シャローム!
今日からはイザヤ書の後半を三つに分類した中の第二部の部分になります。今までは主のご計画によって、ペルシヤのクロス王がバビロンに捕囚されているイスラエルの民を解放して帰還させる事が書かれていました。
今日からはその神様のご計画がどのように実行され、成就していくかを見ていきます。それを実行するのはまことの救い主、イエス・キリストです。
今日の通読箇所:イザヤ書 49章〜51章
■アウトライン
●忘れない:49章(エペソ人への手紙)
・生まれる前から私を召す:1-3節
・訴えと報酬は神と共に:4節
・帰還と救い:5-6節
・イスラエルを贖う聖なる方:7-12節
・主の慰めとあわれみ:13節
・主は私を見捨てた:14節
・あなたを忘れない:15-21節
・わたしが主であることを知る:22-26節
●侮辱:50章(ピリピ人への手紙)
・わたしが来たとき誰もいない:1-3節
・弟子の舌:4-6節
・顔を火打ち石のようにする:7-9節
・燃えさしを身に帯びる:10-11節
●:51章(コロサイ人への手紙)
・主の園のように:1-3節
・とこしえに続く義:4-8節
・さめよさめよ:9-11節
・なぐさめてくださる主:12-16節
・滅亡と破滅ききんと剣:17-20節
・背中を地面のように:21-23節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【49章】忘れない(エペソ人への手紙)
・生まれる前から私を召す:1-3節
全世界に向けて呼び掛けられています。ここの「私」はイザヤであると同時に、イエス様を啓示しています。もちろん、私に関することでもあります。
イエス様ははじめから、救いのご計画をもっておられました。そして、その実現をされました。ここに書かれている通りの救い主がベツレヘムでお生まれになりました。
・訴えと報酬は神と共に:4節
主は地上に来られたことを「無駄な骨折り」と感じておられました。福音を語り、奇跡を行い、救いを持たしたにもかかわらず、多くの民、そして弟子までもがイエス様から離れていきました。
私たちも同じような思いをしたことがないでしょうか。福音を語っても語っても救いが起こされない。教えても教えてもまた同じ質問をされる。奉仕し続けても何の変化もない。その時、このみことばを思い出しましょう。イエス様はただ、父の使命を全うすることにフォーカスされました。自分がどう思うかではなく、父がどう思われるかを優先させることが大切です。
・帰還と救い:5-6節
天の父はイエス様を用いられました。ヤコブ、つまりイスラエルの民をご自分の所に帰らせました。イエス様が宣教をしたのはイスラエルの失われた民に対してです。イエス様のところに異邦人の女性が来たときにも、イエス様は無情に見えるほどきっぱりと断りました。しかし、女性の「テーブルから落ちるパンくずでもいいから」という信仰に憐れみの心が動かされ、救いをもたらしてくださいました。異邦人に救いが及ぶのはイエス様の復活の後、聖霊様が注がれて弟子たちによってなされました。
・イスラエルを贖う聖なる方:7-12節
イエス様は人にさげすまれました。ご自分の国に来られ、ご自分の民に愛を注ごうとされたのに、拒否されました。
しかし、敵のように見えるヘロデやピラトの「十字架につけろ」ということに自ら従われました。死に至るまで従順なお方でした。
このお方の従順を見て、地の王たちはイエス様に向かってひれ伏します。事実、イエス様の十字架の死の瞬間を見た者は「この方はまことの救い主だった」と言っています。
8節には主の恵みが書かれています。2コリント6:2では「今は恵みの時、今は救いの日」と書かれています。
9節では、主は捕らわれ人に「出よ」と言われます。捕囚の民はどれほど慰められたでしょうか。長年放置していた自分たちの土地の心配をしていたかもしれませんが、主が10節にあるような保証をして下さっています。
そして、今まで何度も出てきた、主が離散した民を集められるという約束です。北(ロシア)と西(ヨーロッパ)、シニムの地(東方、アジアの方面)から集められます。
・主の慰めとあわれみ:13節
主がご自分の民を慰められるとき、天地も喜びます。すべての被造物は神の子のあらわれを待っています。
