聖書通読クラブ Day 244

聖書通読クラブ Day 244【エゼキエル書 1章-3章】

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シャローム!

私たちは通読で預言者たちが書いた書物を読んでいます。そこで気づくのは、彼らはまず神様に呼ばれていると言うことです。聖書に登場する神の器は皆、神に呼ばれています。そして、それに答えています。そこから彼らの神との働きが始まっていっています。
私たちも主に呼ばれた者です。そして、その呼び掛けに答えることができた者です。これは偶然ではなく、神の大きな目的があることを覚えましょう。
今日のエゼキエルの冒頭では神様が現れてくださいます。私たちにもこれほどはっきり神の現れがあれば良いと願いますが、聖書が神ご自身なので、そういう意味では私たちは毎日、いつでも神の現れを体験できることを感謝します。
それでは、旧約聖書の山場のひとつ、エゼキエルを共に読み進めて参りましょう。

今日の通読箇所:エゼキエル書 1章-3章

■アウトライン

●ケバル川でのまぼろし:1章
  ・神々しいまぼろし:1-3節
  ・四つの生きもののようなもの:4-14節
  ・輪:15-21節
  ・翼:22-28節

●反逆の家:2章
  ・霊が私の内に入る:1-7節
  ・一つの巻き物:8-10節

●みことばを食べて従う:3章
  ・巻き物を食べよ:1-11節
  ・苦々しい思いで出て行く:12-15節
  ・イスラエルの家の見張り人:16-21節
  ・谷間での主の現れ:22-27節

(1)通読のために心を整える

心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。

(2)通読

今日の通読箇所をまず音読しましょう。

(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す

コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。

(4)コラムを読む

コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。

■コラム

【1章】ケバル川でのまぼろし

・神々しいまぼろし:1-3節
エゼキエルが神からの呼びかけを受けたのは、第三十年の第四の月の五日とあります。律法の規定では祭司として仕えることができるのは30歳から50歳までですので、エゼキエルが正式に神の働きに召されたと言うことがわかります。
そして、場所はカルデヤ人のケバル川のほとりとあるので、これはバビロンの地での出来事だと言うことがわかります。彼はバビロンで捕囚の民と共にいました。この時、預言者エレミヤもいました。そう考えるとすごい時代です。
その様なエゼキエルに、はっきりと主からの語りかけがありました。これから彼は様々な経験をしますが、どこに行くにも主の御手がありました。

・四つの生きもののようなもの:4-14節
エゼキエルはまず、四つの生き物のようなものを見ました。これは主の御座の回りで仕える御使い、ケルビムです。激しい風、大きな雲と火が北から来ました。この意味はエルサレムがバビロンによって滅ぼされるということです。
そして、その火の中央には青銅のように輝く者がありました。聖書の中でいくつかの鉱物が出てきますが、青銅は幕屋の大庭で使われる素材です。青銅は主に、神のさばきを意味します。
この箇所の特長は「四」という数字でしょう。聖書で四は全世界を意味します。また、同時に神の御住まいも意味します。幕屋の聖所は正方形(四角形)であり、再臨後に天から降りてくる新しいエルサレムも立方体です。
エゼキエルが見たものは「人間のような」と書かれています。見た目は私たちによく似ているのですが、どこか違った形をしているようです。他で預言されている所もそうですが、天の光景を見たものはそれをことばに表すことが難しいのです。なぜなら天はこの地上のものではないからです。ですから、「あえて言うならこのようなものだ」という表現しかできません。
この御使いの特長は四つの顔です。これは新約聖書の福音書を啓示しています。マタイは王としての獅子、マルコは力の牛、ルカは人であり神である人間、そしてヨハネは天から見下ろす鷲です。
この翼は二つが上を向いています。これは主をたたえ、礼拝する姿です。また、自分の体を覆っているのはへりくだりを意味します。この両方があって主を礼拝できます。

・輪:15-21節
この御使いには輪があります。おそらく、西洋の絵画に出てくる天使の輪はここから取られたのでは無いかと思います。しかし、よく見ると絵で見る天使の輪とは違っていることがわかるでしょう。
この輪は車輪です。これを見たエゼキエルは恐れを覚えます。車輪にびっしりと目があったからです。これは啓示的な表現で、神様があまねく全てをご覧になっているという意味です。この輪は霊が生かせる所に生き物が行くとき、一緒に付いていきます。主がいつも見守っていてくださるという表現です。

