩壊しています。理性も何も無い獣のような生き方です。

・預言者たちの罪、祭司の咎:13-20節
聖書に「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず」とありますが、その中でも最も最初にさばかれるのは預言者と祭司です。なぜなら、今でこそ誰でも聖書を読めますが、この時は祭司たちを通してでしか、みことばを受け取ることができなかったからです。聖書は巻き物に書かれた高級品でした。
また、その神のことばを説き明かすのが預言者や祭司の役割です。それなのに、そこに自分の考えを優先して、神のことばをまっすぐ語っていなかったのです。この罪は大きなものです。
17節は、このように預言者や祭司が堕落してしまってから、ゼデキヤが捕らえ移されるまでの事が書かれています。彼らを助ける国はありません。バビロン軍が目前に迫っています。そして、ユダの人々が頼りにしていた最後の砦であるゼデキヤまで捕らえられてしまいました。エレミヤの言ったとおり、バビロンに降伏してさえいれば、いのちは助かったでしょう。しかし、神のことばに背きました。

・エドムの娘、シオンの娘:21-22節
エドムとユダは同盟を結んでいました。ところがユダが滅ぼされた時、エドムは喜びました。エドムの長年の恨みの姿を見ることができます。それゆえに、主はエドムを完全に滅ぼされます。ところが、エルサレムは回復します。赦さないとどのようになってしまうのかを教えられるみことばです。憎しみは自分自身を滅ぼしてしまいます。一方、憎まれた方は神からの憐れみを受けて回復します。

【5章】あなたのみもとに帰らせてください

・私たちの心が病んでいるのはこのためです:1-18節
ここでの祈りは、自分たちがすでにエルサレムに帰ったことを信じて祈られています。彼らが持っていた相続の権利が奪い取られています。今まで積み重ねてきたものがすべて無に服しているようなむなしさがあります。
5節は、サタンの働きを見ることができます。出エジプトの時、パロも同じ事を言いました。イスラエルの民が奴隷として働かされていたとき、レンガの材料を減らしますが、同じ量を作れと命じます。そして、「休むな。働け」と言います。これがサタンのさせたいことです。私たちを忙しくさせ、礼拝をさせなくさせるのです。安息日はこの働きをストップして神を見上げるときです。忙しさは私たちから安息を奪います。
11節からは、エルサレムの中で何が起こったのかを思い出している場面です。女性は辱められます。首長たちは殺され、若い者も奴隷のように酷使され、幼子から年寄りに至るまで、日常の生活ができなくなっています。喜びが奪われ、冠のような尊厳は地に落ちました。それで彼らは「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。」と罪を告白しています。

・あなたのみもとに帰らせてください:19-22節
ここでは、重大な気づきがあります。主はとこしえに御座についておられると告白しています。つまり、時代を超えて主が支配しておられると言うことに気がつきます。
そして、切なるエルサレムの回復を願っています。しかし、その期間が余りにも長いので主が長い間捨てておられるように感じます。
21節には心からの告白があります。「主よあなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。」これが悔い改めの祈りです。ルカの福音書にある放蕩息子のようです。私たちは帰る所があります。主は心からの回心を受け入れてくださる、いつも良いお方です。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. 主はよいお方です。
    主よあなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。

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