また、アダムが罪を犯したので地は呪われました。ところが、第二のアダムであるイエス様の血潮によって地は祝福の地と回復されます。
・主は私を見捨てた:14節
これはどういうことでしょうか。エルサレムが異邦人によって踏み荒らされ、人が住めなくなった時の嘆きです。
・あなたを忘れない:15-21節
しかし、主はご自分の民を決して忘れることはされません。母が子を愛する以上の愛で私たちを愛して下さいます。
そのことの保証として、16節にあるように「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ」とあります。これは当時の契約のしるしとして行われることです。ナイフで手を切り、そこに灰をすり込み、その傷跡を見せ合って契約が有効であることをお互いで確認します。
主は私たちと永遠の契約を結んで下さっていることを感謝します。
そして、イスラエルの子らが廃墟となったエルサレムにやってくると預言されています。その数は多すぎて「もっと場所が必要だ」というほどです。お互いに「誰だろう」という状況ですが、外国で生まれ育った離散した民が一同に帰ってきたときの様子です。
この預言は何度かにわけて成就されますが、顕著なものとして、1948年のイスラエル建国があげられます。この事は、イエス様の再臨の時に完全に成就します。
・わたしが主であることを知る:22-26節
主は、離散したイスラエルの民が住む土地の指導者が、帰還する事を応援すると語られています。出エジプトのときも、エジプトの民は好意を持ってイスラエルの民を送り出しました。バビロン捕囚もクロス王によって解放されました。また、現在もアーリア(帰国民)をサポートする数々の団体があります。主の約束は成就します。
そして、すべてが整って主が戻ってこられます。王の王、主の主、まことの救い主が来られます。そして、民はイエス様を伏し拝むのです。今までイスラエルから奪った者たちは王によって取り除かれます。主の復讐です。そのことを通して、主が偉大なお方であることを世に示されます。
【50章】侮辱(ピリピ人への手紙)
・わたしが来たとき誰もいない:1-3節
「あなたがたの母」とありますが、これはイスラエルの先祖の事です。主は「あなたがたの母を一度も追い出したこともないし、離婚状も与えたことはないでしょ?」と言われています。むしろ、自分たちの咎のために売られ、背きの罪のために追い出されたと言われています。
主は呼ばれましたが誰もいません。覚えているでしょうか。主は至る所で人が叫ぶときに答えてくださいます。これが救いです。その応答がありません。主の主権を認めていません。
自分たちをバビロンに追いやったのは主に力がないからだと思っていますが、それは大きな勘違いです。それは主のご計画です。
・弟子の舌:4-6節
天の父はイエス様に弟子の舌を与えられました。イエス様ご自身も父のことばを地上で語れていました。弟子の舌です。また、イエス様はことばで人々をいやし、また、死人をも生き返らせました。また、イエス様はいつも朝早く、さみしい所に一人に行かれていました。父に祈りを捧げるためです。そして、その日一日の働きで何をするべきか、誰に何を言うべきかを父に聞きました。そして、そのことばに従われました。
そのような従順な姿を取られますが、人からは裏切られます。このような侮辱にどう対処されたのでしょうか。
・顔を火打ち石のようにする:7-9節
主が助けてくださるので、イエス様は侮辱されないと書かれています。確かに事実として、人から侮辱されていますが、それを内側に入れなかったのです。イエス様は義を人に求めませんでした。天の父に求められます。
私たちも人から侮辱されることもあるかもしれません。もちろん、改善するべき事はそのことばを受け入れて改善する必要があります。しかし、必要のない、人格を否定するようなことばは受け入れないようにしましょう。
・燃えさしを身に帯びる:10-11節
主を恐れ、主のみことばに従うこと、これが私たちが地上で行うすべてです。主に拠り頼む事ができるのはこの上もない幸せなことです。
自分たちの明かりをともしてはいけません。言い換えるなら、自分の義を主張してはいけません。主の光、主の義に生きることが大切です。
【51章】:51章(コロサイ人への手紙)
・主の園のように:1-3節