・翼:22-28節
ケルビムの上には水晶のような御座があります。黙示録でも同じような表現がなされています。そこにいた御使いが動くとき、翼が音を立てますが、それは大水のとどろき、全能者の声のようでありました。私たちが賛美をささげるとき、天ではこのような事が起こっているのでは無いかと思います。
そして、主ご自身が御声を発せられると、ケルビムも翼を止めます。天に静寂が訪れます。
私たちは天の御国に憧れるでしょう。しかし、天を知らなければ憧れることもできません。この箇所、そして黙示録4章は明確に天の光景が書かれています。以前、ある方から黙示録4章を100回読んでひれ伏してみましょうとチャレンジされました。最後にひれ伏すとき、なんとも言えない神様の臨在に包まれた事を思い出します。
28節で、エゼキエルはこれを見てひれ伏します。これが神様と出会ったときの正しい反応です。イエスの血潮を宣言する祈りの著者、アテフ博士はある人が「神様の素晴らしい臨在を体験しました」と言ってきた人に対して、「それであなたはどうしましたか?」と聞かれたそうです。するとその人は「あまりの喜びに躍り上がってしまいました」と答えたそうです。それを聞いたアテフ博士は「そうですか」と言って会話を終えたそうです。
聖書の中で、本当に神と出会った者がどのような反応をしているでしょうか。皆ひれ伏し、また死んだようになった者もいます。これが本物の神との出会いです。
みことばを読み、みことばに打たれてひれ伏さざるを得ないという体験を毎日したいと願います。

【2章】反逆の家

・霊が私の内に入る:1-7節
このように、エゼキエルは強烈な主からの召命を受けました。そこで彼はどのように主に仕えていくのでしょうか。ここから、主が具体的に語ってくださいます。
1節には興味深い表現があります。「霊が私の内にはいり」とあります。これはエゼキエルの思いを超えて、主がエゼキエルの心を動かされているという表現です。ヨハネも同じような体験をしました。
そして、主はエゼキエルの耳に痛いことを語られます。「反逆の家に遣わす」という事です。これは人から言われたことではなく、神からの仰せです。いろいろなリスクも考えず、このみことばの召命を信じ、一歩踏み出すとき、そこに奇跡が起こっていきます。問題は多くの人が神の声を聞きながら、それを無視して行動せずにいるという事実です。
エゼキエルは反逆の家に行き、そこで神のことばを告げます。どう考えても簡単なことではありません。しかし、主の仰せなので従います。主は彼らを恐れてはならないと励まされます。
エレミヤもまっすぐに神のことばを語れば語るほど迫害を受けました。エゼキエルも同様になることは容易に想像できます。神のことばを語っても聞かず、逆にひどいことをされます。その中で、エゼキエルを支えたのは神のことばです。
私たちもこの召命のみことばを覚える必要があります。主からのみことばを受け取っているでしょうか。私は以前にもお伝えしましたがイザヤ61を主が直接三度も語ってくださいました。みなさんも召しのみことばを求めて祈ってみましょう。

・一つの巻き物:8-10節
この巻き物には何が書かれていたでしょうか。「哀歌と、嘆きと、悲しみ」です。もっと希望に満ちた物が書かれていると願いますが、そうではありません。これから起こるエルサレムの崩壊の事です。しかし、その後に回復があります。
私たちもみことばを読むとき、同じような経験をするかも知れません。「聖書はいつも私を責め、さばき、恐いことを言う」と思うかも知れませんが、それは事実です。なぜなら、それによって私たちの罪の性質が死ぬからです。しかし、その後にはイエス様と共に復活の恵みにも預かります。
このような悲しいことですが、みことばを食べると「口に甘い」のです。これが神のみことばです。
ところが、同じような体験をしたヨハネは、「みことばは口には甘いが、腹には苦い」と言っています。その通りです。みことばを聞くと「すばらしい」と思いますが、実行するとなるととても困難を覚えます。ですから祈りが必要です。「みことばを実行できますように」と祈りましょう。
私たちはこのエゼキエル書を通して、何が本当の預言かを祈り求めてみましょう。大きな集会で人々を熱狂させるような預言も主の預言かも知れませんが、それは聞いて満足するだけで、何も行動に結びつかないかも知れません。今、主の不思議な方法によってそのような集まりが閉ざされています。そうです。今こそ、みことばを自分のたましいに預言していくときです。
主が与えてくださるこの巻き物(みことば)で私たちの腹を満たしていきましょう。

【3章】みことばを食べて従う

・巻き物を食べよ:1-11節
エゼキエル書は興味深いことばかりです。ここでは巻き物を食べなさいと言っています。みことばを食べるのです。私たちの生命を維持するために、食事は欠かすことができません。食べ物が体内で消化され、エネルギーとなり私たちを生かします。
みことばもおなじです。霊的な食物です。このみことばを私たちが食べるとき、それによって私たちは満たされ、それが私たちの霊を生かすエネルギーとなります。
それでは、みことばを食べるとはどうするのでしょうか。間違っても聖書を破って食べないでください。ほぼ確実におなかを壊します。そうではなく、みことばを食べるとはみことばを朗読することです。黙読ではなく朗読です。そうするなら、私たちのたましいは息に乗った神のことばを聞きます。そして、たましいは生きるのです。
詩篇の中で、「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と言っています。みことばを宣言して、自分のたましいが生き、主につながるようにしていきましょう。
また、エゼキエルが遣わされた所は外国ではありませんでした。難しい外国語を話す民とはアッシリヤ人やカルデヤ人です。もし、彼らの所に遣わされたならもっと簡単だったと言っています。同じことばを話す人の所に遣わされていくことは、同じことばを話しますが、難し事があります。
例えば、家族を思い描いてみたら良いのでは無いかと思います。人によっては家族だからこそ言えないこともあったりするのではないでしょうか。自分のやりたいことを親に言っても、理解してもらえず、葛藤したことがある人もいるのではないでしょうか。
教会の中で話していても、同じ日本語を話しているにもかかわらず、相手の言っている事がわからない事があるのではないでしょうか。
7節からを見ると、イスラエルの全家は鉄面皮だと書かれています。そして、額を金剛石のようだと言っています。彼らの頑なさをこのように表現しています。彼らはそれほどかたくなに神の声を聞きません。しかし、それでも恐れずみことばを語ることを主はチャレンジされます。彼らが聞いても聞かなくても主のみことばを語るのです。2テモテ4:2には「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」とあります。そして、加えて「すべてのことばを、あなたの心に納め、あなたの耳で聞け。」と言われています。イエス様も毎朝さみしい所に出かけていき、そこで父の心を受け取り、それを流し出していました。私たちも日々、このことが必要です。

・苦々しい思いで出て行く:12-15節
主は再びエゼキエルに霊を注ぎます。この霊によってエゼキエルは引き上げられます。その時、ケルビムの存在を見ます。天での満ち満ちた賛美の様子があります。しかし、一気にエゼキエルの霊は持ち上げられ、苦々しい思いになったと書かれています。素晴らしい礼拝が終わるときの寂しさに似ています。また、キャンプで満たされた思いになった後、普段の生活に戻るときのようです。
その後、エゼキエルは出て行きます。場所はテル・アビブですが、これはイスラエルのテル・アビブではありません。ケバル川のほとりにある町です。そこでエゼキエルは何もできず一週間が過ぎています。

・イスラエルの家の見張り人:16-21節
主の臨在に圧倒され七日目の終わりになり、主からのことばがありました。それはエゼキエルを見張り人としたということです。とりなし手であり、祈りの人の呼び名です。正しいものと正しくないものを見分けます。人々に単に神のことばを伝えるのではなく、彼らの苦しみや痛みを理解した上で、それでなおみことばを語り続けます。
私たちも見張り人として召されています。第一には自分の心を見張る必要があります。次には家族です。そして、私たちが所属するコミュニティー、職場や学校、そして地域の見張り人です。
歩きながら、仕事や勉強の合間、家事の最中でもみことばを口ずさみ、置かれている所で見張り人としての働きをなすことができます。
時に私たちは、自分の語った福音で人々が悔いあらためなかったら、がっかりしたり腹を立てたりすることがあるかもしれません。しかし、救いは主のものです。人を説得して救いに導くことはできません。
だからといって、福音を語らないという選択は間違っています。私たちは人を信じさせるのではなく、たとえ何も得られなかったように見えても、福音を語り続ける必要があります。
語らなかったらそれは、私たちの責任です。語ってそれに従わないのは彼らの責任です。だからと言って、彼らは敵になったわけではありません。自分ではなく他の人が伝えた福音によってイエス様を信じることができるように、また、どのような方法ででも救われるようとりなしていく必要があります。

・谷間での主の現れ:22-27節
エゼキエルは谷間に導かれます。主のみことばに従っています。するとどうなったでしょうか。主の栄光が現されました。自分のしたいことではなく、主のみことばに従うとき、このような祝福があります。死んだような状態の谷間で、主はエゼキエルに霊を送られ、立ち上がらせてくださっています。どうなるのかと言えば、家に閉じこもれと言われます。せっかく谷に出て行ったのに、閉じこもらなければなりません。常識では理解できないかも知れませんが、主のことばに従う方がいつも正しいのです。しかも、主が舌を上あごにつかせ、話せなくさせます。しかし、時が来ると話せるようにさせてくださいます。その時には大胆に主のことばを語る必要があります。
バプテスマのヨハネの父、ザカリヤも一時、主によって話せなくなりましたが、「子どもの名は何か」と聞かれ、書き板に「ヨハネ」と書いたとき、話せるようになりました。
黙ることは時に話すよりも辛いことがあります。骨が痛みます。しかし、主が黙れと言われたなら、とことん黙る事が必要です。しかし、その期間、何もしないのではなく、みことばをじっくりと蓄え、その時が来たら解き放つことができる準備を怠ってはいけません。

(5)ノートに記す

文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
 ・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
 ・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
 ・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
 ・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
 ・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
 ・【祈り】実行できるように祈りましょう。

(6)祈り

実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。

(7)分かち合う

ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。

1件のコメント

  1. みことばを行うことができるように、時が良くても悪くても福音を伝えることができるように祈ります。

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