義を追い求めることはイエス様の命令です。「神の国とその義とを、まず第一に求めなさい」と言われています。義を追い求める者は主を尋ね求める者です。主に聞く者です。
その霊として、アブラハムをあげています。アブラハムは一人の人でした。しかし、神様の召しを受け、あなたの子孫が海の砂、空の星のようになると約束され、本当にそうなりました。アブラハムの力ではなく、主の力によってそうなりました。
主は荒野をエデンのようにし、砂漠を主の園のようにして下さると約束されています。人の力ではこの事ができません。たった一人の人から国家を作れるほどの子孫が生まれました。主にできないことは何一つありません。
また、この荒野、砂漠は実際の土地に関してですが、同時に私たちの内なる人をも指しています。主は私たちの頑なでどうしようもない、荒野や砂漠のような乾ききった心をエデンのように回復して下さいます。
・とこしえに続く義:4-8節
主の教え、福音がどのように広がっていくかを見ることができます。また、その影響力を知ることができます。その力は諸国の民に留まらず、地、そして天までに及びます。古い天地が過ぎ去り、新しい天と新しい地があります。そのようにして、主の救いは永遠に続き、主の義は絶えることがなくなります。
・さめよさめよ:9-11節
ここではイスラエルの民が目覚めよと呼び掛けています。彼らの先祖たちが主の力によってなしてきた様々な奇跡を思い起こせと言っています。
ラハブが出てきますが、これは遊女ラハブではなく、エジプトの別名です。また、竜ということばもでてきます。以前にもお伝えしましたが、エデンの蛇、ヨブ記のレビヤタン、イザヤ書の竜、あらゆる箇所にでてくる蛇、そして黙示録の竜、それらはサタンの姿です。その霊性がラハブ、すなわちエジプトに働いています。その証拠に、エジプトの王ファラオの王冠には蛇がついています。
そのようなサタン、蛇の頭を打ち砕くのはイエス様です。
そのようにして、主に贖われた者たちは帰ってきます。かつて彼らの先祖はエジプトから帰ってきました。今はバビロンから帰ってきます。そして、私たちは主の元へと帰って行きます。これからも多くの人が自分の造り主の所に帰っていくでしょう。
・なぐさめてくださる主:12-16節
主ご自身が慰めて下さいます。それなのに、私たちは人を恐れてしまいます。私たちが恐れるのはただ主お一人です。私たちは主の慰めを受けるからこそ、恐れが取り去れます。全き愛は恐れを締め出します。天地を造られた主、海をわけられた主が私たちの神です。そして、神のことばを私たちの口に置いて下さいます。ローマ10:8にはこのように書かれています。「では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが述べ伝えている信仰のことばのことです。」
・滅亡と破滅ききんと剣:17-20節
ここでは、主ご自身が「目覚めよ」と言われています。立ち上がれと言われいます。主はバビロンがエルサレムを取り囲み、エルサレムを破壊したことを思い起こさせています。捕囚先での70年は過酷なものでした。主が許されたことではありますが、主もエルサレムが破壊されることを悲しみ、怒っておられました。
・背中を地面のように:21-23節
主はご自身の怒りをイスラエルから取り去られます。イスラエルをまるで地面のように踏みつけたバビロンに怒りを注がれます。
主のお許しでバビロンはイスラエルを捕らえました。しかし、彼らは思い上がってしまい、自分たちが主に変わってイスラエルの民をさばけると思ってしまいました。そこに主の怒りが下りました。
イエス様も私たちの身代わりとなり、罪を背負って下さった故に、父の怒りがイエス様の上に下りました。罪から来る報酬は死です。イエス様には罪がなかったので死ぬ必要はありませんでした。しかし、すべての人の罪を背負われた所に父の怒りが下り、よみに下られました。ところがそれで終わりではなく、イエス様は死から復活されました。そして、私たちの内から汚れを取り除き、聖め続けて下さっています。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
慰めてくださる主に感謝します。
主の御名に信頼し自分の神により頼むことができるように祈ります。